1989年(平成元年)10月に徳田虎雄衆議院議員が政治団体として結成、1994年(平成6年)に政党化した。結成当初、元民社党の大内啓伍や元自由党(通称柿沢自由党)の柿沢弘治など様々な政党から移籍した議員が所属しており、政権獲得実現のために活動していた。しかし所属議員のうち6名が他党(主に自民党)に移籍したり引退したりした。
1996年(平成8年)に行われた第41回衆議院議員総選挙にて88名の候補者を立てたが残っていた衆院議員2名を含む全員が落選し、政党要件を喪失した。1997年(平成9年)に無所属議員5名が入党し、自由の会に改称して再び政党化するも離党者を出したため再び政党要件を失った。
1997年(平成9年)、新進党を離党した細川護煕が入党し代表になり、同時にフロム・ファイブに改称された。1998年(平成10年)1月に国民の声と太陽党と合流し民政党を結成、同年4月に更に旧民主党などと合流し民主党を結成した。
1998年(平成10年)、政治団体として残っていた自由連合を徳田虎雄が新党自由に改称するも、同時期に小沢自由党が結成されたため、それに考慮して党名を自由連合に戻した。同年に行われた第18回参議院議員通常選挙にて得票率2%を得たため政党化、その直後に政党自由連合に改称するもすぐに元に戻した。この頃から国政選挙にて勝算を度外視した候補擁立、タレント候補などの擁立を行うようになり次第にネタ政党としての色合いが強くなっていった。しかし、2003年の第43回衆議院議員総選挙以後はそのような候補者の乱立は行われなくなっていった。
2005年(平成17年)、病気のために徳田虎雄が引退。その後次男である徳田毅が第44回衆議院議員総選挙にて無所属で擁立、当選直後自由連合に入党し代表になった。しかし2006年(平成18年)11月2日、徳田毅が離党したことにより徳田虎雄が再び代表になった。同年12月、徳田毅は自民党に入党した。
2007年(平成19年)、政党要件を完全に喪失した。その後政治団体として存続していたが2010年(平成22年)夏に総務大臣に解散届が提出され、16年の歴史に終止符を打った。
・・・かに見えたが2013年(平成25年)、自由連合解散時の債務77億円(2001年に徳州会の系列企業から借り入れたもの、利息含む)がまだ未返済であることが報道された。徳田虎雄は返済の意思を清算人に伝えていたものの、後に返済の対応を保留、親族らも返済に対し反対の意思を見せるようになったため清算手続きが頓挫した。
徳田虎雄が医療法人徳州会の理事長であったため、自由連合と徳州会グループとの関係はかなり密接したものであった。
みどりの風所属の阿部知子衆議院議員は政界進出の前に千葉徳州会にて病院長を務めていた。その縁もあり、過去の選挙において自由連合から推薦・支援を貰っていた。
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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