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【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳!(第3回)クリミア半島は、ウクライナとは歴史的に何の関りもなかった! ウクライナは、スターリンの意のままに形作られた人工国家だった! 2024.10.12

記事公開日:2024.10.12 テキスト
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(文・IWJ編集部)

特集 ロシア、ウクライナ侵攻!!|特集 IWJが追う ウクライナ危機

 タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳(第3回)をお届けまします。

 第1回と第2回を出して以降、経営危機、マンパワーの欠如、ワクチンを4回接種した上で、新型コロナに岩上安身が感染して以来、体調を大きく崩したことなど、諸般の事情があり、大変、間が空き、遅れてしまったこと、おわび申し上げます。翻訳の時間が遅れてもなお、日本人の読者が日本語で読む価値は十分にあると確信しています。今後、連続してお届けしていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 翻訳の時間が遅れてもなお、日本人の読者が日本語で読む価値は十分にあると確信しています。今後、連続してお届けしていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 この歴史的インタビューは、ロシアと米国の関係史の、一方の当事国であるプーチン大統領の貴重な証言を多く含んでいます。

 インタビュー翻訳の第3回では、なぜ、ウクライナにロシア系住民が多く住んでいるのか(ロシア語を母語とするロシア語話者は、ウクライナの総人口の約3分の1ともいわれる)、また、なぜ、ウクライナは、ロシアとだけではなく、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドなど、周辺国と領土問題を抱えているのか、そのソ連建国の歴史からプーチン大統領は語っています。

 そこから見えてくるのは、ロシア革命という大きな権力の転換とともに、レーニンとスターリンという2人の権力者によって、もともと、言語的にも宗教的にもロシアとほぼ一体だったウクライナとの境界線が人工的に線引きされてしまった歴史です。

 こうしてでき上がったウクライナ・ソビエト共和国は、ソ連指導部の方針でウクライナ化が進められました。

 それでも、ソ連崩壊当時、ウクライナでは人口の90%以上が、ロシア語を話していました。ウクライナ現地の約3分の1の人が何らかの家族や、仕事上の関係、友情の絆を持っていました。

 共通の文化、共通の歴史、共通の信仰、何世紀にもわたる単一国家としての共存、深く相互に結びついた経済という状況が、根本的に変わり始めるのは、1991年のソ連崩壊以降です。

 そこに働いた力は、今度は、ソ連指導部ではなく、米国とNATOでした。

 第3回からは、翻訳の対象のテキストを、タッカー・カールソンのインタビューの英語通訳による英語版トランスクリプトを中心としながら、東京都市大学の青山貞一名誉教授によるロシア語からの翻訳とロシア語原文を適宜参照しています。

 インタビュー翻訳の第1回は、以下から御覧になれます。

※タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20240210#idx-2
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/53197#idx-2

 インタビュー翻訳の第2回は、以下から御覧になれます。

 なお、河川の右岸・左岸は、下流に向かって左側を左岸、右側を右岸とする考え方が正しいのですが、第2回では、上流に向かって左岸・右岸を捉えたために、注16と注17で間違った記述になってしまいました。お詫びして訂正します。

誤)そして32年後、ポーランドとの間に、彼らが恒久平和と呼んだ講和条約が結ばれました。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川左岸全体(訳注16)がロシアに渡ったのです。そしてドニエプル川右岸一帯(訳注17)は、ポーランドに残りました。エカチェリーナ2世の統治の下、ロシアは南部と西部を含むすべての歴史的な土地を取り戻し、これは(ロシア)革命まで続きました」。

(訳注16)(訳注17)ドニエプル川左岸全体は、トランスクリプトでは、「the whole left bank of Dnieper」となっている。ドニエプル川右岸一帯は、「the whole right bank of Dnieper」となっている。
 通訳の英語も、確認したところ、このとおりに通訳している。通常、ロシア領となったのは、北極を北にしてドニエプル川を見た場合、右岸全域であり、ポーランドに残ったのは、ドニエプル川の左岸である。

 考えられるのは、モスクワから見て、黒海方向を基準として、左右の位置づけを逆に考えたという可能性がある。これ以前にも、プーチン大統領が、ドンバス地方を「西ウクライナ」と述べた点を考慮すると、この可能性は高い。もう一つの可能性は、単純な通訳の間違いだが、これは考えにくい。

