新型コロナウイルス関連の話題には、できれば触れたくないと思っている。
 にもかかわらず、気がつくと自分からコロナの話をはじめている。
 私は、メンタルをやられているのかもしれない。

 「コロナ神経症」という病名が、すでに存在しているものなのか確かなところは知らないのだが、でも、自分がそれに罹患しているかもしれないということは、なんとなくわかる。私は正常にものを考え続けることができない。とてもつらい。

 世間の人々は、いったいどうやってこのバカげた騒動に耐えているのだろう。不思議でならない。私は、限界だ。とにかく、コロナという言葉は二度と聞きたくない、と、日々、そう思いながら、毎日コロナの話をしている。

 多くの人々が、毎日のように同じ話を繰り返している。
 テレビ画面に出てくるMCは、この3月以来、何千回というオーダーで告知してきた同じ注意事項や基礎知識を、今朝もまたリピートしている。

 「とにかく3つの密を避けることが大切ですね」
 「ここで気の緩みが出ないように」
 「マスクは感染防止の決め手にはなりませんが、飛沫の拡散を防ぐためには一定の効果を発揮します」

 専門家としてスタジオに招かれているデクノボウの皆さんも、この種の耳タコの常套句を、さも重大な情報を分かち与えるかの体で開陳して恥じない。

 「感染者の唾液などの飛沫がウイルスを拡散するわけですが、たとえば通勤電車の手すりやエレベーターのボタンなどに付着したウイルスを触った指で……」

 うるせえその話は300回聞いたぞ、と、そう叫び出して液晶画面を破壊せずに済ませることのできる視聴者が、どうして、この国にはこんなにたくさん暮らしているのだろうか。私にはそれが不思議でならない。

 そんなこんなで、震災からこっち、ろくに見なくなっていたテレビ放送の中で、ただ二つの例外として、日常的なチェックの対象にしていたスポーツ中継とニュース番組の視聴からも、結局、撤退することになった。

 スポーツ関連は、なにしろ競技自体が開催中止に追い込まれている。それゆえ、中継放送が成立していない。テレビ各局は、古いコンテンツの再放送で急場をしのいでいるのだが、いかんせん、その種のレガシー動画のありがたみは、この5年ほどの間にすっかり色あせてしまった。

 というのも、その種の「歴史的名勝負」タイプの動画は、ネット内をひとまわりすれば、いくらでも発掘可能だからだ。個人的な好みを申し上げるなら、私は、たとえば同じ「サッカー日本代表・栄光の足跡」でも、テレビ局が下賜してくれる高画質の番組映像よりは、ネット経由であれこれ見比べる動画群の方が好きだ。理由は、随時早送り&一時停止可能な断片として供与されているネット動画の手軽さを愛するからなのだが、それ以上に、もったいぶった有識者の演説やスタジオゲストの軽佻なしゃべりを含まない、YouTubeのスポーツ動画の簡明さに慣れてしまったからだ。

 ということはつまり、テレビ局の人間たちが「番組」の仕上げとして練り上げている「味付け」の部分は、スポーツ愛好家たるオダジマにとっては、まるごと邪魔だったということだ。ファンは、試合映像だけ提供してもらえれば十分だと思っている。このことはつまり、あんたたちがコース料理に仕上げるためにゴテゴテと付け加えていた前菜だのスープだのアペリティフだのは、鬱陶しいだけだったということでもある。

 ニュース番組を見なくなった理由は、あえて説明するまでもない。

 2020年のテレビは、つまるところ、1945年の新聞とそんなに変わらない制作物だと思う。10年後に振り返ってみればわかるはずだ。いずれも、国策標語(「進め一億火の玉だ」であるとか「3密を避けましょう」だとか)と大本営発表の部分を取り除くと、ほとんど中身は残らない。大量生産のゴミだ。

 そんな中、つい昨日(つまり、6月10日の水曜日)、さるお笑い芸人の不倫を暴いたゴシップのニュースが、しばらくぶりに昼の時間帯の液晶画面を席巻したらしい。

 でもって、それらを見たツイッタラー諸氏が、異口同音に
 「やっと日常が帰ってきた」
 という旨のツイートを投稿した。

 私は、視点の独自さをアピールせんとするアカウントたちが、結果的にほとんど同じ内容のツイートを同時発信する結果に立ち至っているSNSの末期症状を眺めながら、コロナ禍の傷の深さに感じ入っていた。

