集団知の創造的機能、最適化機能、選択機能

集団知論に関するjounoさんのコメントと関連エントリについて。

「ぼくが何を批判しているかの理解がずれている気がします」とjounoさんがおっしゃる通りだと思います。というのは、ここでjounoさんがおっしゃっていることに、私はほぼ同意するからです。だから、jounoさんの論点がわからないのではなくて、それが自分の言ったことの何に対してどういう批判になるのかがわかりません。

私は、典型的な「走りながら考えるタイプ」なので、自分が何を言っているのかも、こういう批判をいただきながらよく考えないとわからないのですが、とりあえず、jounoさんがおっしゃっていることを、自分なりにまとめながら整理してみたいと思います。

jounoさんは、ネットワークの「創造的機能」と「選択機能」を分けて論ずるべきだとおっしゃっています。これは全く同感ですが、私はさらに「選択機能」と「最適化機能」を分けて考えてみます。

「創造的機能」とは過去になかった新しい価値を作るとことです。ネットは、従来接続が無い所に接続を作るものです。典型的には、人と人が出会ってアイディアや意見を交換することです。それによって、単なる折衷案や組み合わせ以上の新しい価値が生まれることが「創造的機能」です。

「選択機能」とは、A案、B案、C案のように、有限の確定した選択肢がある時に、どの案がもっともよいか選択する機能です。

「最適化機能」とは、直接税の税率のように、枠組みが固定でパラメータが可変の時に、どのような配分にすればもっともよい解となるか決定する機能です。

そして、集団知のこれらの機能と政治との関連について、まず集団知の「創造的機能」に限定するならば、政治の質を向上させるので、それを活用することは望ましいとjounoさんはおっしゃっていると思います。


社会的なコミュニケーションのとくに政治的分野における濃度と密度が上昇することが、その一般的な質の向上に寄与することをぼくは否定しません。それは量的なだけではなく、構造化されて質的なものとなりうるでしょう。問題は、わたしが批判しているのは、そこから、特定の意見が、選出されるという立場です。情報ネットワークは、そのネットワーク内部で生成される意見の洗練や向上には寄与します。この創造的機能は確実に存在します。ですから、情報ネットワークの創造的機能を批判しません。これは総体としては信頼するに足るものでしょう。問題は、私は、ネットワークの選出機能は信頼するに足りない、と考えているということです

そして、「最適化機能」についてはどうか。


目的地が共通であってはじめて、最適化プロセスは有意味なんです。


essaさんの暗黙の前提に、目的とする状態について暗黙の高度の共有前提が存在するということがあります。本質的に同質なメンバーによる集合的プロセスだからこそ、「私の最善」と「集団の最善」が一致すると信頼可能なわけです。

つまり、特定の座標軸を前提とする限り「最適化機能」は有効であるが、それが政治的プロセスに直結することは望ましくないということでしょう。

そして、「選択機能」についてはどうか


集団知が賢明な意見を生み出しながら、それ自体総体としてはおろかである、のはなぜかというと、マスは共通利害と意思主体を持たないからです。聡明であるためには選択の基準を持たなければならない、なぜなら、すでにコメントでも述べましたが、知的賢明さだけでは複数の意見の間からの選択をすることはできないからです。


トーナメントで考えれば、わかりやすい面もあります。トーナメントはもっとも強いものを選び出すシステムとしては非常に劣悪です。緒戦で強豪同士がつぶしあうのはよくあることです。

これについては、集団知は「選択」はうまく行なえない、従って当然、それを政治的プロセスにつなげることはよくないとなります。

別の言い方をすると、「最適化」の為には単一の評価基準が必要であり、「選択」の為には、(知的賢明さを超える)意思主体としての実在が必要である。集団知は、どちらも持ってないので、政治的プロセスの中で活用すべき/しうるのは、その「創造的機能」のみである。

こうまとめると100%同感なんですね。まとめ方に問題があるのか、私が矛盾しているのか?

強いて言えば、私は「創造的機能」を集団知の本質と見ていて、「選択」や「最適化」は、そのサブシステムとして機能しているようにとらえます。つまり、「創造的機能」によって生まれた新たな価値の萌芽が、「選択」「最適化」を経て、次の「創造的」ステップにつながっている。その「選択」「最適化」は、単体としては特定の座標軸の元で行なわれるが、そのような「選択」「最適化」が同時並行的に、複数発生する。その複数性によって、専制的な性質はかなり緩和される。

だから、同じ問題意識をかかえながらも楽観的なのかもしれません。

それともう一点。


そのため、エリートは多様化する必要がある。そうすると、もはやそれはエリートの概念ではとらえるべきではなくなる。それがいわば兼業知識人でしょう。その意味では「知識人」のギルド的性格は批判されるべきだと思います。しかしそこで、逆に「生活者の知恵」や「集団の英知」を持ち出すことは不可である、と考えるわけです。結局、そういうふうに、発案者の属性で持って、あらかじめ、出てくる意見の信頼度をおしはかることはできない、と思います。

これも賛成です。「兼業知識人」という多様化したエリート層は、まさに私が理想として考えているものです。ただ、その障害となる「『知識人』のギルド的性格」の弊害について、切迫感というか危機感が違うのだと思います。

私は、「『知識人』のギルド的性格」からくる独善性は、すぐに壊さないと大変なことになる、その為には何でもありという感じです。ただ、「兼業知識人」は実態としては既に存在しているので、「ギルド的性格」の呪縛さえ壊せば、それがすぐに機能しはじめ、「発案者の属性」のみを根拠にした批判などもすぐになくなるだろう、という点では楽観的です。