書評 ラース・チットカ「ハチは心を持っている」

「ハチは心をもっている――1匹が秘める驚異の知性、そして意識」

蜂の心に関する研究をその専門家が一般向けにまとめた労作。ハチの知性を示す巧みな実験がたくさん紹介されており、読みやすくて内容が充実してるのでお薦め

ハチの知性の研究者である著者が、自らの研究を含めたハチの心についての様々な科学的成果をまとめ上げた一般向け科学書。全般的に動物行動学的・心理学的な実験の紹介が中心だが、その実験がどれも巧みなのに感心する。この種の一般向け科学書は著者の本来の専門の部分だけが面白い…となりがちだが、本書はそうしたムラがなく全編楽しく読める。

著者は、ハチのダンスの研究で有名な研究者フリシュの系譜を受け継ぐ、ハチの知性の研究者。どちらかというと、動物行動学(エソロジー)や心理学による実験的な手法を用いてハチの心を調べており、本書の内容も実験が中心となっている(なので、行動生態学や進化心理学と違って進化の話は最小限しか触れてない)。その紹介される実験はどれも巧みで感心するばかりだ。

本書では、いくつも面白い実験が紹介されているので、ここではその全てを示せないが、特に私が感心した実験がある。それは最後の章にあるハチの情動についての実験だ。コップの半分に水が入っている時に、その人が暗い気持ちの時は「コップはもう半分空っぽだ」と思うが、明るい気持ちの時は「まだ半分入ってる」と判断する。曖昧な刺激(中身が半々)を用いてその判断を調べるのだが、そうした認知バイアスを人ではなくハチに調べたのだが、その見事な調べ方に驚いた。こんなのは巧みな実験の一端であり、このレベルの巧みな実験が次々と紹介されている。

この本は特に科学史の記述も充実しており、ファーブルやフリシュのような有名学者だけでなく、ラボックやターナーのような知られざる過去の学者を含め、ハチの心の研究の科学史としても読める。しかも、必ずしもはっきりとした結論が出せる研究だけを紹介してるのではなく、この研究からはこの程度が言える…といった紹介もされている。その科学史的な内容と共に、科学的な研究を(ただの成果でなく)過程として捉えるのにもこの著作は優れている。

中身は充実してて私はとても面白く読めた。とはいえ、(文章は読みやすいが)余計な寄り道などせず研究の紹介を次々とする核心をガンガン攻める内容なので、本当の初心者には読むのは大変かも。しかし、虫の心なんて機械的なもんだろ?という偏見を吹き飛ばしてくれる素晴らしい本に変わりない。このテーマ(生き物の心)に興味のある人や知的好奇心のある人になら、ぜひお薦めする。

  • 追記:この本は本当に楽しく読んだだけど、中身が濃すぎて紹介文を書くのは難しいなぁ〜と思っていた。なんとか形にはなったが、この本の良さの多くがまだ伝わってない気がする。たぶん、この本は知識のない素人でも読めるが、心理学や動物行動学についての知識がそれなりにないと紹介されてる研究の見事さに気づけないと感じるせいだと思う。あと、この本の冒頭にある…ハチの心は身近にいる異星人の心であるとか、哺乳類の心の研究は人間らしさを調べるのが目的だ(でもハチではそうはいかない)とあるが、これは比較心理学(人と動物の心を比較する伝統的な分野)のことである…とかも書きたかったのだが、書評の中には組み込めなかった。認知科学に最も近い研究であるハチの認知地図の話も触れたかったが、これも書けなかった。

ヴァンス副大統領は政治的リアリストなのか

アメリカの副大統領となったヴァンスの外交姿勢が騒がれている。特にリベラルとされる人たちがヴァンスの発言を批判して、否定的な評価をしている傾向が強い。

そうしたヴァンスの政治的な態度を探る記事をいくつか読んだ。それらは大抵、ヴァンスがティールらペイパル・マフィアからの過大を課題に評価して、新反動主義の影響を指摘するものだった。

しかしヴァンスの言動を見れば、それは単なる憶測による分析に過ぎないと感じる。むしろ、実際のヴァンスの言動を見ていると、それは政治理論における政治的リアリズムの特徴に当てはまるところが多い。

それで、次にリンクした記事を参照しながら、ヴァンスの思想を分析してみたい。

【解説】ヴァンス米副大統領が見ている世界とは――なぜそれが重要なのか

政治的リアリズムとは何か?

