概要
東エルサレムを首都と主張しているが、事実上の首都はラマッラ。最大都市はガザ。
歴史的パレスチナ
西アジア東地中海海岸一帯を指す地域名。パレスチナは地中海東岸一帯で、古くはレヴァントとも呼ばれ、シリアの南部一帯をいう。かつてはユダヤ人(ヘブライ人)がイスラエル王国を造っていたが、前1世紀にローマ帝国領となりユダヤ人は離散し、その後、この地はイスラム化してアラブ系住民が居住する様になった。ところが、離散したユダヤ人が再集結、アラブ系パレスチナ人と衝突し、パレスチナ問題が起こった。
歴史
「イスラエル国」も参照。
起源
パレスチナ人の先祖の一部はペリシテ人と呼ばれる民族であった。パレスチナ国の名前の由来はこのペリシテ人に由来する。
パレスチナ地域には前3000年頃に遡る青銅器文化段階の都市遺跡が多数発掘されている。この地は古くはカナンといわれ、カナン人が交易に従事し、都市国家を形成していた。前1500年頃にはエジプト新王国のトトメス3世が進出し、メギドの戦いでパレスチナを破る。以後はエジプトの支配下に入った。
そのころ、小アジアからヒッタイトが進出し、この地は両勢力抗争地となった。紀元前12世紀頃に東地中海に海の民が進出。ヒッタイトが滅び、エジプト新王国が後退したことによって情勢は一変、海の民の一派であるペリシテ人がこの地に鉄器を伝え、活動する様になった。そうしてペリシテ人の名からパレスチナという地名が起こった。ペリシテ人はヘブライ人と対立しながら、現在のガザ地区のアラブ人となっていった。
ヘブライ王国
前1500年頃から西北メソポタミアの地で遊牧生活を送っていたセム語系ヘブライ人がカナンの地に移動。さらにその一部は新王国・エジプトに移住して、奴隷の境遇に陥った。前13世紀中頃、彼らは「出エジプト」を行い、パレスチナの地に戻っていくつかの部族に分かれて定住する様になった。
長期に渡る移住によってカナン人と同化したと考えられ、またペリシテ人との抗争過程で統一国家建設が進み、ヘブライ王国を建設。紀元前1003年、ダビデ王の時代に周囲を平定し、都エルサレムを建設した。次のソロモン王の時に大いに繁栄したが、その死後ヘブライ王国は南北に分裂して衰え、北のイスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は前587年に新バビロニアによって滅ぼされ、多くの住民がバビロンに連行されるバビロン捕囚の苦難を体験した。この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれる様になった。
この後、バビロンはアケメネス朝ペルシアに滅ぼされ、ペルシアはアレキサンダー大王に滅ぼされ、その次はローマ帝国・・・と時の強国に翻弄されて行く。
救世主・キリスト誕生
イエス・キリストが誕生。彼は各地を回り、人々に教えを説いて行った。
前4年のヘロデ王死後、内紛が発生。ローマが直接介入することとなり、紀元6年にはローマ属州として支配されることになった。ローマ総督としてこの地を支配したのがポンティオ=ピラトで、彼がイエスを処刑した。後にイエスの弟子達がアジアやヨーロッパにキリスト教を布教してゆく。
民族離散
紀元60年、ユダヤ州がローマ帝国に対し反乱を起こすも鎮圧。民族離散(ディアスポラ)が発生し、ユダヤ人は世界各地に散らばることとなる。
イスラム化
7世紀にイスラム教勢力が勃興、正統カリフ時代の638年、エルサレムはイスラム教勢力によって征服これによってパレスチナにも急速にイスラム化した。イスラム教はアラビア語で書かれたクルアーンを聖典とし、アラビア語で教えを説いたので、この地の住民もアラビア語を話す人々、つまりアラブ人と同化して行った。
だだし、ユダヤ教徒やキリスト教徒はいなくなった訳ではなく、人頭税を払うことによってその宗教を守ることが許され、エルサレムは依然としてユダヤ教・キリスト教・イスラーム教にとっての聖地として存続し、彼らは混在して生活していた。また、ヨーロッパのキリスト教徒もエルサレムに巡礼に来ることもあった。その後、10世紀にはパレスチナにエジプトを征服したイスラム教国のファティマ朝勢力が進出した。
