今年は何回「初体験」しましたか?

昨日、年齢とともに体力よりも気力の衰えを強く感じる、ということを書いた。

daiksy.hatenablog.jp

特に「新しいことはじめる」気力が顕著に薄れていると感じる事が多い。

それは日常の些細なことにも及ぶ。

たとえば、映画を観たり、マンガを読んだりといったことでも、新作を観るのには意外とパワーが必要で、最近は過去に観た映画や読んだことのあるマンガばかりに触れている気がする。音楽なんかもそうだ。知らないアーティストの曲が次々とレコメンドされるが、結局何度も繰り返し聴いている知ってる音楽ばかり聴いてしまう。

趣味を多く持ち、常に新しい刺激を受けることが認知機能にも良い効果をもたらすとは知っているが、それをやるためにも気力が必要なのだ。

そういえば、今年「これは初体験だ!」ということが何度あっただろうか......。

自分は今、登山を趣味の一つとしており、ほとんどが近場の六甲山系で遊ぶ程度の趣味であるのだが、今年ははじめて北アルプスに登った。山小屋泊もはじめてだ。

これは本当に感動的な体験だった。自分の足で2,000mを超えるところまで登り、目の間に槍ヶ岳が見える。何度も雑誌の写真で見た景色を肉眼で見ているのだ。山小屋の体験もとても良かったし、多くの刺激を受けた。

一方で、登山はそれなりに遭難などのリスクもある遊びである。自分の体力で登りきれるだろうか、天候は大丈夫か、など常に不安を感じながらの体験でもあった。山小屋でお酒を飲むのを楽しみにしていたのだが、翌日の下山の不安から結局夜はお酒を飲まなかったし、同様に体力への不安から山頂への登頂は見送って山小屋をゴールとした。若い頃は、こういったことは気にせずに勢いにまかせてやりきっていただろう。

このように、新しい体験への怯えのようなものも、気力の低下とともに強くなっている気がする。

今年の5月に転職をして、生活は大きく変わったが、出戻りなのでまったくの新天地というわけでもない。こうしてふりかえると、「初体験」をここ数年あまりやっていない気がする。

来年はもう少し増やせるといいな。

気力の衰えに悩む

自分が若い頃、飲み会の席で年齢に起因するさまざまなことを嘆く当時40歳になった直後の上司を見ながら、その姿は自分にとってはまだ遠い先のことであると思っていた。

ふと気がつくと、46歳になり、老眼やら四十肩やら、あのときに耳にした上司たちと同じようなことで自分も苦しんでいる。よく考えたら、あのときの上司の年齢よりも今の自分のほうが上じゃないか。

コミュニティで出会った同年代の友人たちとも、「出会ってから干支が一回りしたねぇ」と話したり、勉強会で「50代の転職」をテーマにしたLTを見たりしている。そのうち定年後再雇用の知見を共有するLTも目にするようになるのだろう。

soudaiさん とも先日似たような会話をした。こんなことをポストしていたからだ。

soudaiさん曰く、「体力はまだトレーニングでなんとかなるけど、気力がだんだん衰えてくるらしいよ」とのこと。

たしかに、最近は自分もいろいろなことが億劫になってきて、気力の低下を実感している。

休日にやりたいことがいろいろあるのだが、いざ休日に入るとどうにもやる気がおきなくて、1日ぼんやりしたり、昼寝をしたりして終わってしまうことが増えた(まさに昨日そういう日曜日を過ごしてしまった)。

こうしてブログを毎日書いているのも、アウトプットに対する気力の低下を明確に感じたため、アウトプットの筋トレのような気分でやりはじめたところもある。

この「毎日ブログを書く」という習慣がまさにそうだが、面倒なのだけどやったらまだやれるな、というのも実感した。なので、本当に気力が尽きてしまう前に、いろいろな事を「まずはとにかくやる」というのを意識しようと思っている。

このやる気の低下は、どうもコロナ禍の引きこもり生活によって強化されてしまった気もしているので、コロナ前にやっていた事をまずはいろいろやっていこうかなと思っている。

出社回帰の話題を眺める地方在住エンジニアの憂鬱

ある会社が、フルリモートから定期的な出社へと方針を変更するとのことで、インターネットがざわざわしている。

ネット上でいろいろな意見が交わされているが、どうも首都圏に在住している人と、地方在住の人とで温度感が異なるように思い、嗚呼、またか...と憂鬱な気分になる。

東京一極集中という状況は今にはじまったことではなく、そもそも人口の規模が大きく異なるのであるから仕方がないこととはいえ、ソフトウェアエンジニアとして20年とすこし生きている自分のキャリア選択は、常に「このまま地方に住み続けるか、東京に行くか」という天秤の上に乗せられ続けている。