 コロナのせいで死んだのは、テレビだけではない。
 新聞も雑誌も、果ては個人発信のSNSまでもが俗悪な集団舞踏と化している。

 とりわけ、ジャンルとしての生存が危ぶまれるレベルで劣化しているのが、スポーツ新聞だ。
 今回は、スポーツ新聞の話をする。

 私にとっては、高校生だった時分から、最も深く愛読し、愛着をいだき続けてきたメディアでもある。
 そのスポーツ紙が死のうとしている。なんともさびしいことではないか。

 スポーツ新聞は、スポーツや芸能まわりの記録とゴシップを丹念に収集しつつ、一般の新聞が扱わない下世話なネタを直截な文体で伝える、良い意味でも悪い意味でも男らしいメディアだった。だからこそ、時代を代表する突発的な名文は、むしろ、全国紙よりもスポーツ紙の紙面に載ることが多かった。そういう意味で、個人的には、スポーツ新聞こそが20世紀を代表する媒体だったのではなかろうかと思っている。

 その、スポーツ紙が、コロナ騒動からこっち、ひどいことになっている。
 事情は、わからないでもない。
 なにしろ、生命線であるプロ野球が、開幕していない。
 Jリーグも開幕直後に中断して、いまだに再開していない。
 夏の甲子園も中止が決まってしまった。ということは、各地でおこなわれるはずだった県大会も開催されない。
 大相撲も、バスケットボールも、ラグビーも、ゴルフも、その他、新聞の記事になりそうな競技はほとんどすべて中断したままだ。

 こんな状況で、例年通りのマトモな紙面を作れようはずがないではないか。
 と、ここのところまではわかる。

 とはいえ、そこのところの事情を最大限に汲んでさしあげるのだとしても、いくらなんでもこの3ヶ月ほどの現状は、あまりにもひどい。

 主たる取材源である競技スポーツのスタジアムと、リーグ戦のタイムテーブルを失ったスポーツ紙が、紙面を埋めるための当面のネタ元として白羽の矢を立てたのが、テレビとツイッターであったという事実は、突然の在宅勤務で時間のツブしように困った勤め人諸氏の立ち回り先が、結局のところバカなテレビとSNSの中にしかなかったという現実に、ピタリと一致している点で、いたしかたのないなりゆきであるのだろうとは思うものの、その内容は、やはり、いくらなんでもあんまりひどすぎる。

  1. 「テレビのバラエティー番組で、どこだかの芸人がこんなことを言って、それを聞いたタレントの誰某がこんな返事をして笑いを誘ったよ」式の、番組内のトークを書き起こしただけのコピペ記事
  2. ツイッター論客の◯◯さんが、自身のツイッターで「〇〇は◯◯だ!」と、自説を開陳したよ。という、これまた個人のツイッター投稿をそのままコピペしただけのRT拡散記事

 といったあたりが、ご覧の通り、この春以来、大量出稿されているゴミ記事の実相だ。
 品質は、はっきり申し上げて「素人のブログ以下」だ。

 じっさい、ちょっと気のきいたブロガーなら、同じテレビ番組の感想を書き起こすにしても、もう少しうがった文章を書く。というよりも、個人名で発信するブログの世界では、こんな恥ずかしいレベルのエントリーは、無料執筆者のプライドからして自分でボツにする。
 こんな恥ずかしい文章は、カネになるのならまだしも、とてもではないが、タダではヒトサマに読ませるわけにはいかない。当たり前だ。それが文章を書く人間の最低限の矜持というものだ。

 さて、この種のコピペ書き起こし記事のネタ元になる「芸人」や「論客」には、結果として、ある「偏向」が介在する。

 どういうことなのかというと、以下の特徴を備えた人物の発言が、記事になりやすいということだ。

  1. ネット内に信奉者の多いお笑い芸人
  2. これまでに多数の炎上歴を持っている揮発性の高いツイッター論客

 具体的な名前を挙げるのなら、松本人志氏、ほんこん氏、つるの剛士氏、百田尚樹氏、高須克弥氏、橋下徹氏、吉村洋文大阪府知事、東国原英夫氏といったあたりの面々になる。

 こういう人たちの言葉を顔写真付きの記事にしてウェブ上にアップすると、一定数のページビューが見込めるわけだ。

 「信者」と呼ばれる人々は、言説の内容にではなく、発言者の「顔」や「名前」に惹かれて群れ集まる性質を備えている。
 ということは、その種の「信者」をかかえている以上、特定の「偏向」なり「教祖的熱狂」なりに殉じている人物だということでもある。