十字軍
11世紀には中央アジアから移動したトルコ系セルジューク朝が小アジア・パレスチナに侵入。コンスタンティノープルのビザンツ帝国は強く圧迫されることとなり、西ヨーロッパのキリスト教世界に救援を要請。
当時、人口増加期にあった西ヨーロッパのキリスト教世界でも、キリスト教聖地・エルサレムがセルジューク朝に占領されたことから、聖地回復を口実として十字軍運動を開始した。
1099年には、十字軍はキリスト教国エルサレム王国を建国した。しかし、1187年アイユーブ朝(エジプト)のサラディンによってイェルサレムを奪回されてからは次第に衰え、1291年、最後の拠点アッコンが陥落したことによって、パレスチナのキリスト教国は消滅。
その後はオスマン帝国が台頭、近代まで彼らの支配が続くこととなる。
列強介入
近代に入り、オスマン帝国領への英国・フランス・ドイツ・ロシアなど列強進出が強まり、さらに帝国主義段階には、オスマン領分割競争が激化した。その様な中、ヨーロッパではナショナリズム(民族主義)が強まって各国内のユダヤ人に対する排除・差別などの反ユダヤ主義風潮が高まった。フランスの「ドレフュス事件」などがその例である。
それに対してヨーロッパのユダヤ人の中にシオニズムという、パレスチナへの帰還とユダヤ国家建設を目指す運動が勃興、この地を巡って民族抗争と帝国主義列強の対立が絡んで複雑な情況が発生した。
第一次世界大戦(WW1)
英国はオスマン帝国を倒すため、各国の支援を必要としていた。英国は戦後処理のため、
- フサイン・マクマホン条約(アラビア諸国独立を約束)
- サイクス・ピコ協定(フランス等への見返りを約束)
- バルフォア宣言(ユダヤ人に対して居住地を約束)
とそれぞれに配慮した案を出した。
バルフォア宣言を行ったアーサー・バルフォアは、英国のウォルター・ロスチャイルド男爵に書簡を送る。バルフォアは後にイスラエル初代大統領となるハイム・ヴァルツマンに感銘を受け、シオニズムを支援した。
大戦後のセーヴル条約によって、英国とフランスはオスマン帝国領のアラブ地域を分割、委任統治とすることとした。
英国統治開始
パレスチナは1922年から英国委任統治が始まり、ユダヤ人は約束に基づきパレスチナの地に移住して来た。バルフォア宣言でユダヤ人に対する大戦後のパレスチナにおける「ホームランド」建設を約束したが、それは必ずしも国家を意味するものではなく、また、移住に際しては「パレスチナ人(アラブ居住者)の権利を侵害しないこと」という条件が付けられていた。
当初のユダヤ人入植者はロシア・ポーランドからが多く、既に居住していたアラブ人(パレスチナ人)と共存していたが、ユダヤ人が増加。貧しいアラブ農民が土地をユダヤ人に売却するケースも増え、次第に対立感情が醸成されて行った。ユダヤ人入植者は「キブツ」という集団農場を建設し、「ハガナ」という軍事組織を持ってパレスチナ人との衝突に備える様になり、とうとう両者間で武力衝突も始まった。
その頃中東で相次いで石油油田が発見。英国は中東への関心を強め、アラブ人を懐柔すべく、ユダヤ人の移住を制限。パレスチナ人国家建設を容認する提案をした(1937年のピール委員会分割案、39年のマクドナルド白書)が、ユダヤ・パレスチナ人双方に拒絶され、その双方からのイギリス統治への反発からしばしば暴動が起こった。
この一連の政策は後に「三枚舌外交」と呼ばれ、昨今のパレスチナ問題の原因は英国にあるとされているのはこのため。
パレスチナ抵抗運動
英国委任統治下でユダヤ人入植が急増したことに対し、1920 - 30年代にパレスチナのアラブ人農民や労働者による大規模な抵抗運動が開始された。その指導者の1人・シェイフ=カッサームは、ユダヤ人入植地と英軍へのジハード(聖戦)を呼掛け、1935年4月に英軍と戦い、投降を拒否して戦死。
