
NHKがツイッターで自分の局の関連アカウント以外のフォローを外すことを発表した。
NHKのサイト上では、4月18日現在で、合計135のアカウントを「公式アカウント」として紹介している。今後は、その135の関連アカウント以外はフォローしないというのだ。
フォローを外す理由について、NHKは
「かつては私たちも、フォローをツイッター上の慣習と考え、フォローしていただいた方に対して積極的にフォローを返していました。しかし、ツイッター上でさまざまな意見や主張が交わされる中で、NHK公式アカウントがNHK以外のアカウントをフォローすることは、そのアカウントの意見に対する支持・賛同ではないか、というご批判をいただくこともございました。ツイッターのフォローは互いのゆるやかなつながりを示すものだ、という意見があることも承知していますが、検討を重ねた結果、私どもとしては、NHKアカウントによる他アカウントへのフォローをすべて解除させていただく選択に至りました」
という言葉で説明している(こちら)。
なんという苦情耐性の低さだろうか。
昭和の学園ドラマに出てくるビビリ屋の教頭先生だって、もう少し根性があったと思う。
個人的には、
「『みなさまのNHK』による『恣意的』なフォローは、それが支持・賛同と受けとられかねない意味で、公共放送が守るべき公正・公平の原則に反するのではないか」
みたいな言いがかりは、粛々と無視黙殺閑却ネグレクトすれば良いと思う。
答えるにしても、さくっと
「情報収集の一環です」
ぐらいに言っておけば十分だ。その答えに納得しないクレーマーは永遠に放置しておけば良い。それだけの話ではないか。
どうしてこの程度の対応ができないのだろうか。
NHKが取材する現場もあれば、NHKが取材しない現場もある。
NHKが紹介する観光地もあれば、NHKが紹介しない観光地もある。
NHKが取材費で購入する書籍もあれば、NHKが取材費で購入しない書籍もある。
NHKが出演依頼する文化人もいれば、NHKに出演依頼してもらえない文化人もいる。
フォローも同じことだ。
取材先なりニュース項目なりの選び方に人間の恣意が介在するのは当然の前提だ。
あまり有名でない観光地の住民が、
「どうしてNHKは、京都や熊野路ばかり取材して、自分たちの町に来てくれないのか」
と思う気持ちは、心情としてはわからないでもない。
が、編集権というのはもともとそうしたものだ。
逆に言えば、「何を取材し何を取材しないのか」「何を報道し何を報道しないのか」という判断にこそ報道の本質は存在するわけで、そこのところの判断を外部の機関なり人間に制圧されたら報道機関は、ただの広報機関に成り下がってしまうということだ。
このたび、NHKが、ツイッターアカウントのフォローについて、自分たちの選択権を放棄したことは、報道機関がおのずからその手の内に保持している編集権の一部を返上したと言ってもよい決断で、その意味では、苦情耐性の有無や強弱を言う以前に、報道にたずさわる者としての覚悟を疑わなければならない出来事と言える。あまりにもばかげている。
こういうことが起こってしまってみると、「みなさまのNHK」という構え方自体が、そもそも報道責任を国民全員に転嫁して希釈する土下座設定だったのではなかろうかと思えてくる。
さて、NHKがこのたび明らかにした意気地の無さは、一方において「みなさまの」という接頭辞を掲げている公共的な組織に寄せられる苦情メールや非難ツイートの圧力が、いかに巨大であるのかを物語ってもいる。
実際、私のような一介のコラムニストの捨て台詞の集積場であるに過ぎないツイッターアカウントにも、けっこうバカにならない数の苦情がやってくる。
いつだったか、サッカーのスタジアムで起こった外国人差別を憂慮するツイートを書き込んだ時には、
「一方的に日本人ばかり責めて、○国人による日本人差別を糾弾しないのはダブスタだ」
という主旨のリプライが、それこそ山ほど寄せられたものだった。
「日本人による○国人差別ばかりを問題にして、○国人による日本人差別に目を伏せているのは、おまえが○国からカネを貰っているからなのか?」
「なるほど。あなたの血統がわかりましたよ」
「要するに日本を貶めればそれで満足なのですよね?」
