東京・天王洲にあるJAL(日本航空)本社。会議室に通された記者はヘッドマウント型の端末を装着した。すると、何の変哲もない会議室の机の上に、最新ジェット旅客機「ボーイング787」のエンジンが“出現”した。
CG(コンピューターグラフィックス)で実物大に再現されたエンジンはリアルそのもの。目の前に浮かんでいるエンジンの後ろに回り込めばエンジンの裏側を眺めることもできるし、下からのぞき込めばエンジンの下側が見える。自分の立っている位置や視線の角度によってエンジンの見え方がスムーズに変わる。それが目の前のCGの現実感をより高めている。
別のプログラムを立ち上げると、今度は離陸直前のコックピットの中にいた。目の前の計器類はやはりCGで描かれたものだが、自分の手で動かすことができる。このプログラムはパイロットを養成するためのトレーニングツールとして開発されたもの。端末のスピーカーを通じて管制塔からの指示が音声で飛んでくるので、指示に従って計器を操作すると離陸の許可が出る。
これは米マイクロソフトのホログラフィックコンピューター「Microsoft HoloLens」(以下、ホロレンズ)だ。現状はDevelopment Edition(開発者向けセット)として米国とカナダのみで販売している。価格は3000ドル(約33万円)。高いか安いかについては後ほど詳しく触れるが、デバイスとしての完成度は高い。
ホロレンズの最大の特徴は、ヘッドマウントディスプレーのような端末を被ると目の前に3次元ホログラムが出現すること。目の前を覆っているゴーグル部分は半透明になっていて、自分が見ている現実の視界の中にCGで描いたホログラムを混在して表示できる。冒頭の例で言えば、会議室の机の上に787のエンジンが浮かんで見える。
これをMixed Reality(複合現実、MR)あるいはAugmented Reality(拡張現実、AR)と呼ぶ。映画「スターウォーズ」の第1作(エピソード4)でR2-D2がレイア姫のホログラムを映し出す有名なシーンがあるが、ホロレンズを使えば同じような体験ができる。
MRやARも最近何かと注目されているVirtual Reality(仮想現実、VR)の一種だ。ただ、ホロレンズは現実の視界の中に必要な情報を「追加」することを主眼に開発されている。その点が、他のVR端末との大きな違いだ。
胸に伸びてきた手を振りはらうこともできない
「VR元年」とも言われる2016年は、様々な企業がVR端末を発表もしくは発売している。新しいテクノロジーに目がない記者は取材活動と称して、いくつかの端末を体験してきた。
どれも感動するほどリアルだった。例えば、ダイバーになるVRゲームでは、目の前で悠然と泳ぐクジラの巨大さを間近に感じることができた。何しろ首を左右に大きく振らなければ、クジラの全体像がつかめない。こうした実世界に近い動作が伴うことで、脳がVRをよりリアルに感じるのだろう。CGの解像度はそれほど高くなかったのだが、お金を払ってでもまたやりたいと思うほど興奮した。
ただ、帰りの電車の中で冷静になってみると、別の考えも浮かんでくる。現状ではVRを利用できるシーンは非常に限られたものにならざるを得ない、というのがいくつかの端末に触れた私の実感だ。
なぜなら仮想現実の世界に入り込むためには、スキーのゴーグルよりもかなり大きな端末で両目を覆う必要があるからだ(上のプレイステーションVRのヘッドセットを参考にしてください)。つまり視覚をほぼ完全にコンピューターに委ねなければならない。さらに臨場感を高めるためには、両耳にヘッドフォンを付けることになる。身の回りの危険を察知する上で視覚や聴覚が果たす役割は大きいのは言うまでもない。その両方を失うリスクは余りに大きい。
要するに、VR端末を付けている間は胸ポケットに伸びてきた手を振りはらうこともできない。だから電車の中でVR端末を装着するなんてことは、周囲から白い目で見られるだけでなく、安全上も極めて難しい。女性なら「あり得ない」と感じるに決まっている。