正)そして32年後、ポーランドとの間に、彼らが恒久平和と呼んだ講和条約が結ばれました。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川左岸全体がロシアに渡ったのです。そしてドニエプル川右岸一帯は、ポーランドに残りました。エカチェリーナ2世の統治の下、ロシアは南部と西部を含むすべての歴史的な土地を取り戻し、これは(ロシア)革命まで続きました」。

 以下から第3回インタビュー翻訳となります。


タッカー氏「聞いてもいいですか? ウクライナ、確かに、ウクライナの一部、ウクライナ東部は、何百年も前からロシアが実効支配しています。あなたが24年前に大統領になったとき、なぜ併合しなかったのですか? あなたは核兵器を持っている。彼らには核はない。実際、そこはあなた方の土地だ。なぜそんなに長く待ったのですか?」

プーチン大統領「言っておきますが、私はこのために来たのです。このブリーフィングは終わりに近づいています。退屈かもしれませんが、多くのことを説明しています」

タッカー氏「退屈ではないですよ。ただ、それとどういう関連があるのかわからないのです」

プーチン大統領「それは、良かった。そう言っていただけると、とてもうれしいです。ありがとう。

 第二次世界大戦前、ポーランドはヒトラーに協力しました。ヒトラーの要求には屈しなかったものの、ヒトラーと一緒にチェコスロバキアの分割(訳注1)に参加したのです。

 ポーランドは、ダンツィッヒ回廊(訳注2)をドイツに譲渡していませんでしたからね。それがヒトラーを怒らせ、ヒトラーがポーランドを攻撃して、第二次世界大戦を開戦するきっかけになったのです」

(訳注1)1938年のチェコスロバキアのズデーテン併合を指す。ドイツは、ドイツ人居住地域を手がかりに、オーストリアを併合し、次にドイツ系民族が多く住むチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。
 ハンガリーとポーランドも、それぞれ、スロバキアとカルパティア・ルテニア地域、テッシェン地域の割譲を要求した。1938年9月、英・仏・独・伊によるミュンヘン会談で、ドイツの要求が受諾され、ドイツはズデーテン地方を併合した。
参照:

(訳注2)バルト海に面した港湾都市ダンツィッヒはドイツ名で、現在のポーランド名はグダンスク。第一次世界大戦後、西プロイセンがポーランドに割譲された。そのため、ドイツは本国とドイツ領プロイセンが分断された。
 もとよりドイツ人が多く居住していたため、ドイツとしては不満であった。ヒトラーは、ポーランドにダンツィッヒの返還と、ダンツィヒ回廊の通行を求めたが、拒否されたため、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻し、英仏がこれに宣戦布告して、第2次世界大戦が始まった。
参照:

プーチン大統領「1939年9月1日、開戦の相手国がポーランドだったのはなぜか? ポーランドは妥協しないことが判明し、ヒトラーはポーランドに関する計画を実行に移すしかなかったからです。

 ところで、私は複数のアーカイブ文書を読みましたが、ソ連は、非常に誠実に振る舞いました。ソ連は、チェコスロバキアを助けるために、ポーランド領土を通過する許可をポーランドに求めました。

 しかし、当時のポーランド外相は、もしソ連の飛行機がポーランド上空を飛んだら、ポーランドの領土上空で撃墜されるだろうと述べたのです。

 しかし、そんなことは問題ではありません。重要なのは、戦争が始まって、ポーランドは、チェコスロバキアに対して進めてきた自らの政策の犠牲になったということです。

 よく知られたモロトフ=リッベントロップ協定(訳注3)により、西ウクライナ(訳注4)を含む領土の一部がロシアに譲渡され、ロシア(当時はソ連)は歴史的な領土を取り戻しました。