政治的リアリズムは、高名な哲学者だったバーナード・ウィリアムズが亡くなってから出された遺稿によって、話題になった政治理論の立場だ。次に日本語で読める政治哲学リアリズムについての代表的な紹介論文にリンクしておく。

乙部延剛 政治理論にとって現実とはなにか ――政治的リアリズムをめぐって――

バーナード・ウィリアムズの政治的リアリズムは、ロールズ的なリベラリズムが現実の政治に示唆するところがないとする批判から成り立っている。こうしたリベラリズム批判やウィリアムズ以外の政治的リアリズムについてはリンクした論文を読んで下さい。

以下では、ヴァンスに関わる言動からそれが政治的リアリズムにどう当てはまるのか?を指摘したい。

ヴァンスのどこが政治的リアリズムか?

ここからの引用は全て、始めにリンクした「【解説】ヴァンス米副大統領が見ている世界とは」から行なう。

政治と道徳の分離としてのリアリズム

政治的リアリズムの最大の特徴は、政治を道徳から分離することである。これはマキャベリを始めとする政治的リアリズムの古典において共通して見られる最大の特徴である。

ヴァンスにはこの道徳と政治の分離が典型的に見られる。次の引用などはまさにそれを典型的に表している。

本人の言葉を借りるならば彼は、「どの国が良い国でどの国が悪い国かなどという、道徳を気にしている」暇はないのだから。
「これは、道徳などどうでもいいということではなく、どういう国と交渉しているのか、そのことについて正直でいなくてはならないという意味だ。この国の外交政策の主流派のほとんどが、この点についてまったく失格だ」。ヴァンス氏は昨年、米紙ニューヨーク・タイムズのコラムニストにこう話している。

帰結主義としてのリアリズム

次の引用も、交渉相手が悪人かどうか?を二の次にする点で、道徳と政治の分離に従っている。と同時に、政治にとっては結果が全てであるという帰結主義も含まれている。

2024年のミュンヘン安全保障会議で当時オハイオ州選出の上院議員だったヴァンス氏は、 「プーチン大統領が親切で親しみやすい人だなどと主張したことは一度もない」と演説で述べた。
「(プーチン氏に)賛成する必要はない。彼と争っていいし、今後もしばしば争うはずだ。しかし、彼が悪者だからといって、基本的な外交に取り組んではいけないとか、アメリカの国益を優先してはいけないとか、そんなことがあるわけはない」

反ユートピアとしてのリアリズム

政治的リアリズムでは、あるべき理想を前もって想定してそれを目指すユートピア主義が否定されている。リベラルが(過去にはファシズムや共産国家が)陥りがちなそうしたユートピア主義を、政治的リアリズムは強く批判している。

英ケンブリッジ大学の宗教哲学准教授で、ヴァンス氏が自分の「イギリスでのシェルパ」と呼ぶ友人のジェームズ・オー氏はこう言う オー氏は説明した。「ここで言うアメリカの国益とは、抽象的なユートピアの利益ではなく、さまざまな提案や理念の集合体の利益でもなく、アメリカ国民の利益を意味している」。

このようにヴァンスの言動には、政治的リアリズムに当てはまる特徴が多く見られる(これに比べると、イーロン・マスクは自分の理想の実現を目指すユートピア主義に見える)。安易にティールらの影響から新反動主義を持ち出すのは、実際のヴァンスの言動をろくに見てない間抜けに思える。

政治的リアリズムについてもう少し詳しく考える

ヴァンスの政治的リアリズムへの指摘はこれで済ますとして、もう少し政治的リアリズムについての話を続けたい。

ここまでに指摘した政治的リアリズムの特徴は、トゥキュディデスやマキャベリのような古典から現代にまで共通する特徴だけを上げて来た。しかし、近年に論じられている政治的リアリズムにはそれ以外の特徴も見られる。

それは、政治的なものの喚起であり、これは既に挙げたウィリアムズによりも、現代の政治的リアリストとしてよく挙げられるもう一人の哲学者ゴイスに見られる特徴だ。

政治的なものの喚起としてのリアリズム?

