「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか知っていますか
知られざる「戦前」の正体右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
「再発見」された神武天皇陵
少し脱線したが、このように神武天皇の重要度が高まっていくと、神武天皇陵も放ったらかしにはできなくなった。
神武天皇陵は、『古事記』に「御陵は畝火山(うねびやま)の北の方の白檮尾(かしのお)の上にあり」、『日本書紀』に「畝傍山東北陵に葬りまつる」と記されている。
やはり記紀で内容が微妙に異なるのだが、現在の奈良県橿原市にある畝傍山の北ないし東北に神武天皇陵があったという点では共通している。
神武天皇陵は、『日本書紀』や『延喜式』に記述が残っており、古代には存在していたようだ。だが、さきにも述べたように、中世になると荒廃して所在がわからなくなってしまった。
記紀の記述にもとづいて場所探しが行われたのは、泰平の世が訪れた江戸時代になってからだった。有力候補は、畝傍山東北裾野にある塚山(現・橿原市四条町)、丸山(同山本町)、神武田(じぶでん)(同大久保町、別名ミサンザイ)の3ヵ所だった。
もっとも、確たる証拠があったわけではない。江戸中期の元禄年間に行われた幕府の修陵事業では、神武天皇陵は塚山に定められたが(これを専門用語で「治定(じじょう)」という)、現在ここは2代目の綏靖(すいぜい)天皇陵となっている。
神武天皇陵が今日の場所に定められたのは、やはり幕末になってからだった。天皇の存在感が高まるなかでふたたび幕府により大規模な修陵が行われて、1863(文久3)年、勅裁により神武天皇陵が神武田に変更されたのである。
この場所は名前のとおり、水田だった。しかも江戸初期には、人糞を用いる糞田だったという記録も残っている。そんななかにあった土壇(国源寺という寺院の跡とされる)を基礎として土手や拝所、鳥居などが設けられた。糞田から天皇陵とは、なんともダイナミックな変化といわざるをえない。
なお残りの丸山は、畝傍山にもっとも近く、本居宣長や蒲生君平といった江戸時代の代表的な知識人も推した有力地だった。それでも外されたのは、近くに被差別部落があったからだといわれる。
やがて明治時代に入ると、さらに神武天皇陵の整備が進んだ。1898(明治31)年には、周濠のなかに円墳が築かれて、古墳の体裁が整えられた。そして皇紀2600年に大規模に整備されて、現在のように堂々たる姿になったのである。