新卒で営業に配属された同期20名のなかで、会社や業種を変えながら今でも営業職を続けているのは、ななななんと僕だけである。営業を辞めてしまった彼らから「孤高」「誰もいない風景を見ている」というやや取っ付きにくいリスペクトをされてもいいような気がしてならないが、実際は「え、まだ営業やってるの?」「よくやっていられるなあ」「常識的に考えてヤバいだろ」と呆れられている。きっつー。
25年間新規開発営業を続けているのは、どこかおかしい人間らしい。今でも、新卒当時のスタイルで営業をしていると誤解されているようだ。「足で稼げ」という精神論めいた指示のもと電話をかけまくり、飛び込み営業を繰り返し、名刺をゲットする毎日。アホか。そんなスタイルを25年続けられるはずがない。3年が限界。倒れるよ。僕はラッキーだった。30才手前のいくつかの人との出会いで「営業でいちばん大事なのは、営業テクニックではなく、売れる仕組みを持つこと」と気付けたのは本当にラッキーだった。
営業テクニックはいわば戦術的な技術であり、売れる仕組みは戦略である。売れる仕組みと流れをものにする戦略があれば、営業テクニックに頼らずに営業という仕事は続けられるのだ。「売れる仕組みがあれば楽勝じゃないか。教えてくれ」という話になるが、売れる仕組みは営業マンの数だけバリエーションがあるので、一筋縄ではいかない。アイデアを企画や提案に変えるのが得意な人間と、人と会って話すのを苦にしない人間とでは、売れる仕組みは異なってくるからだ。
僕は、想像力に欠け、話をするのが苦手な人間だと自覚している。スーパー営業マンではない。ひたすら平凡な人間だ。だから、平凡な人間がどうすれば勝てるか、徹底的に、自分なりに考えて(もちろん人の話は参考にした)、客を選んで絞る、という戦略的判断をした。上司から足で稼いで見込み客を増やせ、見込み客の数が成約の数になる、と言われていたが、その声を聞き流して、見込み客(顧客)の上限数を決めてリストにして(90年代末は紙だった)、それ以上、見込み客を増やさないようにした。
上限数は200とした(後に300に上げた)。200は年間200数日の労働日数内で、僕がフォローできる数である。このリスト内の顧客と話を重ねて、リストを充実させていったほうが、手当たり次第に顧客を増やすよりも勝率が高くなると考えたのだ。一番の効果は、純粋な新規先に突撃することが少なくなったため、手当たり次第に拡大する最中に「間に合ってます」「帰ってくれ」と手痛い返り討ちに遭う機会が減って、へこまなくなったことだ。営業をやめていった同期たちは、返り討ちの多さに心が折れてしまった者も多かった。成約したり、残念ながら見込み客としての要件を満たせなくなり、リストから外すこともあったが、そのときに備えて準見込み客を開発しておき、外したときは彼らをリストにあげて、上限数を保つように努めた。
200あるリストの客をフォローするのは、相当、苦労した。だが、足で稼ぐ、といった独りよがりで自己満足の苦労と異なり、相手あっての苦労は、手ごたえが実感としてあったために、続けることが出来た。僕は、扱っている商品やサービスのセールスはほとんどせず、相手の話を聞く役に徹した。営業は、ものを売るのではなく、相手に買いたいと思わせる仕事である、そして無理に売るのは逆効果だと、毎日の見込み客との面談から学んだ。深い営業活動をすることで、さいわい結果を出し続けてきたし、自分も成長できた。見込み客から、カタログでは学べない生きた商品知識をどれだけ教わっただろうか。
運輸から食品へ、違う業界で営業を続けているけれど、やり方は一切変えていない。今のほうが営業マンとして研ぎ澄まされているので、売り物が変わってもやっていける自信もある。今、僕は部下に自分の体験を話をするときに「お客さんを育てろ」と言っているが、正確にはお客さんではない人間をお客さんに育てろ、その過程で自分も育ててもらえ、という意味である。RPGのように成長を実感できることが続けられる仕組みなのだ。
営業職にかぎらず、同じ時代を生きる人たち、特に僕より若い人たちには、自分に合った、続けられる、成長を実感できる仕事の仕組みを自分の手でつくりあげて欲しい。その仕組みをつくることが、25年の会社員生活で唯一面白いと思えたことだ。あと何年会社員をするかわからないが、これからも「え、まだ営業やってるの?」とバカにされたところで、僕は「生き残っていて悪いか」と小さな誇りを胸に笑い飛ばすだけだ。(所要時間24分)
本日46才になりました。本を読んでくれると嬉しい→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。