ヒカリデユール 単語

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ヒカリデュール

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の数よりも、
光へのりが、人生を語る。

 君は、
ヒカリデユール。

いつか。いつか。の名でここへ帰ってこい。

JRAポスターヒーロー列伝No.12 ヒカリデユールexit

ヒカリデユールとは、1977年生まれの日本の元競走馬種牡馬である。

デュール アイイオー ゲイタイム

名の読みは正式にはヒカリール」だが、1990年まで地方競馬では拗音(ャ、ュ、ョ)や促音(ッ)の使用が認められていなかったため、表記は「ヒカリール」となる

な勝ち
1981年:ダイヤモンド特別、東海桜花賞
1982年:有馬記念(八大競走)、朝日チャレンジカップ
1983年:サンケイ大阪杯

1982年優駿賞最優秀5歳以上年度代表馬

概要

※当記事ではヒカリデユールの活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています

地方競馬の凡馬

"地方競馬出身の名"

このフレーズから連想するのは、一般的には「地方競馬トップクラスの成績を残し、中央に殴りこみをかけてきた」だろう。
地方競馬中央競馬レベル差があまりなかった時代ならタカマガハラ(1960年中央入り。地方戦績15戦3勝)等の前例があったとはいえ、ヒカリデユールが活躍した1980年代はもう地方競馬中央競馬レベル差がはっきりとついており、ハイセイコー(1973年中央入り。6戦6勝)のように地方競馬無敵の連勝を続けるか、カツアールのように直前に本格化(1981年中央入り。前年に帝王賞ダイオライト記念大井記念を含む5連勝)して、力の違いを見せつけていることが中央競馬で大活躍するための絶対条件と言える時代となっていた。

翻って、ヒカリデユールの地方戦績。南関東三冠を4→4→2着と勝ち切れず、5歳になって移籍した東海営で東海桜花賞(中央の桜花賞と違って問わない古限定競走)を含む4勝をしているものの、南関東よりレベルの劣る東海営での話であり、地方競馬トップクラスとして見れば庸な成績と言わざるを得ないものだった。

ただし、ヒカリデユールの勝った東海桜花賞は当時、地方競馬としてしい芝重賞であり、その時の2着であるカズシゲがヒカリデユールより先に中央競馬に移籍し、マイラーズカップを勝っていることもあってヒカリデユールは中央で通用すると自信を深めていた。

そしてカズシゲ移籍から半年後の1982年6月、当時6歳のヒカリデユールは東海キング3着を最後に中央に移籍をすることとなった。

激闘、秋の陣

中央入りしたヒカリデユールが初戦に選んだのは朝日チャレンジカップメンバー的に薄いところだったが、前二走が連続3着だったこともあり、11頭7番人気低評価だった。
しかし、やはり芝に適正があったのか、中最後方待機から直線で一気にごぼう抜き。しかも重馬場でありなら2分05と良馬場並のタイム叩き出してその実力をアピール天皇賞(秋)へと向かうことになった。

朝日チャレンジカップの後、同じ地方出身の4歳ホスピタリティセントライト記念皐月賞を破り傷の9連勝を決めたこともあってが薄くなりかけていたものの、朝日チャレンジカップでの勝ちっぷりはやはり衝撃だったのか天皇賞では実績を考えると異例の5番人気に推されたヒカリデユール。
前走と同じように後方待機から直線で追い込みレコード駆けのメジロティターンに次ぐ2着に滑り込み前走がフロックではないことを明した。

続いて選んだレースジャパンカップだが、この年のジャパンカップはまだ2回ながら、日本勢には諦めムードが漂っていた。前年、日本エースクラスであるホウヨウボーイモンテプリンスが為す術もなくアメリカメアジードーツにひねられていたからだ。
しかもこの年の外GI11勝の歴史的名ジョンヘンリーや名エイリルランと言った強が参戦し、前年2着のフロストキングむほどのメンバーで、逆に日本エースモンテプリンス、新ホスピタリティ天皇賞メジロティターンが回避したおかげでスイートネイティブ八大競走勝利のヒカリデユールが押し出されるように日本エース(ただし両とも8番人気)になるような有様だった。

しかし、東海営時代のライバルカズシゲが作ったペースの中いつもどおり後方待機をすると直線でまたもや末脚を繰り出し、勝ったハーフアイストから0.3差の5着と大健闘。翌年のジャパンカップを制する4着スタネーラとは写真判定になるほどの僅差で、絶望しかなかった前年から僅かにが射す結果となった。

年度代表馬へ

ジャパンカップ後、駒を進めたのは有馬記念。前年の覇者アンバーシャダイメジロティターンモンテプリンス菊花賞ミナガワマンナらジャパンカップを回避してここに来た強たちを向こうに回して3番人気とようやく実力を認められるかっこうになった。

レースはおりからので重馬場での開催となり、この時点で重馬場が苦手なモンテプリンスとミナガワマンナは用済み。メジロティターンも直線で伸びずにもがく中、アンバーシャダイが直線で先頭に立った。
スピードシンボリ以来の連覇達成かと思った間、しかし外から一気に追い込んでくる巨体の地方庸な強だったヒカリデユールが、中央競馬の頂点をして脚を繰り出してきたのだ。

連覇か、下克上か。見るもの全てか固を飲み込んだ闘は、ヒカリデユールがアタマ差抜けだしたところでクライマックスを迎えた。

果たしてヒカリデユールは地方出身としてはオンスロート以来の有馬記念制覇を成し遂げ、そしてこの年、そのオンスロート以来の地方出身年度代表馬に選ばれることとなった(この年度代表馬選考についてはモンテプリンスとの兼ね合いで論議が巻き起こったが、それはまた別のお話)

翌年も現役を続行し、大阪杯を勝ったものの連覇を狙った天皇賞(春)レース中に故障を発生し、年齢も考慮してそのまま引退種牡馬入りすることになった

引退後

中央入りしてからの成績は文句し、祖母オークスアイイオー、曾祖母朝日杯3歳Sキタヒカリ、近キタノオー・キタノオーザという菊花賞兄弟がいる、良血と言っても差し支えのない血統だったが、種牡馬入りしてからのヒカリデユールは不遇だった。

ただでさえ種牡馬不遇の時代に加え、近の活躍も、ヒカリデユール自身も5代バウアーストツクから続くサラ系の血統だったためだ。

ヒーロー列伝の名文句とされる「いつか。いつか。の名でここへ帰ってこい。 」に応えるように中央競馬のターフに戻ってくる産駒はいたものの、オープンは出せずじまいで1992年種牡馬引退

その後は用途不明となっており、行方は知られていない。

ハイセイコーオグリキャップらのに隠れてはいるが、後方待機で直線だけで一気に先頭を捉える手なレースぶりは、もう少し語られることがあってもいいかもしれない。

血統表

*デュール
Duel
1961 黒鹿毛
Round Table
1954 鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Knight's Daughter Sir Cosmo
Feola
Lea Moon
1955 黒鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Lea Lark Bull Lea
Colosseum
サラ系
アイイグレース
1967 栃栗毛
FNo.8-e
*ゲイタイム
Gay Time
1949 栗毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
Daring Miss Felicitation
Venturesome
サラ系
アイイオ
1960 黒鹿毛
*ハロウェー Fairway
Rosy Legend
サラ系
キタヒカリ
トサミドリ
サラ系 バウアーヌソル

クロスPharos=Fairway 5×4(9.38%)

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