 実のところ、スポーツ各紙が、これらのタレント論客の発言を無批判に拡散する記事を定期的に配信しはじめたのは、昨日今日の話ではない。

 ツイッターならびにテレビ番組コピペ記事は、もう10年以上も前から続いているスポーツ紙編集部の収益源のひとつだった。というのも、駅売りと宅配の部数が長期低落傾向で推移する中、広告収入の点でも型通りの低迷を続けているスポーツ紙にとって、ウェブ版の記事を通じてのアフィリエイト広告収入と、他の媒体(ヤフーニュースやスマートニュースのような、ニュースアプリやキュレーションメディア)への記事の転載によってもたらされる掲載料は、バカにならない現金収入であるはずだからだ。

 そんなわけで、スポーツ各紙は、目先の収入のために、本来の記事制作とは別のルートと人員(←この部分はオダジマの臆測です)で、ウェブ用の記事を粗製乱造してきたわけなのだが、このたび、いきなりのコロナ禍に直面して、本来の紙面作成ならびに取材記事執筆ができなくなってみると、副業のクリック収入稼ぎであったコピペ記事作りが、メインになってしまったというわけだ。

 さてしかし、スポーツ新聞は、その一方で、たくさんの優れた記者をかかえている媒体でもある。
 私がいたましく思っているのは、実は、ここのところだ。

 紙面を見る限り、記事が劣化していること自体は否定しようのない事実なのだが、では、あの記事を作っている人たちがどうにもならないバカ揃いなのかというと、決してそんなことはないわけで、だからこそ、この話はどうにもいたたまれない悲しい話なのである。

 大学に入学した時点では、私は、スポーツ新聞社を第一番の就職先として望んでいる学生だった。
 しかし、4年生になってみると、その気持ちは萎えていた。
 というのも、私は、マスコミ志望の学生が積み重ねているタイプの準備を完全に怠っていたからだ。卒業時の成績も最低だった。で、倍率の高さと試験の難しさにひるんで、面接にすら行かなかったカタチだ。
 私は、自分をあきらめたわけだ。

 言っておきたいのは、オダジマが就職活動をしていた1980年代のはじめの時点では、スポーツ新聞社は、学生にとってそれほど困難な就職先でもあれば、憧れの職場でもあったということだ。

 その、少なくとも1990年代までは、第一級の憧れの職業であった、スポーツ紙の記者がこんな仕事をせねばならなくなっている。
 ここのところが、この話の泣けるポイントだ。

 以下にご紹介するのは、いくつかの場所で話したことがあって、そのたびに、聴き手の皆さんに微妙にいやな顔をされる話なのだが、こういう機会なので、読者の皆さんにシェアしておくことにする。いやな気持ちになるであろう人にはあらかじめ謝罪しておく。

 1980年代の半ばの3月の半ば頃、私は、とあるパソコン誌の創刊準備号の制作のために築地にある新聞社の社屋で連夜の徹夜作業に従事していた。
 深夜の編集部で、眠る前のアタマを落ち着けるべく、手近にあった冊子をパラパラとめくっていて衝撃を受けたというのがこの話の発端だ。

 私が手にしていたのは「朝日人」(←いまは名前が変わっているそうです)という名前のちょっとした電話帳(←若い人にはわかりませんね。つまり「数百ページ超、厚さ5センチ超の冊子」ということです)ほどもある、巨大な冊子だった。

 一緒に作業をしていた社員の記者さんによると、その冊子は、海外も含めて何十とあるその新聞社の支局に勤務する記者たちが寄稿している「社内誌」だった。

 「えっ? ってことは、これ、社内の人間しか読まないんですか?」
 「そうだよ」
 「で、社内の人間だけが書いてるわけですか?」
 「うん。クローズド・サーキットだよね」
 「で、この厚さなんですか?」
 「うん。自分の足を食べてるタコみたいな話だろ?」
 「……これ、べらぼうな本ですね」
 「べらぼうだよね。いろんな意味で」