 第二次世界大戦と呼ばれる大祖国戦争に勝利した後、これらの領土は最終的にロシアのものとして、ソビエト連邦に帰属することになりました」

(訳注3)別名「独ソ不可侵条約」。1939年8月23日に調印された。ソ連の首相兼外相モロトフと、ナチスドイツの外相リッベントロップの名前からモロトフ=リッベントロップ協定とも呼ばれる。
 反目しあっていると見られた、ヨシフ・スターリンとアドルフ・ヒトラーが手を結んだことは、世界に衝撃を与えた。
 表向きは、ドイツとソ連の不可侵条約であるが、第2次大戦後に、その実態は、独ソによる東欧の分割であったことが判明している。すなわち、ソ連は、フィンランド、バルト諸国、ルーマニア東部、ポーランド東部。ドイツはポーランド西部を、それぞれ分割し、併合した。
参照:

(訳注4)1917年のロシア革命を機に、ウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言した。いずれの勢力も互いに対立し、またペトログラート(サンクトペテルブルク)のボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に10月革命以降、激しい内戦状態に陥った。
 1917年から1918年にかけて、独立を宣言した主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてのウクライナ人民共和国、西ウクライナには西ウクライナ人民共和国があげられる。ロシア革命直後、ロシアの帝国主義から解放された時点でも、東西のウクライナは、ひとつの民族国家ではなかったのである。
参照:

プーチン大統領「ポーランドはその代償として、もともとドイツ領だった土地を手に入れました。ドイツの東部です。これらは現在、ポーランド西部の土地となっています(訳注5)。もちろん、ポーランドはバルト海とダンツィヒへのアクセスを取り戻しました。ダンツィヒは再びポーランド名となりました(訳注6)」

(訳注5)第2次大戦末期の1944年夏から45年春にかけて、現在のポーランド領は、ソ連によって解放された。45年2月のヤルタ会談で、ポーランドは、ソ連の勢力範囲に入ることが事実上決定した。
 そして45年7~8月のポツダム会談の決定により、ポーランド人民共和国の領土として、同国東部のウクライナとベラルーシの西部をソ連に割譲し、代わりに、ドイツ東部の一部、オドラ川以西のドイツ領であったシロンスクなどを与えられた。
参照:

(訳注6)ダンツィヒ(ドイツ名)は、バルト海に面した海港都市。中世には、ドイツ人が支配するハンザ同盟都市として繁栄した。15世紀にポーランド領に復し、貿易港として繁栄が続いた。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約では、国際連盟管理下の自由市とされた。実際にはポーランドが管理していたが、1939年、ヒトラーのドイツがその割譲を要求し、第2次世界大戦の勃発に至った。戦後、ポーランド領に復してからは、グダンスク(グダニスク)という。
参照:

プーチン大統領「このような状況だったのです。ソビエト連邦が樹立されつつあった1922年、ボリシェヴィキはソビエト連邦の建設を開始し、それまで存在しなかったウクライナ・ソビエト(社会主義共和国)を樹立したのです」

タッカー氏「そうですね」

プーチン大統領「スターリンは、これらの共和国を自治体としてソ連に加えるよう主張しました。ソビエト国家の創始者レーニンは、不可解な理由から、これらの共和国にソ連から脱退する権利を与えるよう主張しました。

 さらにまた、不可解な理由によって、彼はその新しく建設されたウクライナ・ソビエト共和国に、土地の一部を、それが一度もウクライナと呼ばれたことがなかったのに、そこに住む人々とともに、譲渡したのです。

 その土地は、ウクライナ・ソビエト共和国の一部となりました。その土地には、黒海地域も含まれていましたが、黒海地域は、エカチェリーナ大帝のもとで、ロシアが獲得したもので、ウクライナとは歴史的に何の関りもない(訳注7)ところです」

(訳注7)黒海北岸のクリミア半島は、紀元前8~7世紀以降、キンメリア人、スキタイ人、ギリシャ人、ローマ人等が居住あるいは支配した。3世紀末から11世紀にはフン族等の遊牧民が活動。10~12世紀にはキエフ・ルーシと不即不離の関係を持つが、しかし13世紀にモンゴル帝国が侵入征服し、その所領となる。15世紀前半にクリム・ハーン国として独立するが、その後、オスマン・トルコの保護国となる。
 エカチェリーナ2世(大帝)(1729-1796)は、ロシアの「啓蒙専制君主」として君臨した女帝。2次に及ぶ露土戦争 (1768~74、87~92) で、念願の黒海進出を達成し、1783年にはクリミアを完全なロシア領とした。黒海北岸のロシア化と植民を進め、黒海はロシアの内海と化した。
参照:

