部屋にいるとろくなことがないのでなるべく外出するようにしている。というのも、携帯の電話を切って部屋に潜伏していると、母から固定電話にかかってきて、先日お見合いした娘さんとはどうなった、鉄は熱いうちに叩け、などと言われるのが目に見えているからである。あるいは新聞、宅急便、牛乳屋、様々な集金人がやってきて、ピコーンと一回鳴らせば用は足りるというのに、追い込みをかけるようにピコーンピコピコピコピコピコーンと二度三度と呼び鈴を鳴らすのがわかっているからである。
電話が鳴っては、留守電に録音されていく母親の声を反論もせずにじりじりしながら聞いたり、呼び鈴が鳴っては、すばやく灯りを落としステレオやパソコンの音を絞り、息をとめ、集金人が諦めて去るのを待ったりという生活は精神的によろしくないので、当然至極な結論に至る。「部屋には戻らない=外出」。とはいえ、僕が部屋に戻らず、日本列島のどこに潜伏していても、お見合い相手の娘からは僕の携帯目掛け、「真田家の六文銭は素敵ですう」などというメールが脈絡なく飛んできて、携帯の電源を入れるや否や、目にせざるをえないのだから、科学の進歩というのは恐ろしいというか、僕には逃げ場所はないというか、携帯にメール機能付けた馬鹿はハラキリものなのである。
そんな事情で部屋に帰らない僕が、先週、初めて訪れた町で粛々と仕事を終え、入った地下街の蕎麦屋は、閻魔様と不動明王が入り口に置かれ、店内の至るところに餓鬼や畜生の絵が掛けられていて、板わさを肴に生ビールを三杯ほど飲んでも、その暗い雰囲気のせいかどうにも楽しくない。「しょうがない。親から授かった顔を活かし逆ナンパを受けましょう。へへへ」と明るい近未来を想像して笑いながら階段を駆け上がり、駅周辺を小一時間ほどふらふら歩いても、その宵に限って、誰も声をかけてこない。
少し歩いたら喉が乾いたので、仕方なく、夜は暴走族をやっているような、無気力だけが取り柄の店員がレジを打っているコンビニで缶ビールを買って、ところどころ割れ、向こう側の雑草が覗いてしまっている波型樹脂の壁に寄り掛かって飲んでいると、道を挟んだ向こうに、立小便にうってつけの小路に面した、ドアが少し開き光が漏れているが、しんと静かな店を見付け、吸い寄せられるように入ったのが午後六時。
そこはカウンター席とテーブルが二つの小さなスナックで、還暦をゆうに超えた妖怪人間ベラ似のママと、双子みたいに禿げたオッサン二人が、無言で薄闇の底に沈んでいた。お通夜みたいで風情あるなあと感心しながらカウンターに座り、ビール片手にピーナッツをつまんでいても、風情はあっても愛想はないらしく、ベラはちっとも話かけてこようとはしない。それどころか、ビールのおかわりを注文しても反応がない。おかしな店だなと半ば呆れていると、隣にいたオッサンが声を掛けてきた。面長のほう、ハゲ一号。仮称。
「お兄さんこの店初めてかい?」「まあそうですね」「緊張してるねえ」「そんなことないですが」「結構結構。私とゲームでもしてリラックスしましょう」そう言うとハゲ一号は、旅行に持っていくような小型の将棋盤と駒をカウンターの下からすっと取り出し、「将棋崩しでもどうです?」と言った。将棋崩しとは駒で山をつくり、指で順番に駒を一つずつ抜き取っていくという実に退屈なゲームだ。
まあ暇だから、って、さしたる疑問も持たずに将棋崩しを始め、駒を一つ引き抜こうとして異変に気付き、「あの…」と声を掛けると、「どうしました?」とハゲ一号が何事もないような、屈託のない顔をしているので殴りたくなるのを必死に押さえつつ、「この将棋の駒マグネットが入っていますよ。これじゃ駒同士がくっついてしまうから将棋崩しにならない」と続けると、「そうでしたそうでしたハッハ」などと惚けるので、相手にするのをやめた。なにがやりたいんだ?苛々してベラにビールと言っても、聞いてないのか聞こえてないのか、永遠にビールが出てくる様子はなかった。
しばらくして、カウンターのなかで炊飯ジャーから飯を椀に盛ったり、その椀に入った飯をジャーに戻すという摩訶不思議な行動を繰り返していたベラがカラオケをいじり始め、イントロが流れ出した。薬師丸ひろ子、「あなたを・もっと・知りたくて」。ハゲたちは色めきたって「お兄さんは幸せだ。ママの薬師丸が聞けるんだよー」「ひゅうひゅう最高だよママー」とか言って握手を求めてきた。うわっ、ハゲ二号すこし泣いてるし。
「もっと〜もっとぉ〜はぁ〜な〜たぅぉぉ〜もっと〜もっとぉ〜し〜り〜た〜い〜」。鼻にかけた高音ノイズは物真似のつもりなのだろう。「そ〜して〜あい・し・て・るひぃとぉおおおわああああ〜だ・れ・で・すぅくぅ〜」吐き気を催す気色の悪いビブラート。オッサン二人は肩を組み盛り上がり「ひろ子ー!」「ママー!」「今夜はサイコー」などと奇声を発し始めた。二号の目のなかの光るものは今にもこぼれそうだ。大丈夫か。目を覚ませオッサン。
ベラは歌い終わるとカウンターから外に出て、僕の腕を取り、強引に踊り出した。くるくるとベーゴマのように猛烈な回転運動を始めた。「ママー!」「最高だー!」、オッサン二人の涙声。オッサン特有のピースサイン。安酒の瓶の放つしけた光。空調の吐き出し口から垂れる滴。小さいシャンデリア風の照明。それらが僕の周りでくるくると回り出し、ひとつの光、大きなミラーボールになっていった。
ベラにぐるぐると振り回されながら、僕は音と光の隙間からしゃんしゃん、しゃんしゃんという奇妙な音が沸き起こってくるのを聞いていた。幻聴か、なんて、ぐるぐると回転しながら思っていると、どうにも耳元が熱い。おかしいと耳をすませてみるとベラが、僕の耳元に熱い吐息を吹きつけながら薬師丸ひろ子の物まねをしているのであった。ちゃん・りん・しゃん。ちゃん・りん・しゃん。回転し踊り続けるズボンのなかで携帯が誰かの声を僕に伝えようとして震えていた。ちゃん・りん・しゃん。ちゃん・りん・しゃん。真田の六文銭がぶつかりあう音はこんな音かもしれないが、僕はまだ現実と繋がっていた。まだ、三途の川のこちら側に僕はいる。