なぜ知識人は独裁者が好きなのか |
From Benito Mussolini to Hugo Chavez: Intellectuals and a Century of Political Hero Worship,
by Paul Hollander
連続殺人で有罪となり収監された殺人犯は、実は自分の犯罪歴しか知らない女性たちから求婚されることが多い。この奇妙な現象が示しているのは、自己欺瞞が人間の行動の決定にどこまで深く染み込んでいるかという事実だ。
このような求婚をしてしまう女性というのは、「この殺人犯の心の奥底には人知れぬ善い面があり、自分だけがそれを表に引き出すことができる」と考えているとみられる。
よって彼女たちは、「自分は他の女性とは異なる<違いのわかる女>であり、連続殺人犯に対する一般女性の態度は退屈で、何も考えずに批判的になっている」と考えるのだ。
したがって彼女らは、自分たちのことを「一般の女性たちよりも、より深い面を直視する思慮深い存在」であると見なしているのである。そして興味深いことに、彼女たちは軽犯罪者などには目もくれないのだ。
このような態度は、少数の知識人たちが持つ、独裁者に対する態度にも見てとることができる。これはとりわけ、その独裁者がユートピアな世界を追求していると主張している場合によく見られるものだ。
ポール・ホーランダーはマサチューセッツ大学アムハースト校の社会学の名誉教授であり、長年にわたって政治における欺瞞や自己欺瞞について研究してきた人物である。彼は母国ハンガリーでナチスと共産主義の両方を実体験しているため、これは当然のことといえる。
1981年に著者は、主にスターリン時代のソ連や毛沢東時代の中国、それにカストロ政権時代のキューバなど、共産主義国家を訪ねた(といっても案内係がつきまとうような、厳しく管理されたものばかりだが)西洋の知識人たちが、そのような国々で新たな世界が建設されている様子についていかに賞賛していたのかを詳細に報告した、古典的な研究書を出版している。
もし現実がそれほど過酷なものでなければ、彼らの報告と現実との違いは「単なる笑い話」として済まされるものであっただろう。
今回紹介する『ムッソリーニからチャベスへ』(From Benito Mussolini to Hugo Chavez)という本の中で、著者のホーランダー教授は、様々な独裁者や独裁的なリーダーたちに対する、このような知識人たちの視点に目を向けている。
彼の研究は科学的なアプローチをとっておらず、たとえば無作為に独裁者たちと知識人たちを選び出し、知識人の独裁者に対する態度について、あらかじめ設定した質問に対して答えていくようなことを行っていないため、似非科学と呼ばれてもしかたないものかもしれない。
したがって、著者のアプローチは「質的分析」ということになるのだが、それでもきわめて興味深いものだ。
「西洋の知識人」の定義がどのようなものかはわからないが、たとえそのうちの10%が独裁者の崇拝者や支持者――しかもその何人かはある独裁者が死んでも次の独裁者を英雄として扱うような「前科」のある知識人ということだが――であったとしても、これはこれで非常に興味深い、特筆すべき現象であることは間違いない。
本書の中で挙げられている、最もひどい政権を賞賛していた知識人のリストは、実に驚くべきものだ。その一例は、H・G・ウェルズ、ジョージ・バーナード・ショー、ロマン・ロラン、ジャン=ポール・サルトル(彼は何人も賞賛している)、ノーマン・メイラー、Cライト・ミルズ、ミシェル・フーコーなどである。
ホーランダー氏が問うているのは、「実際は否定的な書評や、敵対的な教授会程度の危険しか経験したことがなく、しかも自国で自分の自由が(それが実際か想像上なものはさておき)脅かされることに関してやけに敏感であるような知識人たちが、なぜ実に多くの外国の抑圧者たち、さらには殺戮者たちにも、惹きつけられてしまうことが多いのか」ということだ。
第一に、独裁者の性質を考慮すべきだ。当然だが、すべての独裁者は同じではないし、これは知識人においても同じことがいえる。
まずドイツ人以外の知識人たちにとっては、スターリンよりもヒトラーを尊敬することは難しい。その理由は、太古からの自らの人種や国家の優越性を主張していた、ヒトラーのアイディアそのものにある。これでは外国の人々の尊敬を集めるやり方として最悪の部類に入るのは明らかだ。
それでもマルティン・ハイデガーやカール・シュミットのように、多くのドイツ知識人たちはヒトラーに協力しており、反対した人々は少なかったのである。
もちろん彼らの支持が、どれくらいの恐怖や「ご都合主義」によって促されたものなのかは確定的なことは言えない。ところが長年にわたる研究によれば、彼らの大間違いは断じて正当化できるようなものではなく、ヒトラーが政権を握る以前の段階で、大学生や教授たちの間では、ヒトラーの支持率は一般国民のそれと比べても高かったのだ。
いいかえれば、知識人たちが一般国民と比べて自分たちのほうが優れて持っていると自称することの多い「本質を見通す鋭い視点」や「人間に対する慈愛」というのは、少なくとも(そしておそらく多くの場合、もしくは常に)利己的で架空のものであるということだ。
近代社会の最も教育を受けた層の人々が支持したからといって、その政策が必ずしも「正しい」ものであるという証拠にはならない。
だからといって、「教育を受けていない層が常に正しい」という結論を導き出すのも間違いである。間違いの反対が必ずしも真実であることにはならないからだ。それは単に「もう一つの別の判断も間違っている」ということだ。
それと同様に、たまたま独裁者となってしまったような人物たち、つまりシリアのアサド大統領や、イラクのサダム・フセインのように、主な目的が自らの権力や関係者たちの権力の維持であるような場合は、その擁護者がいたとしても、尊敬を集めるような存在になれないことが多い。