プーチン大統領「この地域が、ロシア帝国に返還された1654年(訳注8)までさかのぼったとしても(ウクライナは黒海地域とはまったく関係がないの)です。その領土は、現在のウクライナの3~4地域分の大きさで、黒海地域はありませんでした。完全に論外でした」

(訳注8)1654年は、コサック国家の将軍ボフダーン・フメリニーツィキーが開催したペラヤースラウ(キエフ南東部の都市)会議が行われた年。この会議で、ウクライナ・コサックがポーランドと戦うために、ロシアのツァーリから一時的保護を受けることとなった。
 これをきっかけに、ロシアは、ポーランドからのウクライナの独立戦争に介入した。
 しかし、1667年には、ポーランドとモスクワは、ウクライナを分割することに同意し、ドニエプル右岸はポーランド領に、左岸(ただしキエフを含む)はロシア領となる。ロシアは東欧における自国の勢力の拡大に成功し、18世紀末にウクライナを併合した。
 ロシア・ソ連の学界ではペレヤースラウ会議が「キエフ・ロシア時代以来、ロシアとのウクライナの再統合」と見なされ、ウクライナの学界ではポーランド隷属からモスクワ隷属への移行と解釈されている。
参照:

タッカー氏「1654年にね」

プーチン大統領「その通りです」

タッカー氏「あなたはこの地域について、百科事典のような知識をお持ちですね。しかし、大統領として最初の22年間、なぜウクライナは本当の国ではなかったと主張しなかったのですか?」

プーチン大統領「ソ連は、黒海地域を含むソ連に属していなかった多くの領土を与えられました。露土戦争(訳注9)の結果として、ロシアがそれらを獲得したある時点で、それらは新ロシア(ノヴォ・ロシア)、あるいは別のロシアと呼ばれたのです」

(訳注9)露土戦争は、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国(トルコ)の戦争で、16世紀から20世紀まで、繰り返し行われた。大小あわせて、その回数は12回を数える。不凍港を求めて黒海からさらに地中海への南下をめざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。
 1568年-1570年の戦争はロシアが勝利。
 1676年-1681年の戦争は引き分けで、ロシアによる左岸ウクライナの所有及びオスマンによる右岸ウクライナの所有を認め合った。
 18世紀前半には、ピョートル1世がオスマン帝国と戦い、黒海への出口にあたる都市アゾフを最終的に領有した。
 18世紀後半には、エカチェリーナ2世が、クリミア、カフカスを獲得。さらに、オスマン帝国とロシアの緩衝国であるポーランドの王位継承問題に端を発した戦争の結果、ロシアは黒海における艦隊の建造権や、ボスボラス海峡等の通行権等を獲得した。
 19世紀前半の戦争では、ロシアがベッサラビア(現在のモルドヴァ共和国)を併合する一方、ワラキア(ルーマニア南部)とモルドバ(ルーマニア東部)をオスマン帝国に返還。また、ドナウ川河口の諸島や東部アナトリアの城塞のロシアへの割譲等が行われた。
 19世紀後半には、英、仏、オーストリア、プロシア、サルディーニャが、オスマン帝国を支援し、クリミア戦争(広義の露土戦争のひとつとして数えられる準世界大戦)が発生。ロシアが敗北し、黒海の中立化、ドナウ川の国際管理等が行われた。
 ロシアによるボスニア・ヘルツェゴビア等のスラブ民族救済を名目とした1877年からの戦争では、オスマン帝国はバルカンの領土の大部分を失い、ロシアはバルカンにおける影響力を著しく高めた。狭義の「露土戦争」は、この時の戦争を指す。
 1914年~1918年の露土戦争は、第一次世界大戦のカフカス戦線のことである。
参照:

プーチン大統領「しかし、そんなことはどうでもいいのです。重要なのは、ソビエト国家の創始者レーニンが、ウクライナをそのように建国したということです。

 何十年もの間、ウクライナ・ソビエト共和国は、ソビエト連邦の一部として発展してきました。そしてまた、理由は不明ですが、ボリシェヴィキがウクライナ化(政策)に取り組んだのです。