政治的なものの喚起は、カール・シュミットに典型的に見られ、その後はムフやコネリーのような闘技民主主義に受け継がれている。ゴイスもこの人たちと思想がそっくりである。しかし、これが政治的リアリズムにふさわしいのか?は自分には疑問だ。

カール・シュミットは議論による同意を批判して、闘技としての政治性を推し進めた。闘技民主主義やゴイスもこれを受け継いでいる。しかし、闘技民主主義がリベラリズムに対決する政治的リアリズムにふさわしいのか?疑問しかない。

ゴイスは,政治理論の役割として,概念の発明,変革をあげているが,ここには,概念によって政治的現実が構成されるという社会構築主義的な視座が窺われる。 というのも,概念の変革に期待されている役割は,既存の現実によりよい説明を与えることではなく,新たな概念によって政治の現実を書き換えることにあるからである

乙部延剛「政治理論にとって現実とはなにか」p.245より

社会構築主義的な視点はゴイスと闘技民主主義とに共通の特徴である。ここに見られる特徴は、よく見れば概念工学的な試みとして見れるが、実際にはSNSや一部の人文学者に見られる文化闘争(正しい概念の押し付け)にもそっくりであり、それは今や不毛なアイデンティティ政治だと批判されている。こんなのはさっぱりリアリズムに見えない(むしろ現代のリベラルの側だ)。

ポストモダン・リアリズムはリアリズムなのか?

政治的ものの喚起は、カール・シュミットによる同意に対する敵対性の提示から来ているが、これは同一性に対して差異を提示するポストモダン思想と図式が同じだ。つまり、ゴイスや闘争民主主義はポストモダン・リアリズムだと言える。

しかし、敵対性や差異を強調する(秩序から差異へ)のは本来のリアリズムの特徴とは合っていない。例えば、リアリズムの古典的な代表であるホッブスは、人々が争ってる状態にいかに秩序をもたらすか?を問題にしている(差異から秩序へ)。これでは向かう方向が全く逆だ。

その点では、正統性を問題にするカール・シュミットやバーナード・ウィリアムズは、リアリズムの伝統に従っている。非道徳的な政治的行為が許されるとしたら、そこに正統性があるからであって、なんでもありではない(安易な「君主論」解釈はそう思われがち)。

私は、ポストモダン・リアリズムを政治的リアリズムとして認める気はとても起きない。むしろ、これは現代的なリベラルの特徴の方に近い。

トランプ当選によって否定された現代的なリベラルは、本来のリベラリズムとは似ても似つかない。ジョセフ・ヒースが指摘するように、本来のリベラリズムの持つ曖昧さに付け込まれたのだ。私はリベラルという言葉が乗っ取られた(ハックされた)と思っている。

リベラル批判についても少しだけ

ちなみに、今回の事態からリベラル批判をする人はたまに見かけるが、(リベラルという言葉への乗っ取りを無視して)これが単なるリベラリズム批判でいいと思ってる人は多いようだ。これでは、ヴァンスを新反動主義だと決めつける人と変わりない。

現代的なリベラルの特徴は、この前の記事やここで指摘したように闘技民主主義(差異の政治)による文化闘争にもあるが、もう一つは功利主義にもある。功利主義は、一方で効果的利他主義や長期主義にも見られるが、他方でマクロ経済政策の重視(総和主義)にも見られる。アメリカはマクロには景気は悪くないが、ミクロには不満が溜まってトランプ当選につながった。

つまり、アメリカ民主党はマクロな経済政策は必ずしも間違っていた訳ではないが、マイノリティの味方ごっこのせいで優先順位が狂ってしまい、ミクロな政策はうまく行かなかった(少なくともアメリカ国民の多くにそう思われた)。

現代的なリベラルにおいては、本来のリベラリズムは(よく見積もって)せいぜい骨組みが残っているだけで、それ以外の壁も屋根も全て取り替えてしまった。その実質は"闘技民主主義+功利主義"に近い。

今や左にはポストモダン左翼としてのリベラル(文化左翼)がいて、右にはポストモダン右翼としての新反動主義(オルタナ右翼)がいる。政治的リアリズムに意義があるとしたら、そのどちらとも異なる方向を目指すしかない。ヴァンスはそうなるのだろうか?

