漁師だった母方の祖父は小柄なくせにとにかく腕っぷしが強くて中学を卒業するまで僕は腕相撲でまったく敵わなかった。もっとも、漁師だったのは僕が産まれるずっと前のことで、陸にあがったあとは普通に会社勤めをしていたし、本人もあまり思い出したくないのか、漁師時代のことにはほとんど触れようとしないので、ときどき母親と叔父の会話から垣間見える程度で、祖父の漁師時代のことを僕はよく知らない。小学生のころ、夕暮れどきに一緒に海岸を散歩していた祖父が灯台をみつめて、ただひとこと、「あの灯りを頼りに」とぼそっと呟いたのを聞いたことがある。そのときの祖父の眼は、夜の海と同じ色をしていた。中学、高校と進んでいくにつれ、腕っぷし自慢の祖父が僕や弟に腕相撲を仕掛けてくることはなくなっていった。
腕っ節が強いイメージが刷り込みのように焼きついてしまっているので、祖父が最近ちょっとおかしい、忘れっぽくなったと親戚から聞かされたとき、僕は、あのスーパー爺ちゃんが?まさか、というくらいに安易安直に半信半疑だった。今日、怪我をしたと聞いた僕は祖父の家に様子を見に行った。祖父は先月会ったばかりだというのに大袈裟に驚いて「突然大きくなったなあ。立派な大人になったなあ」といい、僕の肩をぱんぱんと叩いた。「冗談やめてよ。俺36だよ。成長期終わって20年も経ってるよー」。笑うしかなかった。祖父が、もうそんな齢になるのか、と独り言のように言うのを黙って聞いた。家のなかで転んだという右足の怪我に巻かれた包帯が痛々しいほど白くて、僕の目に焼きついた。
一年前、祖父の脚が弱りだしたとき、僕は祖父に一人暮らしをやめて一緒に暮らそうと提案したけれど、祖父は俺にはこの家を守る仕事がある、と言い張り頑なに首をタテに振らなかった。その代わりといってはなんだが、と前置きした祖父は毎晩寝る前、皆に電話をかける、電話がなかったら見に来てくれといった。僕が「爺ちゃんかったるいだろう。こちらから電話するよ」と言うと、祖父は「いいや、面倒はかけたくない。俺がかける」と僕の首にヘッドロックを掛けるような仕草をしながら答えた。「電話は…。お前の心配を減らす電話じゃない。俺がお前らを心配する電話だ」という祖父のヘッドロックには、もう昔のような力強さはなかった。以来、毎晩10時半前後に電話が鳴るようになった。僕の家の電話だけでなく叔父叔母従兄弟たちの家の電話も鳴った。
血縁。血の繋がりのもつ力っていうのはあるだろうけれど、それに甘えていては駄目なんじゃないか?血はきっかけにすぎない。血は助走にすぎない。もちろん長いようで短いレースのような人生で、その助走は大きなアドバンテージではあるけれど。家族であるためには、家族になろうとするには、家族であり続けるには、家族であろうとする意思と行動が必要だと僕は思う。そういった意思や決意や努力や行動は、血を超える。翻って僕はどうなんだろう。祖父の意思を尊重したいという想い。強い祖父というイメージ。イメージから乖離していく祖父の姿。そういったものの狭間で祖父の一人暮らしを認めた判断は家族として正しかっただろうか。家族という枠組みに、継がれてきた血に甘えてはいなかったか、家族であり続ける努力をしただろうか、知らず知らず楽な道を選んだのではないか。
祖父からの電話はすぐに、挨拶のような短い会話から、何回かのコールと無言だけになった。一年前。「毎晩電話されても話すことなんてない」といった僕に、祖父は「別に話さなくてもわかるからいい」と笑っていたけれど、言葉が出なくなってしまうことを予期していたんじゃないのか。死は祖父の家のむきだしの窓枠の向こうの闇で大きな翼をたたんでいて、祖父にはそれが見えるし、聞こえるし、匂いがわかるのかもしれない。その日は確実に近づいてきている。それでも祖父はまだ家族であろうとしている。毎晩の電話で。言葉が出なくなっても。36歳になった僕を、小学生の僕と重ねて見てしまうようになっても。僕も祖父のようでありたい。
10時半の電話はずいぶんと前倒しになってきていて、9時、8時、…、僕が仕事から帰ってくるよりも早い時間になってしまった。「会社辞めてやる」「部長首チョンパにしてやる」なんて荒れた気持ちで家に帰ってきた僕を、電話の伝言ありのランプがむかえる。その、どこか灯台にも似た光を見るたび、子供のころ腕相撲をやったあとで祖父から「大丈夫だ。すぐに俺よりも強くなる」と励まされた夕べを想い出して、僕はとてもやわらかな気持ちになるのだ。