 それは単に、ソビエトの指導層がウクライナ出身者でかなり構成されていたからではありません。むしろ、ソ連が追求した土着化(訳注10)という一般的政策によって説明できます。他のソビエト共和国でも、同じことが行われていたのです。これには国語と国文化の振興が含まれており、原理的には悪いことではありません。

 こうしてソビエト・ウクライナは誕生しました。第二次世界大戦後、ウクライナは、戦前にポーランドに属していた土地(訳注11)に加えて、ハンガリーとルーマニアに属していた土地の一部を譲り受けました(訳注12)」

(訳注10)「土着化」とは、ロシア帝国のくびきから自由になった諸民族をソ連に引き止めるために、スターリンが推し進めた、「民族言語を発展させ、民族語教育を普及し、民族出身の専門家を育成する」政策。1921年のロシア共産党第10回大会で「民族問題における当面の党の課題」として決議された。
参照:

(訳注11)ここがガリツイア地方だった。ガリツィア地方は、東ヨーロッパに位置し、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域で、具体的には、カルパティア山脈の北側とドニエストル川の上流域を含むエリアである。
 現在のウクライナにおいて、ガリツィア地方はリヴィウ州、イヴァーノ=フランキウシク州、テルノーピリ州を含む。
 第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、ガリツィア地方は、短期間独立したウクライナ国家の一部となったが、すぐにポーランドに編入された。
 第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツの占領、その後ソ連の占領を経て、独ソ戦の結果、ガリツィア地方は、ポーランドから独立し、ウクライナソビエト社会主義共和国に併合される。
 このガリツイア地方で独立運動を展開した人物が、ステパン・バンデラ(1909-1959)だった。
 バンデラが誕生した1909年は、ガリツィア地方は、オーストリア=ハンガリー帝国領領だった。
 幼少期からウクライナ民族主義に強い影響を受けたバンデラの運動は、ウクライナ独立運動であると同時に、ナチス・ドイツに憧れ、それと一体化したものだった。
 このナチス・ドイツと一体化したバンデラのガリツィア独立運動の思想は、現在も、ウクライナ西部の歪んだネオナチとして、連綿としてウクライナ国内に続いている。
 このバンデラ主義(ネオナチ主義)は、ウクライナの民主主義を謳いながら、ナチス親衛隊のシンボルをも掲げ、皮肉なことに、ウクライナが真の独立をするのを阻み、ウクライナ国内の多民族との共生を妨害し、欧州とロシアとの仲を引き裂くために、米国とNATOによって都合よく利用されてきた。

(訳注12)ウクライナの最も西に位置するザカルパッチャ州は、西ウクライナの一部でもあったが、カルパティア山脈という障壁により、ウクライナ以外の様々な国家に統治され続け、13世紀にはハンガリー王国に組み込まれた。
 第一次世界大戦でのオーストリア=ハンガリー帝国の敗北、ロシア帝国の崩壊で、分離独立やウクライナとの合同の動きを経て、チェコスロバキア領となる。その後、1939年には選挙によって、カルパート・ウクライナの国号で独立を宣言したが、直後にハンガリー軍が占拠した。
 1944年にソ連軍がナチス・ドイツとハンガリーを破り、この地域はザカルパート・ウクライナの国号の下で、再び独立を宣言したが、1946年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された。
 同じくウクライナ西部に位置するチェルニウツィー州は、もとはオーストリア帝国領ブコヴィナとロシア帝国領ベッサラビアを、1918年にルーニア王国が併合した地域である。
 1940年、ソビエト連邦が同地を占領し、チェルニウツィー州が設置された。第二次世界大戦中、ルーマニア王国に再獲得されたが、1944年にソビエト軍がブコヴィナ(ルーマニアとウクライナにまたがる地域の名称)を奪回した。
参照:

プーチン大統領「つまり、ルーマニアとハンガリーは自分たちの土地の一部を取り上げられ、ソビエト・ウクライナに与えたわけですが、それらは今でもウクライナの一部です。この意味で、ウクライナがスターリンの意のままに形作られた人工国家であると断言する理由は十分にあります」