東京に引っ越したほうが、どう考えてもパイは大きいというのは分かっていつつも、生まれてから今まで生活し続けている地元の愛着も捨てがたく、そうそう割り切れるものではない。

しかし、これまで地元にこだわって住み続けている自分も、自宅を賃貸にし続けているのは「いざとなれば東京に行けるように身軽にしていたい」というのが理由であり、そういう意味でも人生の選択のいくばくかがこの問題で縛られている。

地方在住である自分は、しばしばこういう状況の中で、地方特有の経験をし続けている。

昨今は採用活動もリモートにシフトしつつあり、ほとんどこういうケースは無くなったが、コロナ禍以前に受け取るスカウトメールはだいたい「来週あたりに渋谷のオフィスにお越しいただけますか?」のような、さもソフトウェアエンジニアは全員東京に住んでいるかのような文面を読んでは、苦々しい気持ちになった。

東日本大震災があり、一時期、東京一極集中がリスクであるという風潮が強まった頃、いろいろな会社が地方に拠点を分散させる、という動きがあった。

これでようやく、地方での選択肢も増えるかなと期待したが、みんな一瞬で東京に帰っていき、たとえばそのころに設立された京都オフィスなどは「日本で働きたい外国人を受け入れる拠点」のようなものに姿を変えた(ように見えた)。

インターネットで見かけるおもしろそうなカンファレンスや勉強会はだいたいが東京で、真似をして地方でも同様の勉強会を開催してみるが、やはり集客がいまひとつなので、人口規模の違いはいかんともしがたいなぁ、とも思う。なので東京を中心にさまざまなことが動くのは、仕方がないとは思う。

コロナ禍で、大きく潮目が変わったと感じた。

今後もフルリモートを続ける、と標榜する企業が増え、カジュアル面談はビデオ通話でほとんどすべて行われるようになった。勉強会もオンラインで配信してくれるものが増えたので地方にいながら参加できる。

いよいよテクノロジーが今までの問題を解決するのか、と思った。

けれど人々は「コロナに打ち勝った証」とまた同じ場所に集まり始めた。

同じ場所に集まってディスカッションできるカンファレンスは、めちゃくちゃ楽しい。それはそうだ。仕方がない。

方針を変え、企業は次々と出社回帰を掲げる。これも地方オフィスに週1回出社、ならまだいい。話によっては、新幹線に乗って東京オフィスに出社しないといけない、という話をよく聞く(人を同じ場所に集めたいのが目的なのだからそれはそうなる)。

こうして、「週1日くらいいいじゃない」と話す東京の人と、「実家の近くに家を建てたのに...」と嘆く地方の人の話との温度差に頭がクラクラするのであった。

EMのしごとで良く使う本75冊

仕事をする机の周囲に本がうず高く積まれている。積読もたくさんある。 今日は自分の蔵書の中からEMっぽい本を並べてみようと思う。

次のような基準でピックアップしてみた。

  • 自分の蔵書(物理本, Kindleライブラリ, Kindle以外の電子書籍ライブラリ)を全部舐めて以下の条件に合致するもの
    • EMとして仕事をしていて、よく読み返したり、引用したりするもの
    • EMの仕事に役立ちそうだなという観点で内容をよく覚えているもの

なんとなく分類をしているが、あんまりきっちり時間をかけて精査したわけではない。 タイトルの"75冊"というのは、上記の観点で並べていったらこの数になった、というだけで、なにかの文脈を伴う数字ではない。 (あと2冊無理やり足して77にしようかなと一瞬思ったがそういう余計な小技はやらないことにした)

みんなの読んでる本も知りたいな〜〜〜

ぼくが書いた本 (オススメ!)