苦情を寄せた人々の言い分に従うなら、A国人によるB国人への差別や、C人種によるD人種への差別や、その他世界中に遍在するあらゆるタイプの差別のすべてを漏れ無く糾弾している人間以外は、特定のスタジアムで起こった個別の差別事案に言及できないということになってしまう。
なんと馬鹿げた設定ではないか。
スタジアムの話は、あくまでも一例だ。
私のような、なんら公共的でもなければみなさまの放送料金で生計を立てているわけでもない個人アカウントのもとに
「アレを言うのにコレを言わないのはなぜだ」
「A党議員の政治資金疑惑を揶揄していながら、B党議員の政治資金疑惑に触れないのは卑怯だ」
という問いかけが、毎度飽きもせずに寄せられることを思えば、NHKの公式アカウントに、
「○○を取り上げたのに××を取り上げないのはなぜですか」
「△をフォローしているのに□をフォローしてないのはどうしてですか?」
「XXXのような反社会的なアカウントをフォローしている意図を教えてください」
「YYYが、xCIAのなりすましアカウントであることを本当に知らないのですか?」
といった感じのおよそめんどうくさい問い合わせが殺到していたのであろうことは、想像に難くない。
昔読んだ、『キャッチ=22』という小説に、「どこに居なかったのか」を問われる被告の話が出て来たのを思い出す。
被告は、犯行が行われた日時に、自分が「いなかった場所」のすべてを列挙しなければならない。
また彼は、その時、自分が「何を言わなかったのか」を問われる。
「私は、○○と言いました」
「当法廷は、被告が何を言ったのかを尋ねているのではない。何を言わなかったのかを問うている」
「○○という言葉以外のすべてです」
「当法定は論理の遊びを求めているのではない。言わなかった言葉をすべて列挙しなさい。そうでないと被告の無罪は認められない」
と、話はおよそそんなふうに進むのだが、ネット内で頻発される
「○○を言っていながら、××に言及しないのはなぜだ」
というタイプの問い詰め方は、この『キャッチ22』の中のエピソードと、構造としてとてもよく似ている。
なんというのか、
「○○を問題にする人間が、××を問題にしないのはダブスタだ」
という形式の決めつけは、その前提の部分に背理を含んでいるということだ。
熊本で大きな地震が起こって、ネットの空気はいつにも増してギスギスしたものになっている。
被災地を応援するメッセージを送った芸能人が、そのメッセージに満面笑みの自撮り写真を添えたことを非難(「自分に酔っている」「自己アピールに震災を利用するな」「笑ってる場合か」ということらしい)されて、謝罪に追い込まれたり、実家が全壊した芸能人が、避難の苦労を訴えるツイートを繰り返すと、その言い方に対して「被災したのはおまえだけじゃない」「自己判断で自分勝手な避難をしていないでさっさと避難所に行け」という糾弾の声が殺到して、最終的にネットでの発信を断念する決断を下したりというお話が聞こえてくる。
元フィギュアスケートの選手も、恋人の誕生日を祝うツーショット写真をアップしただけのことで、「空気読め」「自分だけ楽しければ良いのか」と、さんざんな批判を浴びている。
私のところにも、地震に関連してかなりの数の罵倒ツイートが来ている。
発端は
という二つのツイートを配信したことだった。
すると、ほどなく、
「被災者には電気は要らないというのか」
「自分の政治的思惑を実現するために、九州の人間に電気無しの生活を強いるのか」
という感じの反論が集まってきた。
詳しくは、ツイッターの「高度な検索」で、@tako_ashi宛ての返信のうちの4月16日から19日までぐらいのものを検索すれば、おおかたの雰囲気はつかめると思う。回線の状態や、公式クライアントの調子次第で、すべてが表示されるまでにえらく時間がかかったり、結果が満足に表示されなかったりするのだが、大筋の空気だけは感じ取れるはずだ(こちら)。
元ツイートを読んでもらえば分かる通り、私は、川内原発の停止を強い調子で主張したわけではない。
