配給とは、
→本記事においては2について説明する。
今、日本に住んでいる我々は、お金と、店に在庫さえあれば特に制約を受けること無く、自由に物を購入することができる。また、店からすれば、自らの決めた価格で消費者に提供することもできる。
しかし、戦時中の我が国。現代でもキューバなどの社会主義を標榜する国では配給制度といって、その売買に一定の制限が設けられている。
また、災害時に断水が発生したとき、給水車が当該地域を巡回して水を住民に提供したりするが、あれも一種の配給である。
また、映画などではシーンが省かれがちなので勘違いされやすいが、戦時中の配給制における配給は、あくまで購入する権利を貰えるだけで、無料ではない。切符や通帳(後述)、許可証を配給所の所員に見せた後に、代金を払うことで対象物が手に入る仕組みである。
無償で貰える配給は福祉目的で行われる炊き出しなどが該当し、配給制度における配給とは別物である。
産業革命が世界に波及し、科学技術の発展によって、19世紀の終わりごろには大量生産・大量消費社会が到来した。
これによって人類は前近代とは比べ物にならないほど、豊かな生活を送れるようになったが、一方でこの大量消費は第一次世界大戦の長期化による、国家総力戦への移行の過程で大きな障害となった。
英国では当初の見込みでは特別な措置を講じなくても、兵站は維持できると考えられていた。しかし、Uボートの暗躍で食糧の輸入が滞りがちになり、新聞に前線の兵士が餓死している有様を報道されるという失態を犯してしまった。そこで、軍需品への物資集中をスムーズに行うため、1915年に軍需省を設立し、民営工場の国有化で工業生産を更に伸ばすことはもちろんのこと、1918年7月の食糧配給制度の導入で国民生活における消費にブレーキをかけている。
ドイツでは、ウィンナーなどの食文化にも見られるように、特異なほど家畜生産の割合が大きく、その飼料を協商国からの輸入に頼っていた。にも関わらず、当初は大戦の長期化が予想されていなかったせいもあって、開戦した年の1914年は例年と同じどおり海外にも農家が食糧を自家保存を除いてほとんど売り払ってしまうというある種間抜けな事態を引き起こした。その為、開戦二ヶ月にしてじゃがいも粉が混ざったパンや水で薄められた牛乳などといった代用品が出回るほどの食糧難に陥ったため。1915年より食糧配給制度を開始している。
しかし、約27年ほど後のどこかの島国と同じく、戦局の悪化と共に、食糧配給制度は先細るようになった。これは1916年から1917年にかけて、頼みの綱だったじゃがいもが凶作になるという事態が降り掛かったせいもあった(カプラの冬)が、とにかく国民の不満はつもり、政府も打てる限りの手は講じたが、なかなか改善せず、敗戦へと導く一因となった。
我が国は幸いにも、第一次世界大戦への関与は少なく済んでいたこともあり、このような危機はおきなかった。一方で、ドイツにおける食糧生産計画が和訳されて読まれるようになった時期と、いわゆる米騒動の時期が重なり、国家総力戦の参考資料の一つとして、ドイツのこの事例は我が国で研究されるようになった。
1937年に盧溝橋事件をきっかけとして我が国は中国との戦争に突入した。
当初は「暴支膺懲」の旗印の下、快進撃をみせて程なく屈服すると見られていたが、よく知られている通り、日中戦争は程なく泥沼の様相をみせた。
当たり前だが、戦争遂行には途方もないほどの物資が必要である。長引けば長引くほど、国の備蓄は心もとなくなり、もはや経済体制を戦時に切り替えなければ続行は難しくなっていく。
開戦から3ヶ月経過した1937年10月に、時の政権であった近衛内閣は、総合的な国策立案を行う企画院を設置した。そこでは金属・石炭・石油・機械・食糧を中心とする物資の調達すべき数量や、為すべき具体的な方策を策定した「物資動員計画」を年次ごとに作成し、実行に移すようになった。
とはいえ、当初はあくまで物資が心もとなくなってきたので、海外から入ってくる物資の原料輸入配分を決める程度のものであり、国民生活への厳しい統制はさほど想定されていなかった。しかし、この計画は敗戦に至るまで、結果的に国民生活を直接統制するための土台となった。
1938年に入ると、国防完遂の為という名目のもと、国内のあらゆる資源を国歌によって統制する、国家総動員法が制定。翌年にはその法律の下、インフレが進行した事を口実として、物価や運送料・保険料などを同年9月18日時点の価格に固定(公定価格)して値上げを禁じた、価格等統制令を発令した。物資不足による国民生活窮乏を解決するための法令だったが、売り手側は生活のためにこれを無視して闇市場を開くなどしてこれをかいくぐり、インフレは止まるどころか一向におさまらなかった。