マイケル・リンド「新しい階級闘争」を独自に整理してみた

最近マイケル・リンド「新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る」を読んで、そのあまりの洞察の深さに衝撃を受けた。しかし、翻訳書についてる二つの解説やネットでの紹介を見て、なんか違うよな〜とモヤモヤしたので、ここでそれを発散したい(この記事は長い上に悪口が激しいので注意)。

基本的な内容の要約については翻訳書の解説でもネットの紹介でも問題はないので、とりあえずの内容を知りたい人はそれを読んでください。問題はそれらで強調されている点が、著作で書かれていることと微妙に違っていて誤解を招くと思ったことだ。

翻訳書の解説のどこが誤解を招くか?

冒頭の解説を見る

まず、冒頭の解説には「左右の対立から上下の対立へ」とまとめられていて、ネット上でも同じように紹介されていることは多い。(私がまだこの本を読んでなかった)少し前に、ネットの某所でこの主張と同じ書き込みに対して、上下の対立という思考法がそもそも左翼のものだ!と反論されていて、もっともだと思った覚えがある。

マルクス主義の視点からすると人類の歴史は全て階級闘争であり、上下の対立は今に始まったことではないことになる。実際にはリンドは本書の中ではインサイダーとアウトサイダーの対立と書いてある。内外の対立と上下の対立は重なっているが、上下の対立へと移行したとするのはちょっと違う(上下の対立のあり方が変化したと考えるべき)。

同じく冒頭の解説で中野剛志は「リベラル・ナショナリズム」を取り上げている。これは中野自身が言うようにリンドの以前の論文の主張であり、本書では明示には語られていない(ただしグローバル資本主義に対抗するための暗黙の前提にはなっている)。リベラル・ナショナリズムは国際関係上の立場であるが、この著作で主張されている民主的多元主義は国内的な状態への提言である。その点では中野剛志の解説は本書への補足と捉えるべきだ。

巻末の解説を見る

とはいえ、中野剛志の解説は巻末の学者による解説に比べたらあまり害はない。巻末の解説での内容の要約には(つまらないことを除けば)問題はない。問題は後半の日本についての話だ。『日本の場合は、「上からの新自由主義革命」が国内で生じたというよりも、ドーアなどが指摘する通り、米国などの欧米諸国の新自由主義化に無批判に追従したことが主な要因だと言えよう』(p.266-7)とある。

しかし、リンドは本書の第一章の冒頭の注で本書で論じるのは欧米の事情であり東アジアは含めないと書いてる。エピローグでは「現代の東アジアにおいては民主主義体制にある日本と韓国、それに台湾の経験は、新自由主義だけが近代民主主義のモデルではないことを証明している」(p.249)とあって、リンドは日本が新自由主義であることを否定している。解説に独自の意見を書いてもいいけど、何の注釈もなく本書と異なる見解を述べるのは誤解しか招かない。

リンド「新しい階級闘争」の議論を私なりに整理する

こういう海外の話題の本を読んだとき、日本の人はそこでの議論を日本にそのまま当てはめてしまうことはよくある(巻末の解説はそれに近い)。しかし、著者自身も言うように本書は欧米の分析しか意図されていない。もしそれでも日本に適用したいなら、議論を整理してどこなら日本に当てはまるか?を丁寧に考える必要がある。

ここからは、本書でのリンドの議論を私なりに整理してみたい。余裕があれば日本への適用も試してもいいが、できればそれはきちんとしたデータや事例を伴って他の人にやってもらいたい。

管理する者とされる者としてのインサイダーとアウトサイダーの対立

リンドの議論を理解する上で基本となるのは、インサイダーとアウトサイダーの対立である。これは管理する者と管理される者の対立、ルールを作るものとルールに従う者の対立でもある。これを理解してもらうための手っ取り早い方法はインターネットにおけるプラットフォームを例にあげることだ。