EMの仕事内容的なもの

マネジメント全般的な

アジャイル

システム思考

エンジニア組織のマネジメント

チーミング・組織づくり

コーチング・ファシリテーション

法務的な

その他

人見知りでもEMは人と話さねばならないし、スキルを身につければなんとかなる

ぼくは人見知りだ。

コンビニで「いつもありがとうございます」と顔を覚えられるコミュニケーションをされると、そこに通うのは気まずくなる。(行きつけの居酒屋とか料理屋で覚えてもらえると嬉しいと感じるのでたちが悪い)

飲食店で店員さんが忙しそうにしていると、申し訳なくて注文ができない。特にカウンターの店などは店員さんとの距離感が近いのでもう無理...。なにも頼まなくても勝手に出てくるコースのお店が最高。最近はタッチパッドで自分のペースで注文できる店が増えたのでそれも最高。配膳ロボットいつもありがとう。

この世で最も苦手なものの一つが立食パーティだ。着席形式の会であれば、まだ固定化されたメンツとそれなりの時間を過ごすことになるので、だんだん慣れてくるわけだが、立食パーティとなるともう無理...。会話メンバーは常に入れ替わるし(むしろそうしたいから立食形式を主催は選ぶのであるが)、いったん食事を取りに行く、などで輪を離れると、もう二度とどこかの輪に入ることはできない。手持ち無沙汰が極まって飲み続けるため、瓶ビールでベロベロになる始末だ。

こんな人間でも、スクラムマスターだとか、EMだとか、人と関わる仕事を続けていられるし、なんなら「AIが進化してあらゆる物が自動化されても、人間がいなくならない限りは人と関わる仕事は食いっぱぐれねぇぜ!」とこの仕事に自らこだわっているくらいだ。

会議のファシリテーションは得意だと思っているし、やや苦手意識はまだあるものの、1on1とかカジュアル面談もまぁどちらかというと得意な側だと思う。

なぜなのか。

それは、仕事で扱うものに限っては、スキルとして訓練や学習で身につけられるものだからだ。

1on1やカジュアル面談のような、1対1のコミュニケーションはランダム要素も強いので、スキルだけで乗り切ることは難しいが、それでも事前にどういったことを話せばよいのかを準備しておけばなんとかなるし、コーチングスキルなどを学んでおけばそれなりに応用も効く。

人見知りであるがゆえに、いつも人の顔色を伺ってはビクビクしていて、そういう性格を自分では嫌っているのだが、ファシリテーションの場ではそういう人の顔色を探る観察眼がむしろ効果的に作用することも多いので、世の中はままならぬなぁ、と思っている。

自分は、コミュニケーション相手とのコンテキストがまだ把握できていなかったり、この場がどういう場であるのか、ということが定まっていなかったりするふわっとしたコミュニケーションが苦手なのだ。 なので、お互いが「ここはこれをやるための場で、そのためにわたしたちは話しています」ということが共有できていれば、その文脈にそって対話をすればよいわけなのでまぁなんとかなる。

仕事の場ではこういう感じなので、プライベートで「人見知りです」と言われるとあまり信じてもらえないのだが、立食パーティであたふたしているぼくを見かけた際は、察していただきたい。

叩き台は叩かれてなんぼ

部門横断的なマネージャーとして仕事をしていると、なにかを決めようと思っても自分だけで自由に決められること、というのはそんなに多くなくて、合意形成がとても重要である。

特に自分のような就任半年の新任マネージャーは、まだまだ過去の経緯やカルチャーなどを充分に理解しているわけではなく、自分がよかれと思って考えていることが、結果として過去の経緯を無視してしまっている、というようなこともある。

つまり、自分の意思決定に対するレビューや、叩き台を叩いてもらって合意形成を図る、というプロセスがとても重要だ。

もちろん、どうしても自分の考える理想に由来する施策、などもあるわけで、そういう場合は反対意見があっても押し切って意思決定する場合もある。とはいえ、そのような場合でも、合意形成のプロセスをやったうえで、「ここは自分がやりたいことだからやらせてほしい」と伝達するうえでやるべきだ。そうでないと、周囲から暴君のように見えてしまう。

このような性質の仕事が多くなるわけだから、自分が仕事で最初に出すアウトプットの9割は叩き台ということになる。つまりはアウトプットのほとんどを叩かれるわけである。

自分はエンジニアとしてコードを書く際は、必ずレビューを受けるという文化に身を置いているので、自分のアウトプットに対してレビューを受けることにそんなに抵抗はない。

とはいえ、そんな自分でも指摘事項によっては「しんどいなー」と思うこともある。レビューを受けることが苦手な人もいるというのもわかる。

叩かれるのはしんどいので、そのプロセスを飛ばしてえいや、と出してしまいたい誘惑にかられることはなくはないが、だからといって、周りの意見を聞かずに物事を決めるというのはやるべきではない。過去にも「この人全然自分らの意見を聞こうとせずに勝手になんでも決めるなぁ」と苦手だった上司がいた。