その武闘路線はカッサーム同胞団などの青年グループに引継がれ、36年からの「パレスチナ蜂起」となった。彼はパレスチナ革命に殉じた最初の「フェダィーン(自己犠牲者)」として後世に名を残し、1987年にガザ地区で勃発した「インティファーダ(第1次)」を指導したハマス軍事部門は「イッザッディン・カッサーム隊」と名付けられている。
アラブ人の実力による抵抗にもかかわらず、ユダヤ人入植はさらに増加した。背景には30年代のドイツの独裁者・ヒトラー率いるナチスによるユダヤ人絶滅政策から逃れて来た人々が多かったことがある。また、パレスチナのアラブ農民の中にもユダヤ人に土地を売却するものも多く、その入植地は急速に増えて行った。
シオニストの攻勢に対するパレスチナ抵抗運動も組織的となって行ったが、英国など国際世論にはパレスチナを分割して双方の国家を建設する構想が浮上して来た。
英国の疲弊
第二次大戦後にヨーロッパにおけるナチスドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が明らかにされると、ユダヤ人への同情が集まり、パレスチナへの帰還と国家建設は国際的な支援を受ける様になった。しかしイギリス自身は、委任統治に対するユダヤ・パレスチナ人双方からの不満に対処することに次第に疲弊し、遂にアトリー内閣が委任統治期間終了に伴い撤兵。戦後の新たな国際紛争解決機関である国連にその解決を丸投げした。
第一次中東戦争
1948年5月15日、イスラエル独立宣言を受け、それを承認しない周辺のアラブ諸国のアラブ連盟加盟のシリア・レバノン・ヨルダン・イラク・エジプト連合軍が一斉侵攻、戦争となった。これはパレスチナにおけるユダヤ・アラブ人対立から起こった民族紛争であり、「パレスチナ戦争」と呼ばれたが、この戦争から始まった両者の戦争は断続的に4回に渡っているので、これを「第一次中東戦争」ともいう。ただし、イスラエル側は「独立戦争」と呼んでいる。
パレスチナ戦争は2度停戦を経て1949年初めまで戦闘が続けられた。この戦争は国際連合が成立して最初の国際紛争であったが、国連調停官のベルナドッテ伯がエルサレムでユダヤ人武装集団に暗殺されるなど、困難が伴った。アラブ諸王国側はそれぞれ領土欲にかられて参戦したが連携がなく、イスラエル軍に分断され、それぞれ別個の休戦協定を結んで終結した。しかし、アラブ・イスラエルは四度に渡り中東戦争を展開して行くこととなる。
その結果、1948年6月14日、イスラエルが建国される。
第二次中東戦争
アラブ民族主義を掲げたエジプトのナセルは、イスラエルに対抗する国力充実を図るため、ナイル川のアスワンハイダム建設などを目ざしたが、その自立志向を認めない英国に対し、スエズ運河国有化に踏み切った。
1956年、それを機にイスラエル&英仏連合軍がエジプトに侵攻、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。国際世論はアラブ側に傾き、エジプトはスエズ運河国有化に成功した。
この後、国連軍がガザ地区とシナイ半島南端・シャルム=エル=シェイク(アカバ湾入口)に駐屯して監視、平和維持を図ろうとした。しかし1963年、イスラエルがヨルダン川の水を一方的に分流してイスラエル南部・ネゲブ砂漠に導水管を引く計画を実行に移すと、翌64年、ナセルはカイロにアラブ首脳国会議(13ヶ国が参加)を召集。ヨルダン川分流に対抗してアラブ側にも導水路を建設すること、PLP(パレスチナ解放機構)を組織することを決定。
第三次中東戦争
パレスチナ人によるゲリラ組織であるアル=ファタハがアラファトなどによって組織され、活動が始まった。イスラエルはパレスチナ=ゲリラに武器を提供しているとしてシリアを非難、同国も反撃して衝突が繰返された。
1967年、ナセルは国連軍撤退を要求、アカバ湾を閉鎖してイスラエル船航行を禁止、戦時態勢を整えた。イスラエル側も軍備を増強、一触即発状態となり、第三次中東戦争が勃発。
