
ミュージシャンで俳優のピエール瀧さんがコカインを使用したとして逮捕された。
逮捕されたということは、ここから先は、「ピエール瀧こと瀧正則容疑者(51)=東京都世田谷区」といったあたりの主語を使って原稿を書き進めるべきなのだろうか。
なんということだ。
最初の、主語の選び方の時点で気持が萎えはじめている。
個人的に、平成の30年間は、この種の事件に関連する原稿を書くに当たって、メディア横断的な横並び圧力が強まり続けてきた30年だったと感じている。特に、犯罪に関わった人間を扱う際の主語や敬称の使用法がやたらと面倒くさくなった。
なんというのか、
「主語の運用において、礼法に則った書き方を採用していない書き手は信用に値しません」
みたいな、七面倒臭いマナーが、業界標準として定着してしまった感じを抱いている。
「ハンコを押す時には、相手の名前に向かって軽く頭を下げる角度で押印するのがビジネスマナーの基本です」
みたいな、どこのマナー講師が発明したのかよくわからない原則が、いつの間にかオフィスの定番マナーになりおおせているのと同じく、記事の書き方に関しても、この半世紀の間に、不可解な決まりごとが増えているということだ。
私がライターとして雑誌に文章を書き始めた1980年代当時は、タレント、政治家、一般人、容疑者、肉親、友人、被告、受刑者などなど、どんな立場のどんな人物についてであれ、あらかじめ定型的な表記法が定められていたりはしなかった。私自身、その時々の気分次第で、犯人と名指しされている人間を「さん」付けで呼ぶケースもあれば、政治家を呼び捨てにした主語で原稿を書くこともあった。それで誰に文句を言われたこともない。
というよりも名乗る時の主語が、「私」だったり「おいら」だったりするのが、本人の勝手であるのと同様の理路において、文章の中に登場する人物のうちの誰に「さん」を付けて、誰を呼び捨てにするのかは、書き手の裁量に委ねられていた。別の言い方をするのなら、敬語敬称の運用法も含めて、すべては個人の「文体」とみなされていたということでもある。
それが、ある時期から新聞記事の中で
「○○容疑者」
「○○被告」
「○○受刑者」
という書き方が作法として定着し、さらに
「○○司会者」
「○○メンバー」
といった、一見ニュートラルに見える肩書無効化のための呼称までもが発明されるに及んで、文章の中に登場する人物への呼びかけ方は、独自の意味を獲得するに至った。
つまり、
「誰をさん付けで呼び、誰を呼び捨てにするのかによって、書き手のスタンスや立場が計測されるようになった」
ということだ。
これは、著しく窮屈なことでもあれば、一面理不尽なことでもある。
というのも、書き手から見た文章中の登場人物への距離なり感情なりを示す手がかりである「呼びかけ方」は、必ずしも世間におけるその人物の序列や評価と一致しているわけではないからだ。ついでに申せば、犯罪者への共感であれ、国民的英雄への反感であれ、ひとつの完結した文章の中で表現されることは、本来、書き手の自由意志に委ねられている。
早い話、どれほどトチ狂った言動を繰り返しているのだとしても、私にとってルー・リード先生はルー・リード先生だし、世間がどんなに尊敬しているのだとしても、大嫌いな○○を「さん」付けで呼ぶのはまっぴらごめんだということだ。
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