ドロドロなIT

ちょっと前まで、グーグル対アップルの戦いはオープン対クローズの戦いだった。それが、最近は、Androidのオープン性が怪しくなる一方、アップルは ResearchKit なるものを出したりして、そんなに単純には割り切れなくなってきた。

ネットやモバイルデバイスが我々の生活に浸透するにつれて、両者の戦略はともに複雑化していく。当然のことで、世の中との接点が広がる以上、もし世の中とのつながりを保とうと思うなら、複雑化するしかない。

それに対して、政治は、特に日本の政治は最近なんだか単純化しているような気がする。政治というか政治を巡る言説というか。

多国籍企業が世界政府になるというのは、強権や陰謀的なやり方によってそうなるのでなくて、だんだんと自然に政府が自滅的に権威を失墜していくということなのだと思う。

政治とはドロドロしたものでとよく言われるけど、それは汚職のことではなくて複雑な意思決定のプロセスのことなのではないだろうか。

ネットの巨大企業が何を巡って競争しているかというと、それは「決断の総量」の大きい方が勝つという競争で、たとえば「ResarchKitをオープンソースにする」という意思決定の前後には、ものすごい量の意思決定がある。

誰か一人の命令でみんなが一丸となって動くなら、何千人の人が関わっていようとも「決断の総量」は少ない。そういう企業は生き残っていけない。たくさんの人が自主的に動いていても、それぞれの決断がぶつかって打ち消したりするリスクがない所での意思決定だったら、それはぶつからないような枠組みを事前に決めた人だけが本当の決断をしたということで、やはり「決断の総量」は多くない。

昔の自民党は一党独裁と呼ばれたが、党の内外でぶつかりあう意見を政策に反映させていく意思決定が何レベルもあって、そこにはいろいろな要素が反映された複雑なプロセスがあった。

今、それと似たようなことをやっているのが、アップルとグーグルだと思う。つまり感覚器から脳まで有機的につながっていて、自身の複雑さの中に外界の複雑さを反映させて環境に適応している。小さな個別の事象の認識と大きな意思決定の間に連続性がある。だから、より多くの人が政治に参加しているという実感を持つことができたのだ。

iPhone を買うか Android を買うか選ぶことは、個人的な利害調整であると同時に、何か大きなプロセスに自分も参加しているという実感があるのではないだろうか。だから、iOSのシェアが上がったり下がったりした時に、自分のことのように喜んだり怒ったりする人がたくさんいる。

今と昔で違うのは、「コードを書く」という形の意思決定をしている人がたくさんいることだ。日本のIT企業がパッとしないのはコードを書く人は本当の意思決定をないことになっているからだ。コードを書くというのは設計作業で、リスクのある決断をする人がたくさんいないと全体として意味のあるシステムができない。しかも、コードというのは社員が書いたクローズなソースても組織の外部にあって、絶対に書いたとおりにしか動かない。コンピュータを使うということは、巨大で硬質な外部性を組織の内部に抱えこむということで、これに励むことによって、組織の筋肉が鍛えられるのだと思う。

プログラマが意思決定をしない人だと思っていると、そのプロセスはなかなか見えてこないが、その外部性とうまく共存できる会社は自然と外界の複雑性に対する適応力を持つことができる。ネットではその優劣を高度なレベルで競いあっていて、今頂点に立っているのがアップルやグーグルやフェースブックやアマゾンだが、次を狙う会社も無数にある。

これらが全体としてやっていることは、これから限りなく政治と呼ばれているものに近づいていくだろう。


一日一チベットリンク→ダライラマをめぐる中国の被害妄想と米国のジレンマ  WEDGE Infinity(ウェッジ)

この人も「複雑な意思決定」を体現したような人ですね。