本しゃぶり

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ぼっちを救うためのストア哲学

なぜぼっちは恵まれているのに苦しむのか。
それは心像に負けているからである。

幸福になりたければストア哲学を実践しろ。

暗く狭い場所にて

『ぼっち・ざ・ろっく!』の人気が凄い。

1話の時点からクオリティが高いなと思っていたが、回を増すごとにどんどん人気が高まっている。最近はTwitterを開くたびにファンアートが流れている印象がある。

もちろん俺も楽しんで見ているわけだが、つい思ってしまうことがある。本作の主人公、ぼっちこと後藤ひとりに対して、「こいつ、持っているな」と。

『ぼっち・ざ・ろっく!』第1話

感受性。創造力。優れた容姿。生まれの良さ。練習を持続する意志。アリストテレスならば、彼女のことを「外的な善を持ち合わせている」と評するだろう。

だが何よりもぼっちは、卓越した演奏技術、すなわちギタリストの徳(アレテー)を持っている。これほど素晴らしいことがあるだろうか。

しかし当のぼっちは見ていて辛そうだ。声をかけられたら怯え、ダメな将来を想像してはもがき苦しむ。毎度のごとく顔面崩壊。

まんがタイムきらら編集部さんはTwitterを使っています

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結果、孤独で友達を増やしたいと思っているにも関わらず、すぐに狭いところに引きこもってしまう。隠れる場所がなければダンボール箱やゴミ箱にまで入るほどだ。

『ぼっち・ざ・ろっく!』第3話

そうやってぼっちは奇行に走るわけだが、今から2300年以上前のギリシアにも奇行が目立ち、狭いところに入っていることで有名な哲学者がいた。シノペのディオゲネスである。

Taras Shevchenko, Public domain, via Wikimedia Commons, Link

ディオゲネスは全てを手放した人である。故郷で裕福な両替商の家に生まれたのだが、貨幣改造事件の罪により親子で国を追放されてしまう。国もなく、家もなく、祖国を追われて物乞いとして生きる日々。ディオゲネスはたどり着いたアテネで、大きな水甕(みずがめ)の中で暮らすことになる。

さぞかし辛い日々であろうと思いきや、ディオゲネスの心は満たされていた。曰く、自分には失うものは何もなく、何かを渇望することもない。だから幸福であるのだと。過酷な日々の中で、「何も持たないことが最善」と考えるキュニコス派の思想を体現するに至ったのだ。その境地は、あのアレクサンドロス大王に「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言わせたほどである*1。

Musée des beaux-arts de Nîmes, Public domain, via Wikimedia Commons, Link

ゆえにぼっちもディオゲネスを見習えば幸せになれると言いたくなるが、さすがに現実的ではない。いくらなんでも現代人に犬のような(キュニコス)生活をしろというのは酷であるし、ぼっちの徳(アレテー)が発揮されない。

そこでストア哲学である。ストア派はキュニコス派の教えを元に、より実践的な哲学を作り上げた。キュニコス派は世捨て人とならざるを得ないが、ストア派ならば社会性を持ったまま幸福への道を歩むことができる。なにせストア派には、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスもいたぐらいなのだから。

マルクス・アウレリウス / 筆者撮影

ストア哲学の教えを学び、実践する。それがぼっちの進むべき道だ。本記事ではストア哲学から、ぼっちの苦しみを取り除き、幸福に至るための教えを提示する。

陰キャならストア哲学をやれ

なぜストア哲学なのか。それはぼっちの苦しみは全て精神の反応、すなわち「心像」に起因するからである。そしてストア哲学は心像を理解し、正しく用いることを目指す。概念を説明しても分かりにくいだろうから、エピソードから具体例を持ってきて説明していこう。

事柄ではなく考え方の問題

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上でも貼ったこれは、店長に「お前のことちゃんと見ているからな」と言われた時のものだ。この時、店長はどのような意図で言ったのか。それはぼっちに「自分を認めてくれる人間が周りにたくさんいる」と気づいてもらうためである。純粋に肯定的な意図による発言であり、ぼっちに怒っていたからではない。そのため表情も普通に優しげだ。

