ファンタジー頭へようこそ!

別名お花畑あたま。

毒親について少し話してみようかという気持ちになった。

親のことは普段から脳内シャットアウトしている

今週は物理的に余裕のある週だった。

それもあってか、気持ちにも余裕があったのか、

【第0回】短編小説の集い 投稿作品一覧 - Novel Cluster 's on the Star!

にも参加できた。

 

たまたまか必然だったのか、書いた内容が毒親に関る話。

【第0回】短編小説の集いに参加してみました。『毒りんご』 - ファンタジー頭へようこそ!

今思うと何故ああいう展開にしたのか、自分でも不思議。

 

わたしは「毒親」というネーミングがいまいち好きになれない。

これは親のことを悪く言うなんてとんでもない!

という思考から来るのではなく、その逆で、毒どころじゃないと思っているから。

なんだか毒親という言葉になってしまうと、虐待がとても軽いものに思えてしまうから好きになれないんだと思う。

「虐待親」でいいんじゃないか?

などと一人でぶつぶつ言っている。

 

でも、親とのかかわりで苦しんでいる存在がいるんだという啓蒙的な言葉としては、毒親というのはわかりやすくていいのかもしれない。

 

この先は、虐待を受けてきた人には刺激になってしまうかもしれないので、読むのは充分ご注意ください。

具体的な表現は避けていますけれど。

 

 

わたしと母親

母親は非常に分かりやすい虐待をしてくれる人だった。

幼いときは力による暴力。

ちょっと成長したら言葉による暴力。

それと同時期に宗教ショッピングをし、あらゆるところに連れ出され、やれ狐つきだの蛇つきだのとそこそこ恐ろしい目にあわされた。

その波の中で、食事療法が始まり、成長期に玄米食だけの生活が一年ほど続いた。

当然ガリガリにやせてしまった。

成長してからはネグレスト、わたしの存在はなかったものとされていた。

腕力がある人でわたしが成人してからも、力でねじ伏せることも幾度かあった。

そんな時自分の非力さに落ち込んだりもした。

 

その後金銭的な問題などが出てきて、後々まで苦しめられることになるのだけれど、それは母親が意図的にしたことじゃないと思うので、許容の範囲。

 

母親との関係は母の精神的なはけ口がわたしだった、というとてもわかりやすい虐待で表現もとてもわかりやすくて、されている当時からそれに気がつくことが出来たので、わたしの自尊心を壊滅させるところまでは行かなかった。

 

わたしと父と父の愛人(後の継母)

始末に終えないのは、父との関係。

父もわたしにとっては大きな虐待親だったとわかったのは、つい最近のこと(といっても10年近く経ちますが)

わたしは父が好きで好きで、父が好きだからどれだけ母親に暴力を受けても我慢することが出来ていたんだと思うのです。

 

物心ついた時には父にはすでに若い愛人がいまして、家にはほとんど寄り付かない生活をしていました。

父と家で一緒にいたという記憶は3歳くらいまでのものしかありません。

それ以後は父親とは外であっていたと思います。

そして父親と会うときにはいつも愛人が一緒にいました。

幼いながらも、この人と仲よくしないと父が悲しむと思ったのでしょう、幼いなりに媚を売っていたことを思い出します。

実際に父はそれを喜んでいたように見えました。

でもよく考えたら大好きな父親を奪った女に子どもが媚を売るなんて、不自然極まりない。

 

父にとっては子どもはお飾り的な存在でよかったんだと思います。

自分の思うように動いてくれる面白いおもちゃ、そんな存在だったと思います。

でなければ、あからさまに子どもに暴力を振るっている母親の元に残して行ったりはしなかったはずだから。

 

子どもは馬鹿ですから、親のことを信じてしまうのですね。

父はいつかわたしを助けてくれるとずっと思っていました。

母親のことで幾度か相談もしていましたし、そのたびにがんばれよと励ましてくれたし。

今思うと、なんて自分勝手な親なんだろうとはっきり理解できますが、当時は何も理解できず言われるがまま、母親からの虐待に我慢し続けました。

 

父の愛人も独占欲の強い人で、父を独り占めしたいがためにいつも常に父と一緒に行動していました。

わたしがもうだめだと泣きついたときも、その人が邪魔をしてくれました。

母親の虐待はわたしの思い過ごしだから。

と言われてしまったのです。

父も同じようなことを言っていました。

馬鹿なわたしはこれもまたそうなんだと思い込んでしまいました。

母親からの暴力も仕打ちも、普通我慢できる範囲のものでどこでもあること。

と。

 

そのころは父は母と離婚して、愛人は愛人ではなく妻としての座についていましたから、わたしは邪魔な子どもだったわけですよね。

 

今考えるととてもわかりやすい。

当時は微塵も気がつかなかったのだから自分の馬鹿さにあきれてしまう。

 

そんなことを繰り返して、時を重ねてきて、わたしが息子を出産したころから少しずつ見え隠れするようになり、いろいろな条件が重なって、やっと気がつくことが出来たのです。

 

発達障害と精神科とカウンセリング

わたしがそれに気がつくことが出来たのは、むすこのASD(自閉症スペクトラム)と自身のASDの診断。

それによっての精神科通院。

精神科のドクターの言葉、心理士とのカウンセリングから、徐々に「これはおかしいことなんだ」と気がつきはじめたのです。

 

その後いろいろなことが重なり、親たちとは絶縁しました。

精神的な負担がぐっと軽くなりました。

 

わたしの中に残されたのは、PTSDによる解離性障害。

お金のことで激務を我慢し続けた疲労から来るうつ、たぶん線維筋痛症もそのせいじゃないかと思います。

 

身体も心もボロボロかな?

 

立ち直るには多分またたくさんの時間が必要なのかもしれません。

でもこうやって、文章に出来たくらいですから、まあ、そんなに遠いことではないと思います。…思いたいです。

 

 

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

 

 わたしの周りの大人たちは、この本の中に出てくるような人たちでした

 

 

 

 最後までお付き合いくださってありがとうございます。

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