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TAR/ター 今年最高の映画

指揮者が主人公ということで、絶対見る!!!と思っていた本作。

神経に来る描写とか、映像のセンスとか、凝ったコンセプチュアルな構成とか全部が好みの映画だった。

ただ、本当に日本では人気ないみたいで、アメリカでは話題になっていたようだが、うちの近くでは上映している館数が少ないうえに早々に上映回数も絞られてきており、深夜早朝などに追いやられるのも時間の問題。早く見に行けてよかった。

 

主人公のリディア・ターはめちゃくちゃ業績を残している女性指揮者で、ベルリンフィルの常任指揮者をしながらジュリアードで客員教授をやり、私生活では妻のシャノンと娘のペトラ、指揮者志望のかわいい助手のフランチェスカもいて、部屋ごとにモダンアートが飾られたおしゃれな家に住み、テスラに乗っている。

ところが、昔の生徒なのか元カノなのか、クリスタという女性指揮者がリディアからパワハラを受けたことを苦に自殺してしまう。ここからリディアの人生は均衡を崩していく。

 

この映画が日本で受けていない理由として、リディアのような人物って大なり小なりいると思うんだけど、実際に身の回りにいないとなかなかリアリティがわかない点にあると思う。

「女性でこの座にのしあがったのに政治力なさすぎ」「人物にリアリティがない」といったレビューをよく見たのだけど、いやいや実際いるし近くにいなくとも政治家にもめっちゃいるやん。(この使い方で合っているのかわからないが、)いわゆる「名誉男性」的にふるまい、むしろ女性の被差別的な文脈から自分を切り離して成功しているのは、女性にとって一つのキャリア形成の現実だと思う。

そして、パワハラやセクハラが取りざたされる中で、男性よりも差別する側の目にさらされにくい女性のほうが、リディアのように崩壊する可能性が高いとすらいえる。

まだまだ日本では「SHE SAID」みたいな女性側が告発する映画の段階で、「TAR」はちょっと先を行き過ぎているのだろう。

 

本人が女性なのはもちろんのこと、妻がいたり、子供が養女なのか有色人種ぽかったりする、とても現代的な人物に見えるんだが、内実は男社会の中でのし上がっていく過程で、完全に悪い意味でのマッチョ男性みたいな頭になっているというのがポイント。彼女の行動は、周りの男性の古くて悪い部分のコピーなんじゃなかろうか。

 

細かいんだけど、それはこんなところに現れていると思う:

・ナイーブな学生を論破。ちなみに、私はこの時点ではリディアに共感すら覚えており、学生が怒って出ていくのがよくわからなかった。けっこう丁寧にひも解いていたと思うんだけど、学生の方が頑なすぎん?この部分は、作品よりも作者のポリコレを重視するキャンセルカルチャーのゆがみを描いているのだと思うが、せっかくジュリアードの学生という設定なのだから、双方に理があるように描いてほしかった。学生がただのアホにみえる。

・自分を慕って指揮を教えてくれとすがる同僚っぽい人を軽くいなす。自分のやり方を真似されるのが嫌みたいだ。これは私見だが、女性っぽい女性は人にノウハウを共有するのが好きな気がする。そもそもちょっと教えたくらいでコピーできるくらいならそれまでの才能なんだと思うんだけど、この異常に真似されたくないの、なんなんだろう?

・尊敬する先生には全力で向き合う。この先生は3度出演するのだが、2度目ではリディアの「セクハラとかパワハラってどう思うか?」という質問に、「ものすごく重要な問題。告発されたら終わりだ」と言われ、リディアが衝撃を受けていた。そうそう、今どきの男性ってセクハラ・パワハラがめちゃくちゃ怖いのだ。リディアにとっては、女性はむしろずっと告発する側だったら、驚いたんだと思う。3度目はこの先生にそっぽ向かれるシーン。けっこうきつかった。

・娘のペトラをいじめる同級生に「私はペトラのパパ。次にいじめたらあなたをつぶす」という言う。敢えてパパというところ、子供にも容赦ないところ!ペトラが意外と喜んでいたのが地味に面白かった。ペトラはお人形で指揮者遊びをしていたが、指揮棒を「鉛筆」といい、「全員に鉛筆を渡す」と言っていたのに、リディアが「全員には無理だ」と断言する。そう、指揮者ってたくさんはいらないのよね。選ばれた一握りの人の仕事。また、ペトラは、いつも近くにいるわけじゃないけど力強くて刺激的なリディアが大好きで、これも父子っぽいなぁと思った。

・若くてかわいくて才能のあるチェリストのオルガを発見し、入団もしていないのに優遇。団員や妻、妻の姉であるチェリストに反発される。リディアはしばらくオルガを身の回りに置くが、オルガはリディアを何とも思っていない。浅く見ると若い美人をひいきにしたキモイおじさんなのだが、音楽が絡んでいるのがミソで、オルガは本物のチェリストであるし、本当に演奏が素晴らしいのだ。映画には出てこないが、妻シャノンの姉よりも演奏が魅力的という設定だろう。指揮者としては、このチェロ協奏曲をぜひやりたいと純粋に思った。だが、残念ながら下心もある。ケイト・ブランシェットが完全に「下心のあるキモイおじさん」を再現しており、舌を巻いた…。

・子供をかわいがって寝かしつけしたりもするけれど、リディアは仕事用にマンションを持っており(妻はそれを嫌がっている描写がある、)家のことは参加する程度。作曲は静かで広い自宅でやった方がいいのに、わざわざ騒音のするマンションに通う。家族と仕事はきっぱり分けたいのだ。

さらに細かいんだが寝かしつけでなかなか寝ない娘にイラっとする描写があって、「たまにしかしないのに面倒なのか 笑」と思ってしまった。

・フランチェスカが蒸発したことにキレて、荒い運転をするリディアと、車から降ろせと怒る妻シャノン。このシーン、男女バージョンで何回目?