イスラエルとパレスチナ両国はゴラン高原を巡り対戦。イスラエルが先制攻撃を仕掛け、「6日戦争」と呼ばれる短期間に、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜し、間もなく死去した。
この戦いでパレスチナ難民が続出した。イスラエルとエジプトは消耗戦争とよばれる、断続的な砲撃戦が続いていくことになる。
第四次中東戦争
ナセルに代わったエジプト・サダト大統領は、1973年10月6日にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功、世界を驚かせた。
この第四次中東戦争では、緒戦において始めて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束し、石油戦略を展開、有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。しかし、ガザ地区やヨルダン川西岸にはイスラエル人入植が進み、そこからの撤退は認めなかった。
PLOとの戦い
アラファト率いるPLOはヨルダンを拠点としていた。ヨルダン政府はPLOが王政打倒に向かうことを恐れ、1970年9月16日にPLO排除を狙い、その拠点の難民キャンプを襲撃。一般市民も含めて多数の犠牲者が出た。このヨルダン内戦(パレスチナ側は「黒い9月」)は、アラブ同士の戦いとなったので、エジプトのナセルが和平交渉を仲介しようとしたが、彼は同月28日に急死したためまとまらず、やむなくPLOはレバノンに本拠を移動させた。70年代にはミュンヘン五輪でのイスラエル選手団人質事件、エンテベ空港事件などを起こす。
1982年イスラエルはレバノンに侵攻し、PLOに対して徹底した攻撃を仕掛けた。これを第五次中東戦争と呼ぶこともある。その結果、PLOはベイルートを維持できなくなり、チュニジアに本拠を移動させた。
アラファト和平
この様なパレスチナ側の運動の手詰まりを打開したのが、1987年12月、ガザ地区パレスチナ人民衆の中から始まったインティファーダ(民衆蜂起)であった。従来の軍隊同士の闘いではハイテク武装したイスラエル軍が圧倒的に有利であったが、女性や子供も含む民衆が武器を持たず立ちがるという形態にはイスラエルも手を焼き、中東和平を望む国際世論を無視出来なくなった。
また一方で1988年11月15日、PLOは「パレスチナ国家樹立」を宣言すると共に議長アラファトが国連総会で演説してイスラエルの存在を認め、テロ活動停止を表明し方向を転換し、和平交渉に繋がって行く。
ところが、湾岸戦争でイラクのサダム・フセインを支持したことで湾岸産油国からの支援が打切られた。事態を打破すべくイスラエルとの対話を示す穏健姿勢を見せることで再開。
オスロ合意
イスラエル建国から続いていたイスラエルとパレスチナの紛争を終わらせて2国家を共存させるため、1993年9月、ノルウェー首都・オスロで結ばれた。イスラエル軍が占領したガザ・ヨルダン川西岸両地区より撤退、パレスチナ側が一時的に自治を行なうことなどを定めた。
翌94年にアラファトはノーベル平和賞を受賞するが、イスラエル側でイツハク・ラビンが暗殺、和平への道が途絶える。
近況
2018年、オスロ合意から25年が経った。イスラエルが支配地を拡大する一方、米政権の親イスラエル政策などによって、合意は守られず和平には程遠い。
そしてイスラム組織ハマスが台頭。イスラエルとパレスチナは今でもミサイルを飛ばし合い、骨肉の紛争を繰り広げている。
文化
パレスチナ文化は、パレスチナの歴史的地域に存在して来た多様な文化や宗教の影響を受けている。パレスチナの文化的及び言語的遺産は、アラビア要素と何千年にも渡ってこの土地とその人々を支配するようになった外国文化双方が融合したものである。
サッカー
パレスチナ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2010年にプロリーグのウェストバンク・プレミアリーグが創設された。
