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3・1運動の「宣言書」の現代日本語訳の意義・東アジアの平和、人権、民主宣言~外村大・東京大学大学院教授による解説 2019.3.12

記事公開日:2019.3.12 テキスト
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(文:外村大教授、現代語訳:3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン、リード・記事構成:IWJ編集部)

特集 平成から令和へ天皇と日本の歴史を考える

 最近、日本の外務省が韓国への渡航者に対して異例の注意喚起を行ったことは、大手メディアの報道によって多くの方々に周知されたように思われる。その注意喚起なるものは、今年は日本が植民地支配していた朝鮮で、3・1独立運動が起きてから100年となる、今年3月1日に韓国各地で開かれるデモに日本人が巻き込まれる危険があるというものだった。

 NHKは、「27日に開かれた自民党の外交関係の合同会議で、出席した議員からは『韓国で日本人がデモに巻き込まれたり、危害を加えられたりすれば、悪化している日韓関係は破滅的になる』などと、懸念する声が相次ぎました」などと、さも正当な懸念が自民党より発せられたように報じた。

 当該記事は、さらに、河野太郎外相が上記の自民党から発せられた「懸念」を、そっくりそのまま韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相に対して伝えたことにも、何の疑問も呈していない。

 しかし、朝鮮3・1独立運動を記念する集会が開かれるからといって、すぐさま「日本人がデモに巻き込まれたり、危害を加えられたり」すると決めつける根拠は何だろうか。朝鮮の独立運動が、日本を恨み、敵視する暴徒によるものだったという根拠のない思い込みをもとに、現在でも同じようなことが起きると妄想をたくましくしているだけなのではないか?

 そもそも、政府・与党は、在韓の邦人がデモによって危害を加えられるといった懸念を抱いているのなら、なおのこと、隣国との険悪なムードを一刻も早く解消すべきではないか。また、メディアは日韓関係の改善に向けて、必要な情報発信を試みるべきであって、まして険悪なムードを助長しかねない報道の仕方を見直していく必要があるはずではないか。このように次々に疑問が浮かんでくる。

 その疑問に答えるためにはまず、3・1独立運動に参加した人々が、どういった主張をしていたのか、先入観を排して紐解かなくてはならない。具体的には、1919年3月1日に読み上げられた「宣言書」をじっくり読む必要がある。しかし、この宣言書は、いくつかの刊行史料集で漢文調の原文を尊重した日本語訳が所収されているが、史料読解になじみのない人にとっては、必ずしも読みやすいものではない。

 しかも、そうした刊行物として、容易に読めるようになったのは、意外にも1970年代のことなのである。すくなくとも、1945年に連合国に降伏するまで、ほとんどの日本人は3・1独立運動の「宣言書」を読んだことがなかったのである。現在でも「宣言書」の内容が周知されているとは言い難い。

 そこでぜひとも紹介したい試みがある。『週刊金曜日』第1221号(2019年2月22日)では、「100年前のろうそくデモ 3・1朝鮮独立運動」という特集が組まれ、3・1独立運動に際して読み上げられた「宣言書」が現代日本語に訳された。

▲『週刊金曜日』第1221号(2019年2月22日)

 この現代語訳の意義は大きいと感じ、週刊金曜日編集部にIWJへの転載を依頼し、同誌での解説を担当された東京大学総合文化研究科の外村大(とのむら・まさる)教授にご寄稿をお願いした。現代語訳の転載を許可くださった週刊金曜日編集部、および転載に際してあらためて解説文をお寄せくださった外村教授に感謝申し上げる。

 この記事を目にされた方には、「もし1919年の段階で日本人のほとんどが、3・1独立運動の『宣言書』をきちんと読んでいたら、1945年の破局は避けられたのではないか」という思いで、外村教授の解説を手がかりに、「宣言書」の現代日本語訳を読んでいただきたい、と切に願う。そして、そうした歴史をふまえれば、いまだに日本人は、根拠のない思い込みをもとに隣国に接するという悪癖を克服していないのではないか、と考えるきっかけとなれば、この記事の目的は果たされる。