必然的に、VR端末は身の安全が保証された場所でしか使えないだろう。これはVRサービスを提供する企業の足かせとなるものだ。
例えば、VRの活用として、映画はいの一番に挙がるものだ。VRならば、3D映画よりもはるかに臨場感の高い映像体験を提供できる。作り手としては新しい表現手法を手に入れることになるし、配給会社からすれば客単価を引き上げられるとソロバンを弾いているだろう。
しかし、観客の安全を保証する仕組みを導入しなければ、VR映画を普及させることなんてできない。映画というビジネスは、治安が比較的に良い日本市場だけで元が取れるわけではない。そもそもVR映画は、巨大なスクリーンを皆で見ることも前提としていない。もしかしたら映画館というフォーマットそのものを不要とするかもしれない。
ゲーム業界でもVRに熱い期待を寄せているが、供給者側の論理だけではVRゲームを普及させることは難しいはずだ。
ホロレンズの普及へ用意周到なマイクロソフト
普及という観点でみれば、マイクロソフトのホロレンズは非常によく考えて開発が進められていると感じる。要点を以下に3つ挙げる。
1つ目はワイヤレスで使えるということ。
他社が提供するVR端末はモニターとしての機能だけであり、画像を処理するコンピューター本体と太いケーブルでつなぐ必要がある。場合によって電源コードや手に持つコントローラーのケーブルも有線でつながっている。視界がないことに加え、複数のケーブルがつながった状態を煩わしいと感じるプレイヤーは多いはずだ。
その点、ホロレンズは単独で1台のコンピューターシステムとして完結している。半透明のゴーグルがモニターの役目をしていて、ヘッドセット部分にスピーカー、バッテリー、CPUなどが内蔵されている。重さは600グラム弱で、フル充電すれば1時間程度はケーブルをつなぐことなく使用できる。記者も装着してみたが、この程度の重さであれば違和感なく使用できると感じた。
マイクロソフトは世界最大級のソフトウエア企業であるが、ハードメーカーとしても実力は高い。「ウィンドウズ」ベースのタブレットとしては同社の「Surface(サーフェス)」が一番の売れ筋であるし、マイクロソフト製のキーボードやマウスを愛用している人も多いだろう。ウインドウズを使っていた時代の記者もその1人だった。
2つ目は、ホロレンズが「ウィンドウズ10」の上で動くこと。
ウインドウズは世界で最も普及したOS(基本ソフト)である。そのためウインドウズ向けの様々なソフトやアプリケーションを、ホロレンズ上で動かすことができる。
例えば、自動車の修理工場で作業員がホロレンズを装着しているとする。作業マニュアルが視界の中に半透明上に表示されているので、それを見ながら作業を進めることができる。ホロレンズには様々なセンサーが内蔵されていて、使用者がどこを見ているのかが分かる。高温で危険なエンジンパーツには触れないようにアラートを出すことだって簡単だ。
使用者の視界をシステム上に記録することもできる。そのため手抜き作業を抑制する効果も持つだろう(余り使って欲しいとは思わないが…)。
3つ目は、開発の初期段階からパートナー企業とタッグを組んでいること。
マイクソロソフトは2015年4月、開発者向け会議「Build」で初めてホロレンズを発表した。その際、世界中から共同開発するビジネスパートナーを募った。この新しいテクノロジーを普及させるためには、外部の知恵を活用するのが一番適切だと考えたからだ。流行りのキーワードを使えば、オープンイノベーションで事業開発を進めている。
フライトシミュレーターより安く、効率的
その共同開発プロジェクトに手を挙げた1社がJALだった。ホロレンズを使ってどんなことができるか、当初は見当もつかなかったという。そこで社内の複数の部署が参加して議論した結果、運航・整備・貨物などから30近いアイディアが寄せられた。
最終的に開発したのが、冒頭に紹介した2つのプログラムだ。JALでHoloLensプロジェクトリーダーを務める速水孝治氏は「JALにとって重要性の高いものが選ばれた」と語る。