『ぼっち・ざ・ろっく!』第5話

しかしぼっちは言われて怯えてしまった。なぜこうなったのか、 ストア派のエピクテトスならばこう言うだろう。「人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である」と。

William Sonmans, Public domain, via Wikimedia Commons, Link

この場合、事柄(プラグマタ)は声をかけられ、肩を叩かれたことだ。それ自体は恐ろしいものでも何でもない。しかしぼっちは店長が怒っているのでないかと誤解し、声をかけられたことで「完全に目をつけられた」と考えた。ぼっちが店長の言動について抱く考え方(ドグマタ)、それこそが恐ろしいものの正体なのだ*2。

「事柄は恐ろしいものではない」と述べたが、逆に「善いものでもない」とも言える。ストア派においては、意志と関わりのないものは善悪どちらでもないとしているのだ。

そう言われると「そんなことはない」と思うかもしれない。事柄にも普遍的な善はあるだろう、と。現にアリストテレスは「外的な善」と呼んで、「生まれの良さ」や「美しさ」などを挙げている。それに「健康」は万人が善いと思うものではないだろうか。だが健康でさえも、結局は考え方しだいで善悪は変わる。

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風邪を引いて健康を損なうことは、一般的には悪である。しかし行きたくない場所へ行かずにすむ言い訳となるのであれば、途端に善へと変わる。ぼっちは風邪が自分の利益になると考え、20分も氷風呂に浸かったわけだ*3。これはまれな状況であるとはいえ、健康という事柄そのものに善悪は無いことをよく表している。

心像に対して自らを鍛え、見極める目を持った賢者は、あらゆる事柄に対して動揺しない。あらゆる事柄もそれによって浮かぶ心像にも善悪はなく、それらの心像に対してどう反応するかで善悪が定まるからだ。それはもう意志の問題である。ゆえにストア派は意志をコントロールすることに力を注ぐ。

コントロールできるものとできないもの

ぼっちは人見知りで、他人からの悪い反応を想像しては怖気づく。だから人前で演奏することを躊躇するし、いざ演奏する時になっても観客を見ない。そんなぼっちに対し、廣井はこうアドバイスした。

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酔っぱらいのくせに良いことを言う。これは真理だ。

わざわざライブを聴きに来てくれた観客は敵ではない。それにもし演奏を聴いた観客が「クソだな」と思ったところで、ぼっちに何ができるのか。他人の心をコントロールすることはできない。コントロールできない対象を思い悩んで、いったい何の利益があるというのか。思い悩むだけ無駄である。

さらには良い演奏を聴かせることさえも、コントロールすることはできない。どれだけ完璧に運指をこなしても、何かトラブルが起きるかもしれないためだ。それはギターの不調かもしれないし、足を滑らすことかもしれない。何が起きるにせよ、演奏を聴かせることはコントロールできる範囲から外れている。

警察が来たら止めざるをえない / 『ぼっち・ざ・ろっく!』第6話

ではコントロールできることは何か。それは自分の意志である。良い演奏を聴かせようとする意志、それは誰にも邪魔されることはなく、自分自身で自由にコントロールすることができる。つまり廣井の言う「敵」とは、自分の意志のことなのだ。自分の意志には理性(ロゴス)を持って打ち勝て。

このようにストア派は、真にコントロールできる対象は自分の意志だけであると考えている。我々の力の及ぶものと我々の力の及ばないものを見極め*4、力の及ぶものだけに集中する。力の及ばないものは潔く受容する。それがストア派の教えだ。

ストア派の教えによれば全てが心像の問題に集約されるわけだが、特にぼっちのような陰キャの悩みは心像が問題であると認識しやすい。ゆえにぼっちはストア哲学をやるべきなのだ。

