本能寺の変の時、信忠は逃げようと思えば逃げられたとか、そもそも信忠は光秀のことだから逃げられないようにしてあるだろうと思ったとか言われていますが、

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勸修寺晴豊の日記:『日々記』の天正十年五月二十一日条には「城介、徳河、あな山、上洛す。見物人が群集す。」と記録され、山科言経の日記:『言経卿記』の同年同月同日条にも「三位中将殿、参川徳川、上洛す。」と記録されてます。 「城介」「三位中将殿」が織田信忠になり、「徳河」「参川徳川」が徳川家康になり、「あな山」が穴山信君になります。 これら、三人は誰かさんの意見では、安土から京都まで歩いてきたことになります。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございました。

お礼日時:1/8 11:03

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信忠は真面目な性格だったんですよ。 だから゛真面目に戦わなきゃ”という心理がはたらいたんでしょう。

秀忠を逃がさない様にしようと思っても雑兵や大半の足軽は顔を知らない、高貴な服装で判断するしか無い訳だからいくらでも逃げようはある、結局討死したと言っても首は見つからなかった。

信忠は妙覚寺から信長救援に向かうも既に時遅く断念。 その後に迎え撃つ為に二条新御所に移動。 この辺りを見れば確かに明智光秀は信長、信忠親子を同時に一網打尽にしようとはしてません。 だからこそ織田政権の打倒ではなく短絡的な私怨を晴らしただけ(怨恨説)と言われる所以ですが。 信長周辺は把握していても信忠の馬廻りまではしっかり把握できなかった可能性があります。 京都の信長勢力は2〜3,000はいたので。 そうなると兵力を分散させ、信忠に対しかなりの人数を割かなければなりません。 作戦の優先順位は 第一目標、信長 第二目標、信忠 とにもかくにも先ずは信長。 当然討ち漏らす訳にはいかないので洛中は包囲もしているでしょう。 隙を与えていた訳ではなく、双方の兵力と優先度合いでそうなっただけだと思います。 いずれにしても逃げる事はかなりの運任せだった為に信忠はきちんと計算した上で籠城を選んだんだと思います。 誤算だったのはあてにしていた兵が信長の死を聞いて四散してしまっており、時間稼ぎができるほどの兵力が残ってなかったって感じではないでしょうか。

素人の勝手な憶測ですが、そもそも信忠が京にいたことを知らなかったりだとか、?ですかね

歴史なんか、生きてる人が歪曲したことしか書いてないんだから、 考えたって正解はわかりませんよ。 古文書に書いてあった、とかいわれたって それが事実か確認のしようがないんだから。 人物像だって、ちょっと前まではこういう顔、みたいなので教わってきたのに、 急に違う人の顔になってるし、 それすら本当かどうかわからない。 歴史なんか考えても仕方ないんですよ。