例えば、パイロットの養成プログラム。LCC(格安航空会社)の台頭で、航空業界ではパイロット人材の奪い合いになっていることは周知の通りだ。そもそも高度な専門職であるパイロットの養成には時間がかかるもの。パイロットはコックピットのどの位置に、どんな計器が並んでいるかを頭に記憶するだけでなく、体に染み込ませておく必要があるという。1台数億円以上もするフライトシミュレーターを全員が好きな時間なだけ使えるわけではない。そのため従来は、模造紙に書いた疑似コックピットを使って訓練することもあったそうだ。
ホロレンズを使えば、現実に近い訓練ができるだろう。目の前にホログラムとして浮かび上がっているのは、訓練で最もよく使われるボーイング737-800型機のコックピットだ。訓練生はその仮想空間の中で、どこまで手を伸ばせば必要なスイッチに届くのかも体に覚え込ませることもできる。ホロレンズには複数のデジタルカメラが内蔵されていて、装着者の手がヴァーチャルコックピットの中でどの位置まで伸びているかもリアルタイムに再現している。
787のエンジンも整備士の訓練用ツールとして開発された。整備士と言えど、ジェット機のエンジンの内部を見る機会は限られている。旅客機は空を飛んでいる間に利益を生み出すものなので、地上にいる時間をなるべく減らすように運航スケジュールが組まれている。その限られた駐機中に、訓練生が実際のエンジンを見る機会は多くない。
ホロレンズを使えば、どこにいてもエンジンの構造や部品名称を学習できるので、整備士の訓練は大きく効率化できるはずだ。
もう1つのポイントは「ベテラン整備士の経験を記録できることにある」と澤雄介氏(HoloLensプロジェクトマネージャー)は語る。ホログラムは装着者の目線を記録できる(マウスでカーソルを動かすように、視点の中心に浮かんでいるポインターを首の動きで自由に動かせる)。ベテラン整備士がホロレンズを使えば、エンジンを目の前にしてどこを見て作業しているのか。その視線の動きを記録できる。
VRは企業の生産性を大きく改善できる
いかがだろうか。パイロットと整備士という航空会社にはなくてはならない人材の育成にホロレンズが大きく貢献できると言えるのではないか。少なくとも記者はそう感じた。1台3000ドル(約33万円)という価格は決して安くはないが、企業における人材育成という観点で見れば別の解釈も成り立つ。開発が進んで単価も下がれば、導入しようと考える企業は増えていくだろう。
米マイクロソフトのゼネラルマネージャー(Microsoft HoloLens担当)を務めるスコットエリクソン氏は「マイクロソフトは企業の業務効率を高めるサポートをしてきた。ホロレンズもその延長線上にある」と語った。
なるほど。マイクロソフトのエクセルやワードなどは、たしかに企業で働く人の作業効率を飛躍的に高めてきた。ただ、オフィス系のソフトはもはや、新たな開発余地が限られているように感じる。その点、VRという新しいテクノロジーは企業の生産性を大きく改善できる要素が盛りだくさんだ。
最後に提言を少々。ホロレンズを最初に見た時、私には自転車に乗っている中年女性が着けているサンバイザーに見えた(知らない人は「UVカットサンバイザー」で検索してみてください。紫外線からお肌を守るために半透明のツバが顔全体を覆っているアレです)。
ホロレンズのサイトを見ると、ものすごいスピードで端末の改良が進んできたことがよく分かる。数年もすれば、少し大きめのサングラスのようなスマートなデバイスに仕上がっていると期待したい。メガネのツルの部分から骨伝導で音が伝われば、なお素晴らしいと思う。
とにかく、今は“おばちゃんサンバイザー”のようなホロレンズにVRの未来を見た。エンタメ分野も面白いと思うけど、企業の生産性を向上させるテクノロジーとして、今後もVRの取材を続けていく所存だ。面白い情報をお持ちの方、ぜひ編集部までお寄せください。お待ちしております。
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。