叩き台は叩かれてなんぼなので、どんどん叩かれるべきである。叩かれることに価値があり、そうしてアイデアやアウトプットは磨かれるのだ。

ライトニングトーク考 - LTは5分なのだ

@941 さんが最近、折にふれて「LTは5分」というのを強調されている。

ぼくもLTといえば5分派閥の人間なので、共感できる。

最近、登壇のご依頼をいただく際に「15分程度のLT形式でお願いします」のようなお誘いを時々見かけるが、その度に、15分も喋るのならそれはLTではなくて普通のトーク(あえて呼び分けるならショートトークとか)なのでは?? と思いながら口には出さずに過ごしている。

wikipediaの「ライトニングトーク」のページを見てみると。

ja.wikipedia.org

様々な形式があるが、持ち時間が5分という制約が広く共有されている

とある。

ライトニングトークの歴史についてまとめられているページがある。

giantech.jp

これによると

LTが世界で初めて開催されたのは、2000年7月にカーネギーメロン大で開催された「YAPC 19100(YAPC::NA2000)」 、考案者はMark J. Dominusさんです。

とある。

さらに、Mark J. DominusのサイトにはLTについての説明がある。前述の歴史紹介サイトに掲載されている訳文をそのまま紹介しよう。

いままでにセミナーの講師をやったことない人でも、小さいものならできるかもしません。 Lightning Talk なら、スライドをつくらなくてもいいし、作るとしても、2,3枚で十分です。

失敗するんじゃないかと心配するかもしれません。5分のトークなら、準備も簡単。 もし失敗したとしても、すぐに終わるんだから気にすることはないんです。

「この5分だから失敗してもすぐ終わる」というのがLTの根本であるように思う。自分がコミュニティに参加しはじめた頃は、どの勉強会でも懇親会などでLTの枠があった。20分とか、40分の登壇はたいへんだし自信もないが、5分くらいなら自分でもできそうだな、と思いよく参加したものである。実際、懇親会でのLTとなると酒宴の余興のような趣も強く、ネタに走ったLTなどをよく見かけたものだ。

懇親会中に酒を飲みながらスライドを作り、その場で手を上げて飛び込みLTをする、というようなことも良くあった。昼の勉強会本編の内容に刺激を受け、それをオマージュするようなLTをその場でつくって懇親会で披露する、というなこともあった。

言葉というのは変遷するものなので、自分は現代のLTの解釈もこういうものかとは思うが、「15分のLT形式」という言葉の中にも「それほど入念な準備は必要ありませんよ」というLT本来のニュアンスが残っていてこのような言い方になっているのだろうと思う。

「懇親会の飛び込みLT」のような話をすると、「そんな感じだったんですか!」と驚かれることも増えた。

EM Loungeのスタッフを一緒にやってくださっているミツカワさんとも先日そんな話をして、その後ミツカワさんがこんなエントリを書かれていた。

note.com

LTというのはすごく丁寧に準備をして、短い時間の中に学びを凝縮した何かだと思っていました。だから、5分間で学びを伝えるためにしっかりと準備をして当日に挑むものだと認識をしていました。 が、どうやらそうじゃないらしいという話をコミュニティで出会った方々に聞きました。

「短い時間の中に学びを凝縮した何か」だと思っていたというご意見に、そうだったのか! と驚いた。

京都アジャイル勉強会の忘年会で同年代の人たちと、「我々が当初LTだと思っていたものは今はなんと言うの?」と話をしていると、大阪で活動しているココカラというコミュニティではソニックトーク(ST)と呼んでいるらしい。

kokokara.connpass.com

STとは「ソニックトーク」の略で、LTよりも更にカジュアルに発表できることを目的に作られた発表方式です!

STのルール3ヶ条

- スライドは3枚まで! (表紙と自己紹介、締めの挨拶除く)
- 発表内容はITに関係するもの
- 内容はゆるくておk(精査されてなくも、詰めきれてなくても、とにかく話したいだけのことでも大丈夫)

「スライドは3枚まで!」というのがLTよりも気軽であることを表していておもしろい。LTでは5分に50枚のスライドを詰め込む、みたいな遊びをする人もいるわけで。

ライトニングトークの"Lightning"は「電光石火」という意味であり、それより気軽なのが"Sonic"(音速)であるというのもちょっとおもしろい。自分としては、LTは5分の失敗しても良い気軽なもの、という扱いを続けたいが、とはいえこのような文化の変遷も人間社会の必定であるので、「LTも解釈が変わるくらいに年月が経ったのだなー」とおもしろく眺めている。