1939年に、国民党政府の副総裁であった汪兆銘との間で講和を結ぶことによって、我が国は日中戦争の終局をはかろうとした。しかし、1940年1月に腹心が国外脱出して、英領香港で講和条件を暴露した上、汪兆銘を我が国の傀儡だということを喧伝した為、この終局の目は無くなった。
いよいよ日中戦争が長期化の構えを見せたことから、1940年6月1日より、価格形成中央委員会の決定に基づいて米・味噌・醤油・マッチ・塩・砂糖・木炭など生活必需品10品目を、順次配給切符制にすることを決定。試行錯誤を重ねながらではあるが、配給制度が本格的に開始された。
真っ先に配給制となったのは、需給がより逼迫していた、砂糖とマッチであった。砂糖はいざしらず、マッチは喫煙が当たり前の風習になっていた当時の我が国においては、愛煙家たちの頭を悩ませるものだった。砂糖は月々一人当たり240g、マッチは一日あたり五本であったが、戦局の激化及び悪化によって民生へ回るものはどんどん削られて、終戦時にはほとんど消え失せていた。
他の品目も時の経過と共に、配給制度の下に組み入られるようになったが、特筆すべきは米である。我が国の食生活は鎌倉時代からこの時代に到るまでもうほんとにアホみたいな量の米(1食で成人一人が2合ほどの米を食べるのが当たり前だった)をとってエネルギーの大半を賄っていたので、その統制は国民の食生活を大きく揺るがすことになった。
日中戦争の泥沼化によって、農家からは次々と働き手である男性が徴兵によっていなくなり、生産量は落ち込んでいった。また、米の内需は、4分の1ほど台湾や朝鮮から頼っていたが、その輸送を担っている船舶と燃料が次々と軍に回されていたため、その面でも追い打ちをかけられた。
1939年4月に食糧統制の先駆けとして米穀配給統制法が公布されて、米は全て政府が買い上げることとなったため従来の取引所は廃止された。続いて11月には米穀搗精等制限令が公布されて、精米の割合も制限されるようになった。
1940年10月には米穀管理規則によって、自家用保有米を除く全ての米を政府に公定価格で売却することを農家は義務付けられ、事実上の供出を強要された。これを供出米という。
1941年には農林省の外局として、食糧管理局が設置されて戦時の食糧統制の組織化が更に進められ、同年3月には国家総動員法に付随する勅令として生活必需物資統制令が制定。4月より東京や大阪などの六大都市から遂に米も配給手帳による統制の対象となった。米だけでなくこの年のうちに魚や卵・魚なども配給になり、国民の食生活への締め付けはさらに強くなった。
1941年12月に太平洋戦争が勃発し、さらなる軍需の増大に応えるために、1942年2月には既存の食糧関係の法規を整理統合した、食糧管理法が新たに制定され、法制を強化。この法を基にして、全国では米穀の配給通帳制度が整備され、一応の完成をみた。
1世帯に1通この通帳が発給され、各家庭ごとに配給量が調整された。基本的に1通限りで紛失しても再発行は受けられず、偽造は当然として譲渡や貸与した場合でも罰則の対象となった。
米”穀”と書かれているように、米以外にも麦、粟や稗などの雑穀も対象である。
お金ではなく、物資の通帳というのはなかなか聞き慣れない概念ではあるが、出納を記録した家計簿のようなものであり、ここから貰える米を計算して一定期間の家庭の食糧計画を立てていたと考えれば、お金ではなく米の管理のために使用されたと考えれば通りはいいだろう。
また、市町村長の公印が捺され、世帯主や住所も記録されていたため、身分証明書としての機能も保持していた。まだ運転免許はごく一部の人間に限られ、保険証や年金手帳もない時代においては貴重な価値を持っており、配給所以外にも旅館の宿泊時や銀行口座を開く際にも用いられたという。
工場労働者や行商人などの家庭で自炊をしない者については、米穀通帳にかわって外食券の交付を受け、食堂でそれを提示することで食事の提供を受けていた(冒頭でも言及した通り無料ではなく、料金は別途である)。
配給量の調整の他にも、いつ購入したか、どれだけ割当量を消費したかを記録した為、配給の間違いや過不足を防止する役目も担っていた。
通帳制度は米穀だけでなく、塩や木炭、酒・味噌醤油などにも適用されている。
まだ日本が勝ち進んでいた頃は、苦しいながらもなんとか規定通りの配給を行えていた。
しかし、ミッドウェー海戦を契機にした戦局の悪化により、我が国のシーレーンが次々とアメリカをはじめとした連合軍に食い破られ、1944年のサイパン島陥落による絶対国防圏の崩壊で、本土空襲がはじまった。
そうなると、供給ラインに大幅な混乱と、生産にも大きな支障を来すようになり、配給の遅配や停止、配給されても量・質共に劣化が目立った。米には稗や粟などが代用品として混ざるようになり、米自体も分づき米、最終的には玄米になった。しまいには米のかわりに芋や大豆が提供されて、実質的なエネルギー量を低下させていた。
