公共交通機関などでお年寄りに遭遇したら席を譲るようにして生きてきたがそれもそろそろ限界のようである。宣言しよう。僕はもう、無条件で席を譲るような蛮行はしない。ビジネスライクで物事を判断する冷酷な人間になったのではない。日本社会が変わったのだ。
実年齢よりもヤングに見積もられているからなのか、加齢臭が安心感を醸し出しているのからなのか、わからない。知りたくもない。ただ、事実として通勤電車で座席をゲットした僕の前に、つかつかやってくるお年寄り(以下「老人」)は多い。おそらく、優しそうな顔といえば聞こえがいいが、ラクショーな顔面をしている僕の前に立てば席を譲ると踏んでいるのだろう。縁もゆかりもない老人から、安く見られたものである。戦争も体験せず、高度成長期で培われたであろう、その甘ちゃんなごり押し精神が許せない。バブル期を知らない僕にそれは通用しない。
それでもお年寄りや怪我人や妊婦を見つけたら席を譲るようにして生きてきた。ホメられるようなことでもない。尊敬する亡き父の教えに従っているだけだ。父は言った。「常に人を想って生きろ」と。僕は父の教えにしたがい、道徳や慈愛からではなく、周りにいる若い女性から「あの人、いいかも…」と思われたい、その一心で席を譲り続けてきた。打算と自愛からの行動である。僕が道徳や慈愛から行動するとしたら、唯一、女子大生が目の前に立ったときだろう。その際は太ももくっついちゃうねーって席をシェアするか、膝の上に座ってもらうことになるので女子大生各位は承知されたし。
僕の行動指針がどうあれ、現実世界の僕は42才の中年で、見渡せば座席を占拠している大勢の若者。もし、当該老人に認知症や痴呆の症状が出ていないのであれば、元気な若者の方へ席を譲渡してもらうよう働きかけるのが常道だろう。それがなぜ中年の僕なのか。百歩譲って、僕の体調が万全ならいい。しかし昨日のように体調がよろしくない場合は、席を譲るのをためらってしまう。
そう。昨日、僕の体調は最悪であった。前の晩にキメたバイアグラの副作用だろうね、頭痛は酷く、視野は全体的に青く、吐き気オエオエ。なぜ合体グランドクロスする相手もいないのにキメキメしたのかという愚問にお答えいたしますと、忙しすぎる毎日を過ごしているうちに忘れてしまいがちな《自分の男性》を思い出したくなったからだ。キャッチ―に言えばアイデンチチーの再確認。キメキメしないでも立てるクララとガンダムが羨ましい。非情な老人たちは、キメキメで体調最悪なのを知らないことなど露知らず、ラクショーな僕の目前に立つのである。きっつー。
なぜこのような悲劇が起きるのか。その原因は若者の凶悪化だろう。キラキラ人生のアッピール。己の能力不足。最低賃金での労働。それらで蓄積したストレスを晴らすため、ハンマーやバットを手に取って凶悪犯罪を起こし、手首をキラキラな手錠で飾る若者が後を絶たない。こうした現実があるので、老人たちが座席を支配する若者の前に立つのを避けるのはわからないでもない。
若者のすべてが凶悪なわけではない。ほとんどの若者は心優しい。ごく潰しはごく一部なのだ。世を嘆いていても仕方ないので、凶悪な若者たちには自発的に《私は席を譲らない》と政治的なメッセージがプリントされたシャツを着て欲しい。そしてそのシャツを受け入れられる寛容な世界を目指そう。大事なのは凶悪さを排除するのではなく、凶悪さと善良さとを棲み分けすることなのだ。
キメキメ体調不良にもかかわらず僕は老婆に席を譲った。あがる息。激しくなるばかりの鼓動。かゆい股間。目の前の老人は僕の内なる悲劇を知らずに死んだように寝ている。ハアハア変態のようにあえいでいる僕に若い女性が顔をしかめる。なぜ、こんな目にあわなければならないのか。なぜ、若者ではなく僕のような中年が無条件に席を譲らなければならないのか。譲る側に良心を求めるなら、譲られる側も節度を持つべきではないか。こんな不条理で悲しみに満ちた世界を変えるため、僕はもう、無条件には席を譲らない。現実に絶望するより、キメキメの意識下で見た、あの、禍々しい老人や凶悪な若者が滅び去ったこの地上に僕と女子大生だけしかいない楽園がうまれ落ちる夢を信じたい。
(このテキストは副作用により29分もかかって書かれた)