知識人たちの興味を引くためには、独裁者というのはいくらかの「ユートピア的な理想」を具現化した存在、もしくはそのような存在であることを自ら主張しなければならないものである。
知識人というのは表面的な事象ではなく、その奥底にある本質を見抜く特別な能力を持っていることを自慢したがるものであるが、実際はそれそのものが彼らのレゾン・デートル、つまり「存在意義」になってしまっている。そもそも一般人が見抜けないものを見抜けなければ、彼らの役割そのものに意味はないからである。
たとえば、単純に思考する人々は、聖職者たちを虐殺するという事象を、ありのままの「虐殺」という現象として見るものだ。ところが知識人たちは、これを歴史の弁証法の働きであると理解し、実際の「死」よりも、想像される未来の展開をより現実的なものとして感じ、それらをオムレツの完成のために必要な「卵のカラ」としか捉えないのである。
もちろん著者のホーランダー氏は、スターリンや毛沢東、そしてカストロ(フーコーの場合はホメイニ師も入る)のような独裁者になぜ知識人たちが惹きつけられるのかについて、単一の理由があるとは主張していないし、それを見つけたとも言っていないわけだが、すくなくとも評者である私の目からは、宗教の考え方があるものごとについての説明を行う立場として社会的に大きく否定された時代の中で、「準宗教的な考え」が待望されている、と考えているように見える。
全体主義的な独裁者たちというのは、民主主義体制でよく見られるような政治家ではないし、そのレトリックにかかわりなく生き残るのに精一杯なだけで、政敵とのだらしない妥協を行う用意はできており、道徳的にも財政的にも腐敗していることが明らかであり、権力を握っている時よりも反体制にあるときのほうがいきいきとしており、人類を救うような大胆なアイディアは持っておらず、人類あらゆる知識や智慧を備えているようなことは主張しないものだ
むしろ彼らは人類のあらゆる問題に解決法をもたらす力を持っており、永遠に実り豊かな土地と平和へと人類を導くと主張する、宗教的なリーダーたちなのだ。
彼らの知識は深く、実行力にもあふれ、愛すべき存在で慈愛にも満ちており、常に国民の幸福を気にかけている存在となる。ところが同時に、彼らは控えめで謙遜しており、自らに向けられる賛美を気恥ずかしく思っているはずであるということになる。
つまり知識人たちは、独裁者たちの中に「人間」を求めているのではなく、「救世主」を求めているのだ。
サルトルは何人もの独裁者たちを「準宗教的な存在」として信奉してきたのだが、その傾向は彼が1970年代に再発行し、今日でも発行されつづけている新聞につけた名前そのものに見てとることができる。その名前は「リベラシオン」(Libération)、つまり「解放」である。
ところがこれは一体何からの「解放」を意味するのだろうか?当時のフランスは、独裁体制からはほど遠い存在であった。よってサルトルによって意味されていたのは、神秘主義的、もしくは人間が永遠に労働にしばられる既存の状況からの異世界的な「解放」である、という結論を導き出さざるをえない。あいにくだが、宗教という名前を名乗らない宗教ほど魅力的なものはないのだ。
ホーランダー氏の極めて読み応えのある達筆でタイムリーな本書は、われわれがまだこのような歴史から何も学んでおらず、将来においてもこのような間違いをおかす可能性があるという暗黙の警告によって締めくくられている。
むしろ「通常」の政治や政治家に対する不満が世界中に台頭するにしたがって、われわれは「ユートピア的な幻想」がすぐにその隙間を埋めようとしてくるような事態を予期できるのである。
本書は多くの知識人たちが、他の一般の人間たちと同じように(というかむしろ彼らの方が)、人生に意義や納得をもたらすことを約束してくれる、一種の「幻想」を必要としていることを確認するものだ。
彼らの想像力、理想主義、そして自己超越への渇望は、「社会正義を体現化している」と主張する英雄的なリーダーたちの、善意の放つ魅力の虜にしてしまうのである。
=====
率直にいえば、いままでになんとなく感じていたことをよく言い表してくれたな、というのが私の感想です。ここでいう「知識人」たちの定義はたしかに微妙なんですが、この本や評者が言いたいことは、その知識人たちが独裁者たちに「宗教的なリーダー」を見ている、ということですね。
実際に私もこの本を読んでみましたが、近代史においては金正日に対して好意的な評価をしているブルース・カミングスや、イランのホメイニ師に対して「新しい統治モデルだ」としたリチャード・フォークなどの発言などを引用しつつ、これでもかというくらいに独裁者に甘い知識人たちの実態を暴いております。
もちろんだからといってあらゆる知識人たちが独裁者好きということにはならないわけですが、どうも知識人というのはプラトンの『国家』で提唱されているような「哲人王」(philosopher king)のように、一般の人には見えないもの(イデア)を見れるのだ、という勘違いを起こしやすく、それを意外に独裁者の中に見出してしまいそうな傾向がある、ということもいえそうです。
人間観察として、このような分析は非常に興味深いところですね。

===
▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
「奥山真司の『未来予測と戦略』CD」
▼奴隷の人生からの脱却のために
「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
「奥山真司の『真説 孫子解読2.0』CD」
▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
「奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD」
▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回