インターネット上には、旧ツイッター(現X)のようなSNSプラットフォームやアマゾンのようなショッピング・プラットフォームなどがある。プラットフォーム上で利用者は自由な使用ができる。ただし、利用者はプラットフォームのルールに自動的に従わなければならない。プラットフォーマーはいざとなったら書き込みを削除したりアカウントを停止したりできる権限を持つ。

プラットフォーマーは利用者が従うべきルールを自在に作ることができ、理不尽な書き込み削除やアカウント停止をしても別に説明責任はない。他にも色んなプラットフォームを選べるなら問題ないのだが、実質上の独占による特権があり、他のプラットフォームの選択肢はないに等しくなる。利用者はプラットフォーマーの一方的な管理に甘んじるしかなくなる。

このプラットフォーマーと利用者の関係が、インサイダーとアウトサイダーの対立と同じであり、それが実は現実世界でも起こっていたという。

労働市場の分断で労働者の力は削がれている

経済の話から始めよう。経営者(管理者)の労働者の関係を見ると、労働条件を変えられる経営者の立場の方が強い。それに対抗するように労働条件を守るための力を発揮してたのが労働組合である。しかし、新自由主義の影響で労働組合そのものがが縮小してもいったが、労働組合の影響が小さくなったもう一つの原因がある。それは(違法)移民の増加である。

労働組合は良い方に労働条件を揃えることで経営者の要求に対抗するが、労働組合に属さない移民が増えることで、労働組合を無視して労働条件が悪くとも安く働いてくれる(違法)移民を雇えば済むようになった(労働市場の分断と呼ばれる)。ここで起こったのが、労働者(アウトサイダー)同士の分断による敵対視である。トランプ支持で煽られたのはこれである。

十数年前にまだブログが流行っていた頃に、あるブログでアメリカ在住の(フェミニズムを支持する)リベラルな人が、日本が移民を入れないことを否定的に書いてて、読んでモヤモヤした覚えがある。リベラルが(既に国内にいる)移民への差別に反対するのはまだ分かるのだが、(これから来る)移民の移入そのものは別の問題では?と思った気がする。この時点で既にリベラルは労働者の味方ではなくなっていたのだ。

司法や条約による政治を通さない非民主的な実質上の立法

次は政治の話にしよう。たとえ労働運動で労働条件を改善できないとしても、まだ政治で民主的にルールを変える方法がある。しかしこれも、(新自由主義の影響もあって)労働組合や地域共同体の力が弱まっていて、政治的な影響を与えるのも難しくなっていた。だが、多数派のはずの労働者の政治への影響が薄くなったのには、他にも理由がある。

(主にリベラルが)司法審査を介して民主的政治を無視して実質的な立法に当たる影響を及ぼしてた(例えば過去の中絶問題)。国際的な組織や協定によって条約や規制を規定することで国内の民主的な政治を飛び越してルールを決めることができた。

ブレグジットの時に、EU離脱に賛成した地域に対してEUはこんなに良い事したんだよ…と指摘してる動画を見た覚えがある。それを見た時も違和感があったが、問題はEUの決定が(各国の国民を無視してエリートだけが決めた)民主的ではないことであり、何をしたか?ではない。トランプ当選の時も、トランプ支持者が民主主義を駄目にした!かのようによく言われていたが、本当はエリート(インサイダー)こそが民主主義を既に損なっていたのだ。

リベラルぶりっ子はエリートに有利な能力主義を推し進める隠れ蓑だ

最後は文化の話をする。リベラルのポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ)は、実質的に労働者に喋るな!と言ってるのと同じだ。実際にトランプの庶民的な喋りはリベラルによって揶揄されていた。育ちが悪い労働者に対して育ちの良いエリートがポリコレの名のもとに黙らせている。ポリコレは表面的には良いことのように見えるが、実際の効果はただのエリート主義でしかない。

リベラルは別に上下の対立を手放したのではない。リベラルは下の領域をマイノリティの段階にまで縮小したに過ぎない。しかし、そこで行われているのは多数派を取れずに政治的に影響を持てないマイノリティの味方ごっこでしかない。そこでの差異の政治は労働者の分断と同じ効果を及ぼしているに過ぎない。