実践ストア哲学

ストア哲学をやればいいとはいえ、言うは易く行うは難しである。いくら「事柄に善悪は無い、考え方が問題なのだ」と知識として持っていたとしても、いざ困難な状況に遭遇したら慌てふためくのが人間の現実である。

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ではどうしたら賢者になれるのか。その質問に対して、エピクテトスはこう答える。あらゆる習慣や能力は、それに対応する行為によって維持され、増進される、と*5。速く走りたければ走るしかないし、書き手になりたければ書くしかない。理性で心像に勝ちたければ、理性を鍛えることを習慣にするのだ。

自省録を書く

いきなり困難な状況で理性を働かせようとするのは、それこそ困難である。ならば分割してしまえばいい。その場で理性を働かせるのではなく、後で落ち着いた状況で理性を働かせるのだ。

夜寝る前、寝床に入る前に1日を振り返り、何が善くて何が悪かったのか理性で判断するのだ。これは皇帝ネロの家庭教師にして側近であるセネカお勧めの方法である。

British Museum, Public domain, via Wikimedia Commons, Link

これは「自省」ではあるが、もし自分に落ち度があったとしても自分を責める必要はない。セネカは「今回は許してやろう。次はもうやらないように」と自分に言うだけである。エピクテトスも「他人をも自分をも非難しないのが教養のできた者がすることである」と述べている。失敗したとしても、ただ淡々と事実を受け止めればそれでいいのだ。

また、どうせ振り返るのであれば、頭の中だけで考えるだけで終わらせず、何かに書き出すのが良いだろう。ぼっちは作詞担当でもあるのだから、自分の言動や心像は残しておいた方が後でネタとして使えるはずだ。それにいつか有名になった時、まとめて本として売り出せるかもしれない。マルクス・アウレリウスの『自省録』は今でも売れている。

他人をありのままに見る

リアルタイムで理性を働かせるのであれば、自分のことより他人のことの方が冷静になれる。そこで他人の行為から事実だけを認識し、善悪を判断しない訓練を紹介しよう。これを行えば事実と解釈を分けて考えられるようになるし、他人に対して寛容になれる。

やることは単純だ。他人の行為を見た時に事実だけを受け止め、善悪の判断をしないだけである。

例えば、このような人を見たとする。

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この時、「彼女は飲酒の仕方が悪い」とは言ってはならない。「たくさん酒を飲む」とだけ言うのだ*6。

この行為の善し悪しは、当人の意図を知らなければ正しく判断できない。我々はつい瞬間的に善悪を判断してしまいがちであるが、それは心像に振り回されていることになる。ゆえに真相を知るまでは判断を保留し、事実だけを受け止めるのだ。事実と解釈は別物である。

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彼女は飲酒の仕方が悪い。

今を生きる

何かを習得する時、既に上手く出来ていることを広げていくのは一つの手だ。ぼっちの場合、ライブがそれにあたる。いつもは困難にぶち当たると心ここにあらずとなり、発作が生じて苦しんでいる。しかしライブ中は今自分にできることだけに集中し、徳(アレテー)を発揮している。

『ぼっち・ざ・ろっく!』第8話

従って日頃においてもライブと同じように取り組めば、発作は収まり、奇行に走ることも無くなるだろう。悪い未来を想像し始めたならば、今何ができるかを考えることに集中するのだ。ライブでやれているのだから、他の場面でもできるはずだ。

こういう時は何かトリガーを用意しておくと良い。パニクっている時でもそれを目にしたらやるべきことを思い出せる、そんなトリガーを。そこでぼっちにお勧めなのがこちらの商品だ。

結束バンドである。これを腕に巻いておけば、いつでもライブを思い出せる。全10色で、全員分のカラーがちゃんと含まれている。しかもマジックテープ式なので締りすぎることもないし、繰り返し使用可能だ。おまけにコードを縛ることにも使えて便利。

