御園生崇男(みそのお たかお)とは、元プロ野球選手のことである。故人。
OB | |
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御園生崇男 | |
基本情報 | |
出身地 | 山口県防府市 |
生年月日 | 1916年1月16日 |
没年月日 | 1965年7月10日 |
身長 体重 |
170cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手、一塁手、外野手 |
プロ入り | 1936年 |
引退 | 1951年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
山口県立山口中学校に進学し、1933年に選抜中等学校野球大会に出場。
中学卒業後、関西大学へ進学。新人戦で完封勝利したことで話題となり、創設したての大阪タイガースから誘われ入団。
入団直後の36年から先発の一角を担い、37年秋には15試合に登板し11勝0敗、防御率2.32、勝率1.000を記録し最高勝率のタイトルを獲得し、チームの優勝にも大きく貢献。
以降も景浦將、若林忠志、西村幸生らとともにタイガースの投手陣を支え、38年春に10勝1敗、勝率.909で2シーズン連続で最高勝率を獲得している。
また、当時としては珍しいわけではなかったが所謂二刀流であり、登板間隔が空くと外野手として出場していた。
40年に応召しチームを離脱するも、翌年に復帰。
復帰後は球速が落ちたこともあり成績が低迷したものの、終戦後の47年に13連勝を含む18勝6敗、勝率.750で3度目の最高勝率のタイトルを獲得、防御率も1.99と完全復活を果たした。
1952年からは大阪タイガースの一軍投手コーチや二軍監督を勤め、小山正明などを育てた。監督就任の噂もあったが肺の病気もあったため58年に退団。
以降は解説者として活動していたが、1965年7月10日に死去。享年49歳。
正確無比なコントロールとテンポの良さを持ち味とし、力のある速球とシュートで打者を打ち取るスタイル。
規定投球回到達での勝率1.000 は御園生以外では景浦將、間柴茂有、田中将大しかいない大記録である。
野手としては俊足巧打タイプの選手で、通算で87盗塁、ホームスチールも3度成功させている。
ロイド眼鏡を掛けた知的な見た目と、荒々しい選手の多かったタイガースの選手たちの中で温厚で真面目な性格という異質な存在であり「銀行員」とも呼ばれていた。また、愛妻家でもあった。
一方で酒豪の多かったタイガースの選手たちの中でも屈指の大酒飲みとしても知られ、二日酔いの状態で登板し敗れたこともある。
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 831 | 2365 | 2062 | 209 | 506 | 5 | 247 | 87 | 39 | 2 | 258 | 4 | 147 | 13 | .245 | .330 |
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 285 | 108 | 17 | 127 | 70 | --- | --- | .645 | 1708.0 | 501 | 477 | 591 | 454 | 2.39 | 1.18 |
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最終更新:2024/12/23(月) 16:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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