 などと無駄話をしつつも、私は、そこに寄稿されている記事の多彩さと完成度に心を打たれていた。軽めの評論や、身辺雑記や、エッセー、書評や時事コラム、取材こぼれ話や、地域紹介の雑文などなど、どれをとっても整然としていて、当たり前の話だが、文章がきちんとしている。

 「なんという才能の浪費だろうか」
 と、正直、そう思った。

 この会社には、これだけの文章を書ける人間が何千人も働いている。で、新聞を発行する会社としては、それらの、それぞれに筆力を備えた記者たちに、一人アタマ数行分の執筆スペースしか与えていない。ということは、この会社は、毎年何十人もの選りすぐりの文章家を選抜して、雇用し、その彼らを一定のメソッドに従って訓練し、育成しながら、結果としては、書く場所も与えずに飼い殺しにしているわけだ。

 だからこそ、外部の人間に販売するわけでもない、社内誌にこれほどの水準の文章が満載されている。
 なるほど。

 「朝日人」は私にとっては、ちょっとした発見だった。ざっと読んでみて、あらためて身の引き締まる思いを味わった。

 というのも、これは、逆に考えれば、この新聞社みたいな会社が、毎年何十人もの筆力を備えた人間を飼い殺しにしてくれているからこそ、私のような人間にも出番が回ってくるというお話にほかならなかったからだ。

 スポーツ新聞の記者の中にも、素晴らしい文章家がたくさんいる。
 私は、さる週刊誌で、スポーツ関連書籍の書評をなんだかんだで10年以上担当しているのだが、その書評欄のために私がこれまでに読んだ何百冊かのスポーツ関連書籍の著者にも、スポーツ新聞の記者出身の書き手はたくさんいる。そして、元スポーツ新聞記者には、名文家が少なからず含まれているのである。

 ちょっと残念なのは、現役のスポーツ記者が自分の職場であるスポーツ新聞本紙に書く記事は、必ずしも名文ではないということだ。
 というよりも、新聞の記事というのは、その本旨からして、「名文」であってはいけないことになっている。というのも、記事は、余韻や感動よりは、情報の正確さを第一とすべき文章で、その意味で、情緒纏綿であるよりは無味乾燥であるはずのものだからだ。

 最後に、最近いくつか読んだスポーツ新聞の記者さんの文章の中から特に気に入ったものをひとつご紹介しておく。

 ついでに、この記事を紹介する目的で書いた自分のツイートも引用しておく。

 《スポーツ紙は、競技の休止で紙面づくりに困っているのなら、ツイッター発のコピペに頼ってばかりいないで、こういう現場の記者の取材ウラ話みたいなテキストに紙面を割いたらどうだろうか。記者さんたちはきっといい話をいっぱい持っている。こういう時こそそういう記事を読みたい。》

 現場で取材している記者は、いい話をたくさん蓄えているし、それらを文章化する表現力も十分に持っている。

 インターネットの時代になって、新聞の紙面では、必ずしも持ち前の文章力を発揮する機会に恵まれていない記者たちが、思う存分にペンを振るえる場所が少しずつ整ってきている。

 個人的には、文章の世界には、凡庸で直截で平明で飾り気のない無味乾燥な記事文体の文章を山ほど書いた人間にだけ身につく文章力というものが存在する気がしている。なんというのか、素振りを1万回繰り返した人間にだけ身につく本物の実践的なスイングみたいな、ことです。

 私の場合は、手遅れだと思っている。長い間好き勝手に来たタマを打ちすぎたので。

 この先、スポーツ新聞が生き残るのは難しいと思うのだが、記者の皆さんには、それぞれ、ふさわしい活躍の場が与えられることを祈っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?

現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!


ア・ピース・オブ・警句<br>5年間の「空気の研究」 2015-2019
ア・ピース・オブ・警句
5年間の「空気の研究」 2015-2019

 同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。

 私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。

 それが日本の私たちの、この5年間だった。
 まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。

 別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。

 ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)

 人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。

 3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されました。

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