結婚して三度目のクリスマスを記念して妻に真珠のネックレスをプレゼントした。行いがよかったのだろう、翌朝、目が覚めると六年ぶりに男性機能が復活していた。
北京、バンクーバー、ロンドン。既に3つの五輪を通過していた。六年。長い時間だ。とっくに諦めていた。それが突然目覚めた。みなぎった。みなぎっているよカウボーイ。その勇姿を網膜に焼き付けたい。布団の上で横になったまま掛け布団をはいでズボンとパンツをおろした僕は、その円と線で構成された仁徳天皇陵を想わせる神々しいフォルムに思わず「ジーザス…」と呟いていた。
窓から差し込んでいた朝の日差しがみなぎっているカウボーイを照らしていた。長く伸びた影を従える姿は日時計の王。王は威風堂々と午前7時を示す。歓喜と寒気に震えながら僕は妻を呼んだ。返事はなく、僕は妻が実家に帰っているのを思い出す。節分、七夕、クリスマス。季節イベントになると義父は決まって風邪をこじらせ高熱にうなされながら妻の名前を叫ぶのだ。
僕は奇跡に立ち会えない妻の不幸を嘆き、それから恐れた。この奇跡はいつまで続くのか。もしかするとこれが人生最後かもしれない。そんな恐怖にとらわれた僕は布団の上で裸の下半身をくねらせた。人生最後の…というイメージは僕をひどく寂しい気持ちにさせたのだ。「考えすぎだぜ」「次があるさ」と人は笑う。だが次はいつなんだ?次があるならいい。訪れない次を死ぬまで待ち続けるのは残酷すぎるじゃないか。死亡宣告のほうがマシさ。ほうき星だって太陽に近づいただけで蒸発して消滅するのだ。掃除ほうきの柄の太さしかないカウボーイなんて電子レンジで蒸発してもおかしくない。
時を止めよう。このみなぎっている瞬間を永遠に引き伸ばそう。写真を撮るのだ。この奇跡に永遠の留保を与えるために。そうすれば、もし、最後だとわかってしまっても、映画「ゼロ・グラビティ」で宇宙に取り残されたサンドラ・ブロックのように誰ともわかちあえない孤独に陥っても、みなぎっている写真を見れば、写真さえ見れば乗り越えられる。生きていける。写真を撮るとすぐに奇跡は萎んでしまった。蜃気楼のように消えてしまった。
写真の存在はすぐ妻にバレた。買ったばかりのiPadエアーをiCloudでiPhoneと連動させていたのだった。まさかiPhoneで撮った写真がiPadエアーから閲覧出来るとは。「あなたのすべてのコンテンツを、すべてのデバイスで。」コジャレた意味不明なフレーズがこんな意味だったとは。畏るべしフォトストリーム。僕はクラウド苦労人。そういう事情で妻は、朝陽に照らされほとんど日時計状態で僕自身がみなぎってる写真を見つけてしまったのだ。
写真の内容を鑑みて「バレンティ~ン!」「ニンゲン前方後円墳だよ~」と言い訳をしてみたが妻に反応はなかった。僕は顔面蒼白だったはずだ。こっぴどく非難されることも、実家への避難も覚悟した。僕は包みかくさず話すつもりだった。生きるために罪を犯したのだと。一方で僕は楽観視していた。亭主が変態な写真を撮影していたことはショックかもしれない。けれども中長期的には不妊治療に取り組んでいる僕らにとって歓迎すべき事態なのだから喜ぶのではないか、喜ぶにちがいないと。
妻が口を開いた。意外すぎる言葉だった。「これだけですか?」 妻の声には予想された怒りや諦念や喜びはなく、ただ嘲りと侮蔑の色のみがあった。これで全力なの?冗談はよしてよ。笑えないわよバレンティン。僕にはそう聞こえた。今にも溢れ出そうな涙をこらえるために天を仰いだ。「これだけですか…」。妻の言葉は、男性遍歴から産み落とされているのか、それとも二次元創作からなのか僕にはわからなかった。わからなくていい。お願いだ。僕を護るためにそれは真っ先に特定秘密に指定してくれ。
僕は僕自身を全否定された気がした。妻がiPadエアー上をするする指を滑らせてみなぎっている僕自身を拡大縮小させている。僕の苦難の六年間が弄ばれている気分がした。リベンジポルノだって簡単に。そうiPadならね。僕は切り離されて自在に大きさに変化を与えられている自分の一部を悲しい気持ちで眺めることしかできなかった。iPadエアーのいっぱいに拡大された僕自身には男性的な強さは喪われていて、ただ悲しく、ただただ滑稽だった。せめてiPadミニにしておけばよかった。
僕は考えてみる。僕は四十才になる。成長期は四半世紀前に終わっている。生物的にサイズはどうにもならないだろう。それならば妻へのプレゼントの真珠のネックレスを愛の名の下に解体してヤクザのように僕のカウボーイに戴冠しよう。真珠を散りばめられたカウボーイは乳白色に輝くクリスマスツリーとなり、健やかなるときは僕らに愛の悦びをもたらし、病めるときは僕らの未来に横たわる不安の闇を照らしつづけるだろう。