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 懸念している事態が懸念した通りに展開するケースは、実は、滅多にない。
 多くの場合、われわれの懸念は、空振りに終わる。だからこそ、世界はまわり続けている。

 別の言い方をすれば、私たちは、状況がこれ以上悪化することを恐れて、自分たちの内心に、あらかじめ最悪の事態を思い描いているのかもしれない。

 もちろん、不安が危機を防ぐ保証はない。

 逆に、不安の感情が、必ず不幸を呼び寄せると決まっているものでもない。私たちが心の中にどんな近未来を想定しているのであれ、すべての出来事は、起こるべくして起こり、変転するべくして変転していくものなのだろう。

 このたびのウクライナ情勢は、年明け以来、私が抱いていた不安をそのまま裏書きするカタチで推移している。このことに、私は、いまだにうまく適応できずにいる。

 目の前で繰り広げられているこの悲劇に対して、何か自分にできないのだろうかと考えずにいることは、とてもむずかしい。それゆえ、さまざまな立場の人々が、結果として、「余計な口出し」をしている。

 戦争が、言論を混乱させている。

 というよりも、このたびの緊急事態を利用して、目下の戦争とは直接かかわりのない自説を押し通しにかかる、火事場泥棒みたいな論客が各所に出没しているわけで、個人的には、戦争の惨禍自体もさることながら、戦時下のマッチョな空気に陶酔した人々による、粗雑な言説の蔓延を強く警戒している。

 無論、黙っていればよいというものではない。

 むしろ、離れた場所で暮らしているわれわれのような人間が、戦争を傍観することは、状況を悪化させるだけだろう。

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