 宣言書の現代語訳中には「道義を見失った日本を正しい道に戻して、東アジアをささえるために役割を果たさせよう」との一節がある。そうした朝鮮独立運動家による100年前の訴えに、わたしたちが正面から向き合わねばならない段階にきている。(以上、IWJ編集部)

現代日本語訳作成の経緯

 1919年3月1日に朝鮮民族代表33人の名をもって発表された文章はしばしば「独立宣言」とか「独立宣言文」と呼称され、そのように覚えている人が多い。朝鮮独立を宣言したものであることは確かであり、独立宣言と呼ぶこと自体はもちろん誤りではない。ただし、文書の表題は「宣言書」である。そして、その文章は、民族独立がなぜ必要かに触れて、人間の平等や民族の文化や歴史の大切さ、暴力による圧政の否定、東アジアの友好親善について説くものでもある。いわば東アジアの平和、人権、民主宣言というべき要素も持っている。

 いわゆる歴史問題の日韓間の葛藤が続く中で、ここ数年は、3月1日の韓国での大統領の演説が注目されるようになっている。1919年から100年目となる今年はとりわけ注目が高かったようである。しかも、一部では、韓国における反日気運の高まりを懸念する声もあり、日本政府・外務省は、韓国に旅行する日本人に対して注意喚起を促した。

 だが、そもそも1919年3月1日の「宣言書」は、日本人を責めてはいない。そこにあるのは、両民族の本来の友好のためには民族独立が達成されなければならず、それを認めず軍国主義を続けようとする日本が正しい道に戻るべきだという忠告である。この忠告が妥当性を持つことは、1945年8月以降に生きている日本人のほとんどみなが同意するであろう。

 しかし、そうした「宣言書」の内容は、現代日本ではあまり知られていない。義務教育の歴史の教科書でも3・1運動についての記述があるが、「宣言書」の内容についてまで触れていないし、ほとんどの教員はそれを詳しく教えることはないであろう。そうしたなかで、3・1運動やそれを記念する動きは日本・日本人を攻撃しようとするもの、という意識が形成されてしまうのは問題である。そこで多くの人にまず、3・1運動の「宣言書」を読んでもらう必要があるのではないかと考えた。

 だが「宣言書」は、原文が朝鮮語であり、かなり難しい漢字語が使われている。日本語訳もいくつかあるが、漢字語を生かした(原文の格調高い名文を生かした)訳文になっていて、現代日本の大人が読んでもなかなかすぐには理解できない。そこで、なるべく中学生でもわかるような文章にして、多くの人に読んでもらえないか、と考えた。

 ちょうど、3・1運動100年を記念する東京での集会を準備していた、3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン実行委員会が、このプランに賛同し、実行委内部で検討して、「宣言書」の現代日本語訳が完成した。やや、意訳も含むし、これでもまだわかりにくい文章もあるかもしれないが、「宣言書」が伝えようとしてことが、現代の日本社会で遅ればせながら伝われば幸いである。

▲東京都新宿区の新宿東口アルタ前にて開催された「3・1朝鮮独立運動100周年東京行動」(2019年3月1日、IWJ撮影)

 とりわけ、歴史教育の場で活用されればとも願う。問いを立て、史料にあたって調べるという、主体的な学びが提唱されている今日、「宣言書」は、格好の歴史の授業の題材になるのではないだろうか。反日云々という日本のマスコミ報道や奇妙な書籍も読みながら、果たして事実はどうかなどを調べて議論させることなどは、フェイクニュースに騙されない、情報リテラシーを養うことにもつながるだろう。

これまで「宣言書」の日本語訳

 前述のように、「宣言書」はこれまでも、日本語の訳文がある。もっとも早い段階のものは、3・1運動が展開されている時点での日本帝国朝鮮総督府の警察当局によって作成されたものがある。これは、1941年に刊行された『子爵斎藤実伝』に収録されている。

