ヴァーチャル児童ポルノの問題

 日本製のヴァーチャル児童ポルノ*1が、欧米で発売中止になったニュースが流れた。web上では、いつも盛り上がる話題である。はてなブックマークでも、多くのコメントが寄せられている。

「 日本製「性暴力ゲーム」欧米で販売中止、人権団体が抗議活動 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)」
「 日本製「性暴力ゲーム」欧米で販売中止、人権団体が抗議活動(読売新聞) - Yahoo!ニュース」

 「國文学」2008年11月号(特集「『萌え』の正体」)に掲載された、原田伸一郎「児童ポルノ法は『萌え』を裁けるか」の次の指摘は、今回のニュースの論点を明らかにするだろう。

(前略)現実の児童虐待を伴わず、絵やCGになどにより創作された、いわゆるヴァーチャル「児童ポルノ」をも、児童ポルノ規制の対象に含める方向での規制の拡大が進められているのが、目下の国際的趨勢である。実際にアメリカは、Child Pornography Prevention Act of 1996(CPPA)という連邦法を嚆矢として、ヴァーチャル「児童ポルノ」規制に乗り出しつつある。また、日本も署名している欧米評議会サイバー犯罪条約も、マンガ等は除かれているものの、ヴァーチャル「児童ポルノ」を規制対象に含めている。
(中略)
 一般に欧米で想定されているヴァーチャル「児童ポルノ」は、3DCG技術などを使って、”リアルな”表現を志向したものであり、それらは実際に本物の児童ポルノの代替物として機能している。リアルとヴァーチャルの境界を撹乱する志向性を持つという点では、たしかにそれらは法的に問題性が高い。しかし、日本では、特に「萌え」系のマンガ・アニメ・ゲームに代表されるように、およそ実在の人物とは顔立ちやプロポーションが全く異なる、非現実的な「アニメ絵」の「キャラクター」が、ヴァーチャル「児童ポルノ」と疑われてしまっている。
 それが、表面的な意味でのリアル性でないことは明らかである。日本のマンガ・アニメ・ゲームは、ヴァーチャルな表現であるのに(いやだからこそ)、奇妙なリアリティがある。そこが疑惑の中心なのである。すなわち、ヴァーチャルな「児童虐待」はリアルの「児童虐待」と結びつくものなのか、端的にいえば、オタクはマンガ・アニメ・ゲームを見ることによって性欲が刺激され、実在の児童に対して性的虐待を行ってしまう危険な人格なのか。これが、マンガ・アニメ・ゲーム等を「児童ポルノ」として規制することが可能かどうかをめぐる議論の最大の論点である。(80〜81ページ)

そして、原田さんは法的規制に反対した後、次のように議論を締めくくる。

 これに対抗する方法はあるのか。本稿はむしろ「萌え」を、子どもを守るか、子どもを侵すかの天秤の上で、常に身の振り方が試される、「オタクの十字架として定位したい。つまり、「萌え」を、「ヴァーチャル・セクシュアリティの現実化危機」、すなわちヴァーチャルな表現によって喚起された欲望が、現実の児童虐待などに結びついてしまうのか、それともあくまでヴァーチャルな欲望にとどまり続けるのか、その分岐点に居座るトポスとして位置づけたい。「萌え」の本質は、パフォーマティブなアンビヴァレンス(両義性)である。
 そう理解することで、「萌え」の倫理というものが明らかになってくる。オタクの責任と言い換えることもできよう。子どもを持った以上、それを侵さず、守るのが親の責任であるように。おのおのの実践が何よりの証明になる。これが、オタク側から「児童ポルノ」規制に対抗する視点になるだろう。
(82ページ)

國文學 2008年 11月号 [雑誌]

國文學 2008年 11月号 [雑誌]

 私は、以前も書いたように、大人が子どもを性的対象にすること自体は、法的に規制できないとした上で、ヴァーチャル児童ポルノは問題化されるべきだと考えている。

「欲望は禁止できない、しかし…」

結論部は、原田さんとほぼ同じである。

 その上で、もう少し書き添えておきたい。私たちは、「性的虐待」という言葉を聞いた時、過酷な状況を生き延びたたくましいサバイバーの顔を思い浮かべるだろうか?それとも、犯されて泣き叫ぶ少女のアニメ絵を思い浮かべるだろうか?そして、その思い浮かべたイメージは、どんな媒体から入手されたものだろうか?
 問題は、今現在も、現実の性的虐待の中を生きている人たちがいることだ。そして、その人たちは、私たちが表現の自由を謳歌し、ゲームを楽しんでいるそのときに、生命の危機を感じ、必死に生き延びている。そして、その後、誰にも話せず、被害経験を胸にしまったまま大人になるサバイバーもいる。この非対称性を問題にしている。ゲームをやめろとは言わない。私たちには、自分たちがどう行動するのかを選択する自由がある。だが、いくら虚構を楽しみ、現実の悲惨さが目隠しされてしまっても、性的虐待は存在し続ける。「ゲームはゲーム」と言ってしまったとき、何かを忘れたいと思っていないだろうか。
 性的虐待は私たちが生きている現実の中に起きている出来事だ。そして、ゲームの中で虚構として起きているできごとだ。私たちは、その両方を、同じ「性的虐待」という名で呼んでいる。いつも、一つの出来事は、もう一つの出来事を想起させている。*2この連関は、欲望の中で、どのように作動しているのか。
 結論は簡単で、私たちは、児童ポルノを肯定するならば、同時に児童に対する性的虐待を否定し、被害者を支援しなければならない。そのとき、子どもに対する性的欲望は問題なく両者を識別できるのだろうか。実際の性的虐待を受けた子どもたちに欲情せずにいられるのだろうか。思考実験するには値すると思う。そして、もし欲情しても、その欲望は禁止できない。それをおぞましいものだと思う人がいても。ただ、「ゲームはゲーム」だと呪文のように唱えるよりは、性的虐待について率直に考えるよい契機になるように思う。
 法的に、ヴァーチャル児童ポルノと、性的虐待は完全に区別される必要がある。しかし、心理的には、まだまだ考える余地があるのだ。

*1:実際の児童が出演することのない、創作物である児童ポルノ

*2:やおい・BLにおける男性間セックスの表象にも同じことが言える。ケータイ小説については、以前詳しく論じたhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20081019/1224388590