シャバーブ・アル・ハリールSCがリーグ最多6度の優勝を達成している。パレスチナサッカー協会(PFA)によって構成されるサッカーパレスチナ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場であるが、AFCアジアカップには2015・2019・2023年大会と3度の出場経験を有する。
食文化
パレスチナの料理はパレスチナ地域に定住した文明文化拡散であり、特にアラブのウマイヤ朝の征服に始まり、最終的にはペルシアの影響を受けたアッバース朝、そしてトルコ料理の強い影響で終わる。
レバノン料理・シリア料理・ヨルダン料理など、レバント料理に似ている。
国際関係
国連加盟国の内、145ヶ国が国家承認しているが、イスラエルは元より、日本を含めたG7は承認していない。
2012年11月29日、国連総会で「オブザーバー国家」と認められたが、国連に正式加盟できた訳ではない。
- イスラエル
不倶戴天の敵。『旧約聖書』にはペリシテ人とヘブライ人の戦いが随所に描かれる。各のメディアではパレスチナ寄り偏向報道がされる。
しかし、エルサレムから50km離れたところにあるネーベ・シャロン(ヘブライ語で「新しい平和」という意味。検索で「Neve Shalom」と打たないとヒットしない)という、ユダヤ人とアラブ人が平和に共存して暮らす村があり、平和モデルとして注目を集めている。パレスチナとイスラエルが手を取り合う日は来るのであろうか?
民主党支持者に擁護派が多く、共和党の地盤ではパレスチナ擁護が解雇の理由になるらしい。
日本との関係
1979年に設置されたPLO事務所が1989年に常駐総代表部に格上げ、事実上大使館機能を有している。
1998年にガザに日本代表事務所を設置するも、2007年にラマッラに移転。
突撃番組『電波少年』でラファト議長と面会する特集を敢行。松本明子がアラファト議長と面会、抱き着くところまで成功。後にダウンタウンDXで松本が明かしたところによると「アラファト議長とハグをした際、護衛が持っていた機関銃安全装置を外していた(=銃殺されてもおかしくなかった)」と衝撃的な舞台裏を告白。
日本の新左翼はパレスチナ寄り姿勢を取っているが、これは1970年代にとある新左翼活動家がPLO傘下の極左政党・PFLP(パレスチナ解放人民戦線)に国際義勇兵として加わったことに起因する。
このPFLPに加入した日本人義勇兵が起こした「テルアビブ空港乱射事件」は、中東のイスラム過激派が唱えるジハードに大きく影響を与え、自爆テロが生起する遠因になったといわれる。
この事件を起こした日本人らは後にPFLPから独立、日本赤軍と称した。
パレスチナ出身者
- アラファト議長
- アミーン・フサイニー師
⋯1920 - 30年代のパレスチナ指導者。ナチスに対しユダヤ人絶滅を唆したとされる。事実彼は多くのユダヤ人虐殺事件を扇動している。
⋯2代目大統領、初代首相。パレスチナ難民の帰還権について大幅に譲歩するとも受け取れる発言をした。
関連作品
映画
- パレスチナのピアニスト(2022年)
- キプールの記憶(2000年)
- 戦場記者(2022年)
書籍
- ハマスの息子⋯ハマス創設者のひとり、モサブ・ハッサン・ユーセフ著
番組・ドキュメンタリー
- クレイジージャーニー・須賀川拓が見たイスラーム聖戦
関連動画
- 聖書入門.comパレスチナ人はペリシテ人の子孫ですか?
]
- パレスチナ国国歌
- パレスチナの歴史
関連タグ
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ゴリアテ⋯神話に伝わる巨人。戦車などに名前を残す。
参考サイト
- 世界史の窓
- ウィキペディア
- NHKニュース・パレスチナ問題って何?
- BFP公式サイト
⋯イスラエルの物資支援をしているキリスト教団体。パレスチナにも支援をしている。