 斎藤実は3・1運動後、朝鮮総督を務めた人物で、行政内部の多大な史料を収集保存していた。訳文は当然、斎藤実の手元にも届けられ、彼の死後に伝記執筆にあたった者がこれを見て、原稿に全文収録したと考えられる。

 この警察当局の日本語訳は、阪谷芳郎(大蔵大臣など歴任した後、朝鮮総督府官僚経験者などが集う朝鮮中央協会の会長もつとめた)の手元にもあり、1964年に刊行された謄写版刷の資料集『朝鮮近代史料 : 朝鮮総督府関係重要文書選集 万歳騒擾事件』(友邦協会朝鮮史料編纂会)にも収録されている。1966年に刊行された、姜徳相編『現代史資料 三・一運動』(みすず書房)も、警察当局の訳文のものである。

▲朝鮮総督府(Wikipediaより)

 日本の警察当局以外の日本語訳としては、まず、日本帝国敗戦の翌年、作家の金達寿ら在日朝鮮人が創刊した日本語雑誌『民主朝鮮』第1号(1946年4月号)に掲載されたものがある。これは金哲「三・一とはどんな日か」のなかで引用されてたものである。また、『歴史評論』1948年6月号には、3・1運動についての石母田正のエッセイ「堅氷をわるもの―朝鮮独立運動史万才事件の話」が載せられており、それに続いて、資料として、「独立宣言」の訳文が掲げられている。ついで、1964年に出版された在日朝鮮人の民族団体が出版した『統一朝鮮年鑑 1964年版』(統一朝鮮新聞社)の朝鮮史にかかわる主要文献資料のなかに、3・1運動の「宣言書」の訳文が含まれている。以上についての具体的な翻訳担当者は不明である。また、1971年に刊行された、山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波新書)のなかでも、全文が日本語に訳されて引用されている。これは山辺の訳によると考えられる。ついで、1972年には、在日朝鮮人の歴史研究者である、姜徳相によって訳がなされている(朴殷植『朝鮮独立運動の血史』のなかに「宣言書」が収録されており、同書自体を姜徳相が翻訳し平凡社から出版)。さらに、1976年には、朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社)が刊行され、そこにも、朴慶植の日本語訳によって全文が収録された。

 このうち、治安当局の関係者でもなく、専門的歴史研究者でもない日本人が目にする機会が多いものとしては、山辺健太郎や姜徳相(の翻訳本)、朴慶植の書籍となる。和田春樹がすでに述べているが(『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史』平凡社新書、2010年)、3・1運動の「宣言書」が日本語に訳され、広くさまざまな市民が読むことが可能となったのは(広く読まれたかどうかは別として)、1970年代以降のことである。

 もっとも、それ以前においても、日本社会における3・1運動への関心や、それを記念する動きは、一部においてあったことは注目していいだろう。戦後初期には、左翼系の日本人と朝鮮人との共闘が展開されているなかで、在日朝鮮人の3・1運動記念の集会に日本人が参加することもあった。和田春樹も紹介している、前述の石母田正の「堅氷をわるもの―朝鮮独立運動史万才事件の話」は、1948年の3・1記念日の数日後に、ある朝鮮人から3・1運動の記憶を聞きながら石母田がその世界史的意義などを論じた文章である。『民主朝鮮』も創刊号だけでなく、廃刊となった1950年まで、毎年3月号に3・1運動関係の記事、論説、文学作品等が掲載されている。

 また、旧朝鮮総督府関係者や植民地期の朝鮮の財界、学界関係者が集い、韓国との交流を進めようとしていた、日韓親善協会が刊行していた『親和』にも、3・1運動関係の記事、論説を確認することができる。1960年3月号には、君島一郎「三・一独立宣言文を読んで――新らしい国造りの出来るだけ早い達成を待望す」との文章が掲げられている。

