「知りたいこと」と「報道されること」

今に始まった話でもないですが、報道されることと知りたいことの間に乖離が大きいと感じることが多いです。


先日、「結婚したい若者が、結婚できなくなっているのはなぜか?」というテレビの特集番組を見て、このエントリを書きました。「番組が報道したいと思ったこと」と、「ちきりんが知りたいと思ったこと」は、似ているようで、全く違います。

番組が伝えたいと考えたのは「なぜ、今、結婚したい人が結婚できなくなっているのか?」ということであり、私が知りたいと思ったことは、「昔だって条件が悪い人もいただろうに、なぜ全員が結婚できていたのか?」ということでした。

全く同じ現象を見ても、異なる人は異なる方向から考えるのだと、よくわかります。



他にも、「行動提起としてのノーベル平和賞&文学賞」というエントリを書いていますが、今回のノーベル文学賞に関して、ちきりんが一番知りたい!と思うのは、莫言氏のこれまでの作品の多面的な解釈、彼の生い立ちや経歴、これまでの発言とその背景です。

理由は、そこを掘り下げれば村上春樹氏が賞を逃した理由がわかるだろうと思うからです。先日のエントリは、私の勝手な仮説に過ぎません。でも調査能力を持つ大手メディアであれば、中国文学の専門家の協力を得て、上記のような莫言氏に関する情報を深く掘り下げ、今回の授賞が何を意味するのか、検証することも可能でしょう。

そういう番組があればぜひ見てみたいと思います。



昨日は、最近お騒がせの森口尚史氏(iPS細胞を利用した移植手術を6例、実施したと発表。現時点で5例は虚偽だったと認めている)の件であれこれツイートしていたのですが、この事件に関しても、ちきりんが知りたいのは、
(1)この人は、仕事は普通にマジメにやってて、魔が差したように虚言癖があるだけなのか
(2)今までの経歴(博士号の取得、今回の件以外の研究実績、東大の特任研究員としての雇用の是非や業務内容)にも、疑うべき点がある人なのか?
ということです。


(1)であれば、よくある「まじめな会社員が、魔が差して万引きした(or 実は万引きの常習犯だった)」的な話です。どこにでもそういう人はいるし、そういう事件の場合、勤め先企業は「真面目な勤務態度だった。何も問題はなかった。事件を聞いてびっくりしている」的なコメントを出して終わりです。

ですが、(2)であれば、「アカデミックな世界において、大がかりな詐欺(詐称)行為が可能になる土壌が存在するの?」という話になります。もしそうなら、なぜそんなことが可能になるのか、といったメカニズムは詳細に知りたいところです。

というわけで、ちきりんがまず知りたいのは、(1)と(2)のどっちなの?という点です。でも、この分岐が重要だと思っている人自体が少数派なのか、大量の報道を見ていても、記者会見の質問を見ていても、今ひとつピンときません。



iPSといえば、本家、山中教授の研究に絡んでも、「iPS細胞が臨床応用されれば、こんな難病が治る可能性がある!」的な報道ばかりですよね。もちろんそういうことを報道する意義があるのはわかります。

でも、ちきりんとしてはビジネス的な視点から、「iPS細胞が研究から臨床、応用の世界に入ったら、どういうビジネスがでてきて、どんな産業規模になると考えられるの?」ということにも関心があるのですが、そういう報道はあんまり見かけません。(株価はそういう視点で動いています)

山中先生は目標として糖尿病治療への臨床実験も挙げられているし、ガンの治療にも役立つかもという話になれば、「どんだけの市場規模になるの?」という興味をもつのは、ちきりんにとっては余りに自然なことです。

「それって巨大な市場が現われるってことだよね? どれだけの人と企業が、これで食べていけるの?」「それってどんな企業なの?」なども是非知りたい。でも、世の中的には「そんなどうでもいいこと」は報道されません。



という感じで、いろいろ併せて最近思うのは、“マス”メディアというのは、“マス”が知りたいことを報道してればいいんだなということです。ちきりんが知りたいようなことは、それらの分野に詳しい専門家が、きっとどこかで答えを書いてくれている(or くれる)のでしょう。

たとえその書き手や内容が、今は注目されていなくても、もしくはその情報が日本語以外で書かれていても、きっとそのうちグーグル先生が見つけてきてくれるはず。

最近はよく「マスメディアとマイクロメディアの役割分担ってどうなっていくんだろう?」と考えていたのですが、ここのところの「報道されること」と「知りたいこと」の乖離から、なるほど、こういう感じの補完関係になっていくのかな、と思いはじめたりしています。


そんじゃーね