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 ようやく春めいてきた。

 世間が4月になろうとしているこの時期に「春めいてきた」などと言い出すのは、ふつうに考えて間抜けな態度ではある。

 でも、実感として、春の訪れが遅れているのだから仕方がない。
 私自身は、いまだに冬の名残の中で暮らしている。
 それゆえ、寒さと乾燥した空気への警戒を解いていない。
 温暖化がひとまわりして、春の訪れが遅くなっているのだろうか。

 おそらく違う。

 春が遅れている原因は、地球の側にでなく、私の側にある。
 つまり、季節の移り変わりがスピードダウンしているのではなくて、私の五感が、春の訪れを容易に感知しなくなっているのだ。

 その点、花粉症を患っている人々は、いちはやく季節の変化に反応している。
「おい、春が来てるぞ」
 と、彼らは鋭く断定する。
「……風はまだ冷たいけどなあ」
 と言っても聞かない。
「いや。オレの鼻が春の呪いを感じ取っている」
「呪い?」
「知らないのか? ゴールデンウィークというのは、あれは花粉の飛散がおさまったことをことほぐために設けられた国民の祝日なのだぞ」

 なるほど。

 私は、花粉症を持っていない。
 なので、暖かくなってきたこの時期のマスク装着義務には、うんざりしはじめている。で、このままコロナ禍が無事に収束してくれることを願っているのだが、ここ2~3日の数字を見るに、どうやら、われら国民の願いは粛々と踏みにじられつつある。

 してみると、一時期、一部の人たちがしきりに喧伝していた「ピークアウト予測」というのは、あれはいったい何だったのだろう。投資やらに手を出しているおっちょこちょいをたぶらかすための、あまたあるフェイク情報の一種だったのだろうか。

 まあ、いずれはっきりとわかる日がやってくる。

 とはいえ、「ピークアウト予測」をバラまいていた人たちの責任は、明確に追及されることなく、花粉の中に消えていくはずだ。

 この国の商業メディアは、いつの間にやら
「言った者勝ち」
 が、正面突破でまかり通る場所になっている。
 で、不確かな情報であれ、無責任な断言であれ、自信ありげに言い放った人間が、当面のギャラと信頼を勝ち取るわけだ。いやな世の中になったものだ。

 今回は、方言の話をする。

 当初は、ウクライナ情勢に一言するつもりでいたのだが、やめておく。
 理由は、戦争のような重大な事態について、素人が無責任な自説を開陳することは、無益であるのみならず著しく有害だと考え直したからだ。

 分野が分野であれば、事情をよくわきまえていない勉強不足の素人が的外れな見解を振り回すことに、意味がないわけではない。われら素人が享受している娯楽の分野では、むしろ、素人の見解にこそ可能性と発見が宿っていたりする。だから、相手が戦争だったり病気だったりしないのであれば、恐れることなく、どんどん発言すればいい。

 たとえば、スポーツの試合や公開中の映画の解釈は、素人の勝敗予測や感想が寄せられることで活性化し、より豊かになる。その意味で、当たり外れや当否正邪理非曲直とは別に、市井の人々による思い思いの見解は、世界をにぎやかにするための不可欠な要素ですらある。

 でも、戦争は別だ。

 あれは、人類の恐怖や興奮を養分として成長する呪われた植物みたいなものだ。
 われら傍観者が血と火薬にエキサイトして、あるいは、怒り、恐れ、要らぬ先読みに熱中すればするほど、戦線はそれだけ拡大し、泥沼化する。

 なぜというに、戦況分析や戦術的な見込みとは別に、戦争は、われわれの内心にわだかまっているネガティブな感情(恐怖と憎しみと復讐感情)の反映そのものだからだ。

 つまり、人々の心の奥底にあらかじめ埋め込まれている怒りや憎しみを呼び覚まし、それらを熱狂と興奮の中で増幅するからこそ、戦争はいやが上にも拡大する。昔から、そういうことになっているのだ。

「やられたらやり返せ」
 という、シンプルな防衛本能と復讐感情とヒロイズムに歯止めをかけることはとても難しい。

 であるから、テレビをつけると
「戦争指導」
 などという耳慣れない言葉を持ち出して、戦争に主導的な立場で関わろうとする意思を隠さない、全能感のカタマリみたいな図々しい人物が、ツバを飛ばしていたりする。

 ボクシングの観客がボクサーのパンチを自分の力量であるみたいに感じて溜飲を下げるのは、まあ、ご愛嬌でもあれば、ボクシングの有力な楽しみ方のひとつでもある。

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