 君島は朝鮮銀行副総裁を戦中=植民地統治末期に務めた人物であり、その意味では支配者にほかならないが、3・1運動の「宣言書」について高く評価している(「宣言書」への高い評価を公表した日本人の最初の文章かもしれない)。

「宣言書」の隠蔽と低評価の理由

 ただし、和田春樹の言うように、多くの日本人は、3・1運動の「宣言書」に関心を持たなかったし、1970年代まではその内容を知ろうとしても知ることができなかった。では、1970年代まで、このように「宣言書」の日本語訳すらほとんど読まれなかったのはなぜであろうか。

 日本帝国の崩壊後も長らく、それほど「宣言書」が注目されなかった理由については、和田春樹による戦後、歴史研究のなかでマルクス主義の影響力が強かったこととの関連の指摘がある。

 前衛党が指導する労働者階級が主体となった闘争ではない3・1運動は、マルクス主義の見地からは手放しで評価できるものではない。「宣言書」自体にも、貧農や労働者への圧迫等のマルクス主義的な社会構造分析はなく、しかも、「民族代表」は「宣言書」を読み上げてすぐに警察に捕まり、日本帝国の権力との対決姿勢が鮮明ではなかった。このため、マルクス主義的な歴史研究では「宣言書」への注目は少なくなる、というのが和田の見解である(ただし、それでも、やはり、前述のように「宣言書」は翻訳もされ、書籍のなかで全文引用もされている。しかも山辺や朴慶植は、マルクス主義の影響を強く受けた―山辺については日本共産党の幹部だった時期もあった―歴史学者である。これについては彼らの、史料に即して、評価すべきところは評価する、という曇りのない歴史研究者としての態度が、「宣言書」への着目を生んだと見るべきであろう)。

▲パゴダ公園(タプコル公園)にある3・1独立宣言書のモニュメント(Wikipediaより)

 また、和田は、1945年以前、特に3・1運動の展開されていた時期や植民地統治のあり方について議論が展開されていた1920年代半ばには、「宣言書」が公表されなかったことも明らかにしている。

 「宣言書」が隠蔽されたまま、当時の日本のマスコミ報道で流布されたのは、無知蒙昧で外国勢力に踊らされて妄動する朝鮮民族、というイメージである。これは、植民地支配を続けようとする者の思考ないし意識としては当然であった。朝鮮民族が理性的で自立して判断ができる能力を持つ人びとであると認めてしまうと、日本帝国が彼らを支配する根拠は崩れてしまうからである。

 ところが、1919年3月1日に発表された「宣言書」は、軍国主義や植民地支配が誤りであって日本人自身にとっても得にならないことを、整然と理知的に訴えたものであった。朝鮮民族は、そのような立派な文章を作成し、しかも、厳しい治安当局の警戒のもとにあって、計画的組織的に運動を準備し、密かにその「宣言書」を多数、印刷して、ソウル以外の朝鮮各地にそれをもって移動し、非暴力の示威行動を展開した。朝鮮民族とは劣った、無能な人びとであり、それゆえ日本が支配するのは当然であると認識していた日本人民衆に、そのことが広く知られることは、植民地統治を続けようとする者にとって都合が悪かったのである。

「宣言書」から学ぶこと

 3・1独立運動を準備した指導者の言説や「宣言書」からはこれまで、そこにおける、ウィルソン米国大統領の提唱する民族自決の影響、第一次世界大戦後の世界の新秩序形成の機運への期待が指摘されてきた。これはリアルな国際政治を認識していないものであるとして、批判的な評価にもつながる。しかし、いずれにせよ独立を宣言したことに意義を認める意見もある。

 そして、「宣言書」は、民主主義や民族文化の尊重、軍国主義の批判と東アジアの平和を作り出すこと、排外主義や暴力に走ることを戒めつつ、自分たち自身の新しい運命を歩むことを述べるという、思想的、道義的に大変質の高いものとなっている。