ライブという仲間との思い出が、精神を「今ここ」に繋ぎ止めてくれる。

終わりに

以上のように、ぼっちはストア哲学の教えを習得することで、発作は収まり、徳(アレテー)を発揮することができる。そうすれば辛く苦しい日々を脱し、幸福(エウダイモニア)を実現できるはずだ。

本記事ではぼっちのためのストア哲学として書いたが、これは役に立つ人は多いはずだ。というのも、『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ていて「ぼっちは自分のことだ」と思う人はそれなりにいるようだからである*7。また、ぼっちほど酷くはなくても、思い当たる節がある人はもっといるだろう。

エピクテトスも言っている通り、人は自分のことは分からないが、他人のことはよく分かるもの。ぼっちの発作を見ることは、我が身を直すことに繋がるのではないだろうか。その時はストア哲学がきっと役に立つはずだ。

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参考書籍

本記事を書くのに参考にした本。今回は「特にこれ」というより、エピクテトスを中心に書いたというのが正しい。

『エピクテトス 人生談義』

『語録』をメインにエピクテトスの言葉を書き留めたものをまとめた本。実践的な教えを説いているだけあって、具体例が多くて思っていたよりも分かりやすい。ストア派は時期や人によって教えが結構変わるので、本書はあくまでもエピクテトスの教えであることは知っておこう。

『迷いを断つためのストア哲学』

記事のタイトルは本書から。本書はストア哲学をより実践的な要素を強めたタイプの本である。エピクテトスを中心としたストア哲学の指針が示され、説明する中で資料の形で引用が行われるような構成となっている。実生活、人生においてストア哲学を実践したいと考えている人にお勧め。一方でストア哲学そのものについて知りたい人や、名言や引用を好む人は以降で紹介する本のほうがいいだろう。

『哲人たちの人生談義』

ストア哲学について実践よりも知識が欲しいタイプの人には本書を勧める。ストア派だけでなくアリストテレスやエピクロス派など、他の古代ギリシアの学派についても紹介されるので、対比される形でストア派について学ぶ事ができる。また、また、ストア派に対する他学派による批判も紹介されているのが良い。

『奴隷の哲学者エピクテトス』

ストア派の哲学者エピクテトスの教えを分かりやすく簡単に解説した本。一つのテーマにつき「マンガ」「原文(和訳)の引用」「解説文」がそれぞれ見開きでワンセットとなっているので、読書に慣れていない人でもテンポ良く読むことができる。また、マンガがあることで教えが印象強く頭に残ることに、この記事を書いていて気がついた。たしかこんな教えがあったよなと調べたら、たいてい本書で知ったやつだった。

『不道徳的倫理学講義』

運という切り口から倫理学史を巡る本。前半が古代ギリシア哲学で占められており、アリストテレスやストア派の流れを学ぶのに役立った。実は後半はまだ読んでいない。Kindle Paperwhiteは本を横断しての全文検索ができるので、それで「ストア」と検索したら本書がヒットしたので必要なところだけ読んだ感じ。検索できると積ん読も役に立つ。

ぼっちから学ぶ記事

これのぼっちは別人。

*1:という伝承がある。実際にアレクサンドロスがディオゲネスに会ったかは怪しい。

*2:エピクテトスは『提要』にて、死ですら決して恐ろしいものではないと述べている。

*3:目的を達成するためなら肉体を痛めつける苦行もいとわない。やはりぼっちには禁欲主義が向いている。

*4:ここで言う「力が及ぶ」とは、繰り返し書いているように「コントロールできる」という意味である。「影響を与える」ことならば、他者に対してだってできるだろう。

*5:『語録』第二巻 第十八章

*6:エピクテトス『提要』

*7:Veronica5号機さんはTwitterを使っています: 「「キリトかなーやっぱりww」も、「私アーニャに似てるって言われたんだけど笑」ももう古い 今のトレンドは、「ぼっちちゃん私に似てる…笑」 https://t.co/IHWlZIgTT2」 / Twitter