c71の一日

生活の記録

正しくてもしないという選択

最近、睡眠時間や、外出時間をメモしたり、体重、食べたものをメモしたり、困ったことを書いたノートを作ってる。
困ったことノートは、困ったことをノートに書いて、解決策が思いついたときに、答えを書くノート。
そうして、知恵を集結させていくのだ。


こういうやりかたも、前から知っていた。
正しいことを言う人が言うからだ。
でも、今回したのは、わたしが信頼しているお医者さんが、わたしのタイミングを見て話してくれたからする気になった。正しいことでも、伝えてくれる人の人柄や、タイミングでできるようになることもある。


ダイエットも、食べ過ぎないようにすることも、健康診断も、歯医者に行くこともしないといけないとわかってる。
でも、わたしのタイミングでは出来なかった。
反発心がわいたり、いわれたこと自体に混乱したり、出来ないと言って絶望してしまったり。


最近、たとえば困っていることは、昼間眠いことだ。薬を飲んでいるから仕方がない。
でも、ちょっと前は、困っていなかった。
仕事をしていなかったから、死にたくなったり、悲しくなったりすることを防ぐことの方が大事で、眠くなっても、眠れば良く、制約がなかったから、そうしていた。
でも、今は眠いと仕事に差し支えるから困る。


年齢や、場面や、気分で困ってしまうことは異なる。
そして、そういうとき、外から正しいことを言われるといやな気持ちになる。
わたしの問題はわたしの問題だ。
やり方を教わってから、実際にするまでに何年もかかった。

正しいことはいわないでほしいから、正しいことを言う人からは遠ざかって来た。
本当にその選択は正しかったと思う。


いわれたときには、正しいことを言う人には見えない問題をたくさん抱えていて、それだけで精一杯だった。
優先順位も自分なりにあって、そのことを話し合うほどの間柄じゃなかったから、なぜそれをしないのかも、話したくなかった。
そういう、人の気持ちをわからない人の言うことを聞かなくて、わたしは本当にえらかった。
正しいことを言う人の言うことを聞かない自分のことが好きだ。
正しいことを一方的に言う人は、わたしの境界を侵している。
それ自体が正しくないことだ。

わたしが困っていることを話したときに、やり方を教えてくれる人が好きだ。
正しい人はそうじゃないから、嫌いだ。