 これまでも、「宣言書」は高く評価されてきたが、今日、そこに書かれていることを読む時、日本人にとって改めて注目させられる点がいくつかある。

 まず、「宣言書」は、日本帝国が朝鮮を支配し、朝鮮の文化を劣ったもののように見なすことは批判しているが、日本人一般を責めたり、断交、排撃を訴えたりしているわけではない。むしろ、朝鮮人と日本人が心を通わせるような関係を作り出すためには、武力による支配をやめるべきだと述べているのである。

 また、前述のように日本の軍国主義が日本人自身のためにならないことも指摘している。それは、朝鮮人と日本人との関係を悪化させるだけでなく、中国を不安に陥れて東アジアの対立を生み出す、ということを「宣言書」は説いている。

 朝鮮支配のあり方への批判では、武力による威圧的な統治の問題や朝鮮民族・朝鮮文化への抑圧、劣等視、差別を指摘しているが、それだけではないことも注目される。

 統計の虚飾をもって統治を正当化していることについての批判も行っている。これは、朝鮮総督府が韓国併合以来、朝鮮の「近代化」を進めた(例えば、鉄道や道路を整備したとか、近代的な学校や病院を建設した、農業生産を増やしたなど)というが、朝鮮民族の幸福にはつながっていないということを述べたものと見られる。今日も日本社会の中では、“植民地統治をしたというが遅れた朝鮮を近代化したのであり、いい面もあった”と述べる主張が大手をふるっている。しかし、朝鮮人自身が望むような近代化であったか、利益を得たのは誰であったのかという視点がそこには欠けている。

 被支配者が幸福を感じるような施政ではないことが明確に指摘されていることは大変重要である。都合のよい統計を持ち出して政治がうまくいっているかのように説くが実際にはそうではないという状況は、なにも100年前の植民地においてのみ生じるわけではない。

 「宣言書」のバックボーンにおそらく存在している、前近代以来受け継いできた伝統的な思想の影響も興味深い。正しい政治が行われるべきであり、正しい政治は武力によって民衆を押さえつけるものではない、という意識が「宣言書」には通底している。これは、前近代の朝鮮社会に浸透していた儒教の正当な解釈でもある。

 これに対して、日本は、儒教の影響を受けつつも、そのような意識は希薄である。武威こそが重要で、武力を持つ者が他者を支配するという認識が、前近代からあり近代にも強かったように思われる。「宣言書」はこうした、日本と朝鮮の思想、文化の違いを改めて感じさせるものでもあるだろう。

 もっとも、日本においても、為政者は民を大切にするべきであるという思想はあるし、近代以降、民衆の生活を重視した社会を築く、民主主義を定着させる、武力ではなく相互信頼で東アジアの隣国との関係を築くべきという主張を行っていた人びともいる。3・1運動直後には吉野作造、石橋湛山(戦後の自民党総裁でもある)らが、朝鮮植民地統治のあり方を批判する主張を行っているのはよく知られている。

 また、そもそも朝鮮植民地化の過程や韓国併合の際にも、朝鮮民族の境遇に同情した日本人も少数存在する。例えば、足尾鉱毒問題ために心血を注いでいた田中正造は、被害に苦しむ人びとと朝鮮人を重ね合わせてとらえ、被害者のことを忘れて「日韓合邦」を祝うような日本はやがて亡国の憂き目にあう、日本もまたいずれの日か他国に「合邦」(=植民地化)されてしまうであろうと述べている。

▲田中正造(Wikipediaより)

 最近のマスコミ報道等を見ると、日本人の多くが、3・1運動をはじめとする、日本帝国の支配に対する抵抗を「反日」の語をもって語り思考停止に陥っているのではないかと懸念せざるを得ない。そのようないまこそ、100年前に発せられた朝鮮民族の「宣言書」を読み、そのメッセージに向き合ってみることが必要ではないだろうか。

 そして、もし、「反日」云々の語がやたらと用いられる昨今の風潮が、自民族の近代史を近隣諸国との対立や加害・被害という単純な二分法のみで捉えることと関係しているのであれば、同時に、日本人のなかにもわずかにあった、支配を受けている他民族との連帯や自身を省みる動きも思い起こすべきである。

