Spiritual Love

ロウソクの灯りはいつだって僕の視線を奪い続ける。
いつのことは具体的に思い出すことはないが、
在りし日の淡い幸福感を回想させた。
灯りが消えた後も、目を閉じればその残像が心を捉え続けた。


アーバン・スピーシーズの「スピリチュアル・ラブ」は、
僕にロウソクの残像と同じ甘くやわらかな気持ちにさせてくれる。
1990年代はじめ、クラブを中心にアシッド・ジャズが席捲した頃に夢中で聞いた曲のほとんどは
今では聴くに耐えないものとなってしまったが、
アーバン・スピーシーズのファースト・アルバムは今でも時折ターン・テーブルに乗せる。


「ラップのヴォーカルでないと私聴けないの」
それは当時の僕には全く理解できない感覚だった。
「どうして?」慣れないジンに少し口をつけ、尋ねる。
「うーん、うまくいえないけど、ラップはクールだし」
クール。横文字が乱発する音楽雑誌の新譜レビューでも一二を争う頻出語だ。
ほんとうのことを言えば、そんな言葉は日常で使うのは相応しくないと思っていた。
「一番好きな曲は?」
「もちろん、スピリチュアル・ラブよ」誇らしげに軽く笑って、彼女は即答した。
初夏の陽射しで頬はほんのり日焼けしていたが、ひとめで飲酒したと判別できるほどに赤くなっていた。
仕事中に彼女の横顔を見て美しいと感じたことはあったが、
職場からほんの少し先にある赤坂エクセルホテル東急の薄暗いバーで見る彼女は、妖しく個性的な色気を帯びていた。
「それなら僕も知っているよ。トーキング・ラウドのコンピに入っていたし」
「かっこいいよね、あのサビ」
「あの美メロにあの歌詞は反則だね」
「うんうん」満足げに頷きながら、彼女は3杯目のカクテルを一気に飲み干した。
社会人になってから、会社の同僚とふたりきりでお酒を飲む機会は幾度もあったし、
それなりの雰囲気になったこともあった。
が―どういうわけか―僕にはつきあっている彼女を裏切れなかった。
つきあいは長いので情はあるが、恋愛感情はまったくもてない女性との交際を既に5年も続けていた。
一緒に出掛ける時間は楽しいが、彼女の嫉妬深さと疑り深さに心底辟易していた。
かといって、いまさら別れ話を切り出すのは、それこそ面倒だった。


「そろそろ、帰ろうか」
「いや。帰りたくない」 席を立った僕の上着の袖を引っ張りながら、駄々っ子のようにすねた。
職場でほとんど会話を交わしたことなどなかったのに、突然飲みに誘われたのはただの気紛れだろうと思っていた。
僕に長くつきあっている彼女がいることは会社中に知れ渡っていたし、何名かの女性の告白にも応じなかった。
「まだ一緒にいたい」 僕もだよ、と言いたかった。
「きみはクールを目指してるんじゃなかったの?」
「・・・そうね。少し酔ったみたい。また明日会えるし、ね」
「すまない」
「謝らないで」
「楽しかったんだ、ほんとうに」
「分ってる」 おどけた声で答え、せいいっぱいの作り笑顔の彼女を直視できず、
俯きながら無言で歩くことしかできなかった。


駅までのいつもの通勤路は、朝の慌しい人波とは違い、誰もが開放的で楽しそうに見えた。
ネオンの灯りで青や赤や緑に染まる彼女の横顔を時折見つめながら、掛ける言葉を探していた。


暗さに慣れた目には駅の蛍光灯の照明はいささか明る過ぎた。
「じゃ、またあした」 寂しさを隠そうとする目をみながら、僕は未だ言葉が探せずに立ちすくんでいた。
定期券で改札を抜け、小さくなっていく華奢な後姿を見送りながら、夏の終わりのような喪失感に包まれていた。


気が付くと僕はホームへと下るエスカレータにまさに乗ろうとした彼女の名前を叫んでいた。
驚いたように振り向いた彼女は泣いていたように見えた。
駆け寄ってきた彼女を抱き締めるには、自動改札機はあまりに奥行が長過ぎた。
僕はせいいっぱい前かがみになり、まだ少し赤い彼女の頬にようやく触れるくらいのキスをした。


それきり彼女とふたりきりで会うことはなかった。
ほどなく僕は異動になり、会社で会う機会さえもなくなった。
それでも、彼女の涙はふとしたときに頭をよぎった。


久々に彼女を見かけたのは、会社の同僚の結婚式だった。
彼女は、彼氏とふたりで司会進行を務めていた。
出席者全員での記念撮影の際、彼女は僕の隣に並んだ。言葉はなにも交わさなかった。
軽く会釈した後、一瞬だけ懐かしい笑顔をみせた。
僕もできるだけあの頃と同じ自然さで笑ってみた。
ただ、あの頃と違い、掛ける言葉は探さなかった。
なにもなくてもよい気がした。きっと彼女もそうだっただろう。


後日郵便で式の写真がプリントされて送られてきた。
中から記念撮影の写真を選び出し、並んだ二人の部分だけを切り抜き、
しばらく眺めた後、ライターで燃やした。
焦げた匂いはその一日、部屋から消えなかった。


アーバン・スピーシーズの「スピリチュアル・ラブ」は、
僕に甘くやわらかな気持ちにさせてくれる。
そして、彼女の頬の柔らかさを思い出せてくれる。

“Love -
feels so natural
 more than physical
 Spiritual love
 we gotta we gotta”