・で、さらに細かいんだが、(またかい)この趣味のいい家、おそらく妻シャノンがインテリアを考えた、まさに「シャロンの城」という設定であり、別れたとたんリディアは追い出されてしまう。そもそも、リディアが好きなのは「セクハラで告発されたオペラ歌手的インテリア」なのだ。

 

姑かというほど細かく見てしまった。

この製作者の解像度は異常で、「男性性の良くないところを持った権力者女性2023」を完全に描き切っている。ちなみに劇中でも触れられている女性指揮者のマリン・オルソップは、この映画に不快感を示している:

「女性として、指揮者として、そしてレズビアンとして、この映画に不快感を覚えました。リディアを虐待者に仕立て上げるなんて、私にとっては心が痛むことでした。すべての女性、すべてのフェミニストは、そのような描写に悩まされるべきだと思います。この映画には、実際に虐待をしている多くの男性が登場しているはずなのに、代わりにその役回りを女性に据えて、男性的属性をすべて与えている。それは反女性的な感じがするのです」

それはその通りだ。

とはいえ、今後は女性が加害者になる可能性だってあるということなのだと思う。

 

***

 

ただ、これは単なる没落ストーリーではない。ここで終わりではないのだ。

権力から滑り落ちたリディアは、貧しかった少女時代の家に戻る。バーンスタインが指揮について、音楽について語っているビデオを見返して、やはり音楽は素晴らしく、好きなのだということに回帰する。

また、このような特権的な仕事に就く人が豊かな家の出自であることが多いのに対し、リディアは貧しい中から自分の力で掴んでいったのだということもわかり、途端に人物に厚みが出てくるんである。

 

で、で、さらにさらに、指揮の仕事で東南アジアに行き、女の子を選べる売春宿みたいなところに連れていかれ、それがオーケストラピットにそっくり。こちらを見ている5番の女の子は、ちょうどチェロが座っている、向かって中央右側。顔もオルガに何となく似ている。ちょっとわかりやすく作りこみすぎじゃあありませんかという勢いだ。リディアは自分がしてきたことを客観的に見ることになり、愕然として嘔吐する。

この純粋さである。全くもって悪気なく、音楽が好きで、女性が好きでここまでやってきただけと思っていたのだろう。

 

そこからリディアは再起し、意欲のある若いアジア人たちに音楽を教え、最後にまた指揮を振るシーンで終わる。

でもこのオーケストラ、曲はマーラーなんかじゃなく、ゲームの曲。演奏会もファンミーティングのようなところで行われるのだ。観客はゲームのオタクで、みんなコスプレして嬉々として座っている。以前のリディアの指揮シーンのように、ぽつぽつ入ってくる白人男性・女性観客たちと、圧倒的メインのリディアという構図ではなく、めちゃくちゃ楽しみに満席で座っている観客と、逆光でほぼ見えないリディアという構図に代わっている。

リディアは今までのように時間を、オケを、果ては観客を支配することなく、観客がむしろ主役で、音楽を観客に純粋に楽しまれるものとして立ち上げるのだった。雑音が嫌いなリディアがうるさいアジアの市場でスコアを分析し、会場でも雑音がずっとしているところも、音を支配することができない、むしろしなくても音楽はできる、というリディアの変化を表している。

 

だからこそ、映画の冒頭にスタッフクレジットが、しかも後ろから流れ(つまりエンドクレジットの最後の方に流れる人たちが映画の冒頭に流れる、ということ)、本編終わってからやっとケイトブランシェットや監督の名前が出てくる。権力の三角形が逆になっている、というコンセプトを映画の構成でも表している。

こういう謎解きっぽいものは私は好きだけど、ここは若干やりすぎと思った、、。わかんなかった人は置いていかれる映画というのは、それこそ観客の受け取り方がメインである映画にとって本末転倒だ。また、権力の三角形は逆になる必要がないと思う。いくらスタッフや観客が大事だからと言って、私にとっては、何かを見るときは監督や指揮者で選ぶ。アートに関しては、それが作品のすべてだと思っているからだ。

違う見方をすると、「転覆」である。キャンセルカルチャーにより、見る側の力があまりにも強くなり、逆転してしまう。こちらは映画のメインテーマとは思わなかったので(というか、ほかの部分で感動したので優先順位は下がった、)個人的には違うかなと思った。

 

もう一つのイケていない部分は、転落以降のリディアの再起がダイジェスト版のようにあっさり描かれるところだ。冒頭のゆっくりしたスピードからすると最後らへんは走馬灯のようであり、ここが一番いいところなのにもったいないように感じた。走馬灯みたいなタイムスパンだから1シーン1シーンが必要以上にわかりやすく作りこまれ、それがあっけない感じもしてしまっている。

 

いろいろ書いたが、今のところ今年ナンバーワン映画だった。

最後に、この長大な映画を見る自由時間をたっぷりくれた夫氏に感謝。