3・1運動の「宣言書」の現代日本語訳

宣言書

 わたしたちは、わたしたちの国である朝鮮国が独立国であること、また朝鮮人が自由な民であることを宣言する。このことを世界の人びとに伝え、人類が平等であるということの大切さを明らかにし、後々までこのことを教え、民族が自分たちで自分のことを決めていくという当たり前の権利を持ち続けようとする。

 5000年の歴史を持つわたしたちは、このことを宣言し、2000万人の一人ひとりがこころを一つにして、これから永遠に続いていくであろう、わたしたち民族の自由な発展のために、そのことを訴える。そのことは、いま、世界の人びとが、正しいと考えていることに向けて世の中を変えようとしている動きのなかで、いっしょにそれを進めるための訴えでもある。

 このことは、天の命令であり、時代の動きにしたがうものである。また、すべての人類がともに生きていく権利のための活動でもある。たとえ神であっても、これをやめさせることはできない。

 わたしたち朝鮮人は、もう遅れた思想となっていたはずの侵略主義や強権主義の犠牲となって、初めて異民族の支配を受けることとなった。自由が認められない苦しみを味わい、10年が過ぎた。支配者たちはわたしたちの生きる権利をさまざまな形で奪った。そのことは、わたしたちのこころを苦しめ、文化や芸術の発展をたいへん妨げた。民族として誇りに思い大切にしていたこと、栄えある輝きを徹底して破壊し、痛めつけた。そのようななかで、わたしたちは世界の文化に貢献することもできないようになってしまった。

 これまで押さえつけられて表に出せなかったこの思いを世界の人びとに知らせ、現在の苦しみから脱して、これからの危険や恐れを取り除くためには、押しつぶされて消えてしまった、民族として大切にして来た心と、国家としての正しいあり方を再びふるい起こし、一人ひとりがそれぞれ人間として正しく成長していかなければならない。

 次世代を担う若者に、いまの状況をそのままとしていくことはできないものであり、わたしたちの子どもや孫たちが幸せに暮らせるようにするためには、まず、民族の独立をしっかりとしたものにしなければならない。2000万人が固い決意を相手と闘う道具とし、人類がみな正しいと考え大切にしていること、そして、時代を進めようとするこころをもって正義の軍隊とし、人道を武器として、身を守り、進んでいけば、強大な権力に負けることはないし、どんな難しい目標であってもなしとげられないわけはない。

 日本は、朝鮮との開国の条約を丙子年・1876年に結び、その後も様々な条約を結んだが、〔朝鮮を自主独立の国にするという約束は守られず〕そこに書かれた約束を破ってきた。

 しかし、そのことをわたしたちは、いま非難しようとは思わない。日本の学者たちは学校の授業で、政治家は会議や交渉の際に、わたしたちが先祖代々受け継ぎ行なってきた仕事や生活を遅れたものとみなして、わたしたちのことを、文化を持たない民族のように扱おうとしている。彼ら日本人は征服者の位置にいることを楽しみ喜んでいる。

 わたしたちは、わたしたちが作り上げてきた社会の基礎と、引き継いできた民族の大切な歴史や文化の財産とを、彼ら日本人が馬鹿にして見下しているからといって、そのことを責めようとはしない。わたしたちは、自分たち自身をはげまし、立派にしていこうとしていて、そのことを急いでいるので、ほかの人のことをあれこれ恨む暇はない。いまこの時を大切にして急いでいるわたしたちは、かつての過ちをあれこれ問題にして批判する暇はない。

 いま、わたしたちが行なわなければならないのは、よりよい自分を作り上げていくことだけである。他人を怖がらせたり、攻撃したりするのではなしに、自ら信じるところにしたがって、わたしたちは自分たち自身の新しい運命を切り開こうとするのである。決して昔の恨みや、一時的な感情で、ほかの人のことをねたんだり、追い出そうとしたりするわけではない。