また、配給対象の物品も順次拡大されていき、1942年には衣料品が切符制になり、石鹸やタバコ、ゴム靴や地下足袋なども配給制に組み入れられ、1943年末までにはほぼ全ての生活物資が配給制になった。
衣料品は切符制であると共に点数制であり、一人あたり一年100点分に制限されていた。上着や下着だけでなく靴下や手袋、帽子、ネクタイなどといった細かい服飾も点数の範囲内だったため、とても賄いきれるものではなく、家庭の主婦による穴の空いた服装の繕いが大事な仕事となった。
食糧も年を追うごとに、人の消費量を賄えるものではなくなった為、農家に直接買い出しにでて公定価格の数倍から数十倍するヤミ米や闇物資を買い付けることも見られるようになった。お金で足りなければ晴れ着や骨董品、貴重品などで物々交換を行った。
戦時中の銃後の人々はこのような最中でも、乏しい物資を最大限活用する為、隣組の単位で炊事を一斉に行ったりして無駄を省くなど、涙ぐましいまでの生活の努力が見られ、耐乏し続けた。
1945年8月15日にポツダム宣言の受諾が昭和天皇により発表され、戦争は終わったが、国民の生活は良くなるどころかかえってさらなる地獄へ誘うことになった。
終戦と、GHQによる占領下における統制は、我が国の行政に甚大な混乱をもたらし、それまで首の皮一枚で機能していた配給制をも巻き込んだ。
1945年の我が国は空襲や労働力の不足によって、農業生産力は極限まで低下しており、悪天候であったことも重なって、餓死者が大量に発生した。政府機能の麻痺によって供出米が大幅に減ったのにも関わらず、需要は変わらないため、極めて深刻な飢餓が発生したのである。
こうなると先述の闇市は更に活発化し、10月の闇市の米価は公定価格の49倍というとんでもない値を記録するようになった。
このような状況のため、食糧の安定を少しでも実現するために、配給制は依然として続けられた。しかし、歴史の授業や終戦記念日の周辺に行われるドキュメンタリーやドラマで取り上げられるように、配給物資では全く需要を満たすことが出来なかった。政府の対策の遅れは国民の大きな怒りを買い、同年11月1日には日比谷公園で餓死対策国民大会が開催され、解決を強く訴えた。
1946年からはアメリカ在住の日系人たちの努力もあって、ララ物資やガリオア資金というアメリカからの資金や物資の大量注入が行われて、少しずつ混乱の立ち直りが見られるようになった。もともと我が国は食糧産出が恵まれている(米がこれだけ豊富にとれる立地に恵まれているのは、我が国含めてごくわずかである)のもあって1947年にはようやく食いつなげるだけの最低限の食糧は確保され、配給制度は次々と終了していった。
しかし、アジア各地に散らばっていた日本兵の復員や第一次ベビーブームによる人口増加と食料需要の増大により、食糧の安定、特に米についてはなかなかおぼつかなかった。配給制度の名残ともいえる米穀配給通帳は、終戦から10年ほどは実質的に機能していた。
とはいえ、配給では依然として足りなかったため、ヤミ米の流通は止まらなかった。それどころか米穀通帳の根拠法である食糧管理法は、国民の最低限の健康を維持することを妨害しているため、生存権に反すると違憲訴訟を起こされるほどの事態に発展した(1948年に合憲であるとして最高裁で退けられている)。
1955年からの数年間にわたり、米は大豊作だったことを契機に、上昇を続けていた米価は落ち着きを店始め、1960年頃には米の配給制そのものが廃止になった。その後、米穀通帳は米屋で米を購入するときくらいしか使われなくなり、1969年には数年前から出始めていた米余りに対応するため、政府以外への流通を一部認めた自主流通制度の開始によって、ほとんど形骸化した。
1982年の改正食糧管理法施行によって、世情の変化に対応して厳格な配給制度は廃止となり、自主流通制度がメインに置かれるようになった。それと同時に、米穀通帳の発行は廃止され、これをもって我が国の配給制度は全て終わりを告げた。
現在の我が国の法制度として、配給と類似した管理制度は、国民生活安定緊急措置法にその名を残すのみであるが、1972年のオイルショックや、2020年のコロナウイルスによるマスク転売の規制など、ごくたまに目にする機会がある。
我が国に「飽食の時代」が到来し、フードロスなどが問題になって久しいが、近年の物価高や風雲急を告げる世界情勢の変化には注視し続ける必要があるだろう。
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最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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