タッカー氏「ハンガリーには、ウクライナから自国の土地を取り戻す権利があり、他の国々にも1654年の国境に戻る権利があると思いますか?」

プーチン大統領「1654年の国境に戻るべきかどうかはわかりません。しかし、スターリンの時代、いわゆるスターリン政権を考えると、多くの人が主張するように、人権侵害や他国の権利侵害が数多く見られました。そのような権利がなくても、彼らは自分たちの土地を取り戻すと言うことはできます。それは少なくとも理解できます」

タッカー氏「ビクトル・オルバン(ハンガリー首相)(訳注13)にウクライナの一部を持っていってもいいと言いましたか?」

(訳注13)訳注14で詳述するように、ハンガリーは第一次世界大戦で領土を周辺諸国に取られ、ウクライナを含む、それら周辺諸国に住むハンガリー人が取り残された。
 ハンガリーのオルバン首相は、「外国で暮らすハンガリー系住民にパスポートを発行し、投票権を与えること」を目的に、一連の法律を成立させ、周辺国の同胞たちに自治権を模索するように呼びかけている。それとともに、ウクライナ等隣国のハンガリー系住民の居住地域に財政支援を行っている。
 なお、ロシアによるウクライナ侵攻に関しては、他の欧州諸国がウクライナに武器提供などを行い、ロシア包囲網を敷いたのに対して、オルバン首相は、戦争への関与を否定し、軍や兵器の提供はしないと明言した。
 また、同氏はEU議長国に就任した翌日の2024年7月2日に、ウクライナのゼレンスキー大統領と、7月5日にロシアのプーチン大統領と会談を行い、ウクライナ和平について話しあった。
 さらに、2024年7月5日付8日更新の『ニューズウィーク』に、オピニオン記事を掲載し、「我々の任務は、NATOを平和のためのプロジェクトとして維持すること」と主張している。御存知の通り、現実のNATOはウクライナに武器を支援し続け、対ロシアの「代理戦争」を間接的に戦い、「平和」のためのプロジェクト」とは正反対の「代理戦争のためのプロジェクト」に熱中している。
参照:

・「平和使節」を自認し、EU・NATO加盟国で、唯一、断固として『和平』を主張し続けるハンガリーのオルバン首相が、ロシアを訪問し、ウクライナ紛争の終結についてプーチン大統領と会談! 記者会見でプーチン大統領は「キエフは最後まで戦争を放棄するつもりがないとみなしている」と指摘! オルバン首相は「ハンガリーは、EU理事会の議長国としての主要任務について、欧州における平和の確保だと考えている」と表明! 先日、オルバン首相の訪問を受け入れたウクライナ外務省は、オルバン首相が「ウクライナの承認や調整なしに」ロシアを訪問したと批判! 喧嘩腰はまったく消えず!(日刊IWJガイド、2024.7.10号)
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20240710#idx-1
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/53667#idx-1

プーチン大統領「いいえ。彼に言ったことは一度もありません。一度もです。そのような話をしたこともない。しかし、そこに住むハンガリー人が自分たちの歴史的な土地に戻りたがっていることは確かです(訳注14)」

(訳注14)ハンガリーは、第一次大戦後に独立する際、強国化を恐れた西欧諸国と結んだトリアノン条約により、領土の3分の2を失った。国境線の引き直しで、当時のハンガリー系住民約1500万人のうち、約300万人がウクライナ、ルーマニア、セルビア、スロバキアなどの隣国に所属することになったとされる。
 このトリアノン条約によって、トランシルバニア地方はルーマニア領となり、多くのハンガリー系住民がルーマニアの統治下に置かれることになった。
 これまで、ハンガリー政府が隣国に住むハンガリー系住民に関与することは外交上タブーだったが、オルバン首相は、2011年の新憲法に「ハンガリー政府は国境を越えてハンガリー系住民の運命に責任を持たなければならない」と明記した。
 オルバン氏は、祖先が1920年以前にハンガリー王国内に住み、一定のハンガリー語を話せる住民に、市民権を与える法律を制定。他国のハンガリー系住民はハンガリー政府に税金を支払わなくても、選挙権などを得られることになった。
 さらに、オルバン氏は、ハンガリー系住民の居住地域に財政支援を始めた。
 例えばウクライナのザカルパッチャ州で、オルバン政権は、ハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、ハンガリーの国旗が掲揚されている地域もある。
参照:

(第4回へ続く)

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