 古い考え方を持つ古い人びとが力を握って、そのもとで手柄を立てようとした日本の政治家たちのために、犠牲となってしまった、現在の不自然で道理にかなっていないあり方をもとにもどして、自然で合理的な政治のあり方にしようとするということである。

 もともと、日本と韓国(注・大韓帝国)との併合は、民族が望むものとして行なわれたわけではない。その結果、威圧的で、差別・不平等な政治が行なわれている。支配者はいいかげんなごまかしの統計数字を持ち出して自分たちが行なう支配が立派であるかのようにいっている。

 しかしそれらのことは、二つの民族の間に深い溝を作ってしまい、互いに反発を強めて、仲良く付き合うことができないようにしている、というのが現在の状況である。きっぱりと、これまでの間違った政治をやめ、正しい理解と心の触れあいに基づいた、新しい友好の関係を作り出していくことが、わたしたちと彼らとの不幸な関係をなくし、幸せをつかむ近道であるということを、はっきり認めなければならない。

 また、怒りと不満をもっている、2000万の人びとを、力でおどして押さえつけることでは、東アジアの永遠の平和は保証されないし、それどころか、東アジアを安定させる際に中心になるはずの中国人の間で、日本人への恐れや疑いをますます強めるであろう。

 その結果、東アジアの国々は共倒れとなり、滅亡してしまうという悲しい運命をたどることになろう。いま、わが朝鮮を独立させることは、朝鮮人が当然、得られるはずの繁栄を得るというだけではなく、そうしてはならないはずの政治を行ない、道義を見失った日本を正しい道に戻して、東アジアをささえるために役割を果たさせようとするものであり、同時に、そのことで中国が感じている不安や恐怖をなくさせようとするためのものである。つまり、朝鮮の独立はつまらない感情の問題として求めているわけではないのである。

 ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる。

 新しい春が世界にめぐってきたのであり、すべてのものがよみがえるのである。酷く寒いなかで、息もせずに土の中に閉じこもるという時期もあるが、再び暖かな春風が、お互いをつなげていく時期がくることもある。いま、世の中は再び、そうした時代を開きつつある。

 そのような世界の変化の動きに合わせて進んでいこうとしているわたしたちは、そうであるからこそ、ためらうことなく自由のための権利を守り、生きる楽しみを受け入れよう。そして、われわれがすでにもっている、知恵や工夫の力を発揮して、広い世界にわたしたちの優れた民族的な個性を花開かせよう。

 わたしたちはここに奮い立つ。良心はわれわれとともに進んでいる。老人も若者も男も女も、暗い気持ちを捨てて、この世の中に生きているすべてのものとともに、喜びを再びよみがえらせそう。

 先祖たちの魂はわたしたちのことを密かに助けてくれているし、全世界の動きはわたしたちを外側で守っている。実行することはもうすでに成功なのである。わたしたちは、ただひたすら前に見える光に向かって、進むだけでよいのである。

公約三章

一、今日われわれのこの拳は、正義、人道、生存、身分が保障され、栄えていくための民族的要求、すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情にそれてはならない。

一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意志をこころよく主張せよ。

一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれの主張と態度をしてあくまで公明正大にせよ。

 朝鮮建国四千二百五十二年三月一日

  朝鮮民族代表

孫秉煕 吉全宙 李弼柱 白龍城 金完圭 金秉祚
金昌俊 權東鎮 權秉悳 羅龍煥 羅仁協 梁甸伯
梁漢默 劉如大 李甲成 李明龍 李昇薰 李鍾勳
李鍾一 林礼煥 朴準承 朴煕道 朴東完 申洪植
申錫九 呉世昌 呉華英 鄭春洙 崔聖模 崔麟
韓龍雲 洪秉箕 洪基兆

現代語訳/3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン
※『週刊金曜日』第1221号(2019年2月22日)より転載。
転載にあたり、ウェブ画面であることを考慮して改行を加えたこと、ご了承ください。

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