女性や人種の差別を叫ぶリベラルの場合は事情がもう少し違う。女性や人種への差別は(人の能力を純粋に評価する)能力主義(メリトクラシー)を阻害する障害として扱われていることが多い。似た例としてはダイバーシティや(本来の)ルッキズムも、それに対応することで能力主義体制を純粋に実現できるとする側面がある。しかし、これはグローバル資本主義の下における能力を持つ者(インサイダー)と持たない者(アウトサイダー)を分けることにお墨付きを与えているだけだ。

右派も左派も中道もグローバル資本主義下でのエリート同士の覇権争いをしてるだけだ

リンドは本書でテクノクラート新自由主義という言葉をよく使っている。正直この言葉は分かりにくい。テクノクラートは良い翻訳語がない。(民主的ではない)技術的な手続きによる支配体制…としか自分には言えない。新自由主義は本来は政府を小さくする市場主義だが、リンドは再分配を伴った新自由主義を認めてるのでややこしい。

ここで注目すべきはベーシックインカムである。ベーシックインカムは右派からも左派からも支持されている。左派はすべての人の最低限の生存を保証するものとしてベーシックインカムを支持している。右派は社会保障費を節約するためもあるが、金を渡して労働者を黙らせる効果もある。ベーシックインカムはグローバル資本主義には反対してない。

リンドの言うテクノクラート新自由主義とは、エリートによる統治+市場による統治である。ここにおいてエリートによる統治は市場による統治を補完するものでしかない。再分配や教育をするにしても、それは市場による統治を手助けするのが前提だ。

右派も左派も中道も、市場による統治を当たり前の前提とした上で、エリートによる統治を誰がするか?というエリート同士の覇権争いをしているだけだ。そこでは多数派の一般市民は無視されており、民主的なルートは遮断されている。エリート叩きをしてるのもエリート(予備軍を含む)であり、ただの覇権争いでしかない。

今や、一般市民はどこにも支持できるめぼしい政党がなかったとしても、それはどのめぼしい政党も覇権を欲しているただのエリートの集まりだからであり、民衆の方など始めから向いていない。

リンドの民主的多元主義への評価

エリート同士の覇権争いを逃れる方法として、リンドは民主的多元主義を提示している。その拮抗力を重視するアイデアは評価するが、リンドの提唱する民主的多元主義は古き良きアメリカへのノスタルジーに見えなくもない。リンドの民主的多元主義とは、(様々な階級の様々な利益を代表する団体が存在する)中間団体主義とも呼べるが、それがどのように現代に実現可能か?どうも見えない。

日本の話も少しだけ

少しだけ日本の話もしよう。既に指摘したように、リンドは新自由主義ではないとしてる。確かに日本は最小政府という意味での新自由主義は失敗したと思う。移民については前なら日本は少なかったが、最近は実質上の移民大国と言われることもあり、私にはそこはよく分からない。日本には公共サービスの縮小はあるが、そこを指して日本は新自由主義だとするのはどうか?と思う(ただの利権の移し替え[貧乏人に金はやらん、俺がもらう]だと思う)。

ここで注目すべきは労働市場の分断である。欧米では地元の労働者vs.移民の対立による分断だったが、日本では長らく正社員vs.非正規雇用の対立が同じ役割を果たしてたように見える。今の日本は少子化で人手不足なのでその図式は成立しなくなり、より移民を入れる方に向かいつつあるが、それは過去の欧米と同じだ。

日本におけるインサイダーは利権に与れる集団(政治家や大企業や官僚)である。日本は司法を介さずとも政治家が勝手にルール(立法)を非民主的に作れてしまう。ただの権力の犬でしかないネトウヨはゴミとして捨てるとして、日本には労働運動を支持する昔ながらの左翼は絶滅危惧種である。マイノリティの味方ごっこをしてるリベラルぶりっ子ばかりが目立つ(能力主義者も多く見える)。与党も野党も覇権争いをしてるエリートの集まりであり、一般市民から見て支持できるめぼしい政党が見当たらないのも同じだ。

いい加減に長いので、この辺りでやめるが、これでも色々と書けてない。例えば(リンドも挙げてる)リチャード・ホフスタッターの悪口(反知性主義で騒ぐ奴らの悪口)も書きたかったが、もう無理。