一番目のツイートで、例としての最後の部分にうどん屋と焼肉屋を挙げて、語尾に「皆さん」という演説口調を感じさせる単語を配したのは、マジな糾弾のニュアンスを薄める意図だったのだが、この部分はスベった悪ふざけみたいになっている。つまらなかったし、逆効果だった。うん、反省している。
二番目のツイートには、事実誤認があった。
つまり、私は、人為的に停止するまでは、原子炉が動き続けるものと思い込んでこのツイートを書き込んだのである。
と、専門家から指摘があって、川内原発には、一定の重力加速度を感知すると自動停止するシステムがあらかじめ組み込まれていることがわかった。
で、私は、
と、自分に新しい知識をもたらしてくれた旨、きく☆まこ。先生に感謝の意を述べている。
私自身の立場は、この時点からあまり変わっていない。
私は、現在もツイートした当時も、原発の停止について、明確な主張を持っているわけではない。
停止にも運転することにもそれぞれのリスクとメリットがあって、それを慎重に勘案しないと結論は出ないとは思っている。
が、私個人として、今回の川内原発の運転/停止について、自分が、単独で判断できるほどの知識や能力を持っていないというふうに感じている。
ただ、運転するにしても、停止するにしても、十分な議論と説明が為されるべきだと考えている。
私のところに寄せられたリプライの多くは、単なる罵倒に終始している。
「素人は黙ってろ」
「こんなに低能だとは思っていなかった」
「あきれたじじいだ」
「九州がブラックアウトするが、それでも良いのか」
これでは話にならない。
議論が分かれているのは、主に
1.原発を停めることで、被災地が電力不足で苦しむことになるのか否か
2.原発を停めることで、放射能漏れやメルトダウンのリスクが回避できるのか
の二点だ。
1.については
a.つい半年前まで動いていなかった原発を、余震がおさまるまでの間、ひと月かふた月止めたところで、ただちに深刻な電力不足が起きるとは思えない。
b.何を言っているのだ。地震の影響で火力発電所がダメージを受けているし、送電網においても熊本は孤立している。この上原発が停まったら、被災地はピンチだ。
2.については
a.停止すればただちにリスクが回避できるわけでもないし、すべてのリスクが消失するわけでもない。が、停止して炉心温度が下がっていれば、たとえ深刻な地震に見舞われても対処はずっと楽になる。
b.停止するのにも再開するのにも一定のリスクがある。しかも、原発には燃料があり、炉心はすぐには冷えない。だから、リスクは停止したところでたいして変わらない。
という二つの異なった立場からの指摘がある。
どっちが真実でいずれが間違っているのかは、現段階での私の知識と観察範囲からは、断定できない。
ただ、現時点でわかるのは、双方の議論が、そんなにかけ離れたものではないということだ。
「停止と運転なんだから、正反対じゃないか」
と言うかもしれないが、結論は、正反対でも、そこに至る過程で検討される条件は、そんなにかけ離れていない。すなわち、双方の結論のメリットとデメリットをすべて検討した上で、ものを考える時、両者は、同じポイントで同じことを考えているはずだ、ということだ。
違うのは、最後の最後で、メリットとデメリットを天秤にかける時の、天秤の傾きの行方だけで、その傾きだって、そんなに大きな角度ではないかもしれない。
停めるには停めるメリットとデメリットがあるし、運転し続けるには運転し続けることに伴うリスクとメリットがある。
要は、どっちのメリットとリスクを重く見るかという評価の問題で、そこのところは、政治の問題ともかかわっている。
だからこそ3番目の、
3.震災を政治的に利用するな
という批判が出てくる。
もしかしたら、私を罵倒して行く人が最も強く訴えたいのは、この点なのかもしれない。
彼らは、オダジマが、政治的な意図から、とにかく原発憎しの結論をあらかじめ奉じていて、そのために原発を停めるための理屈をひねり出して強弁してくどくど訴えているように見えている。で、その、政治的な振る舞い方の政治っぽさが政治的に許せないから、罵倒している。そういうことだ。
もとより、私には、震災を政治的に利用するつもりはない。
そうする理由もない。
ただ、一言言っておかなければならないのは、このたびの地震のような国家的な災害は、誰がどう関わるにしても、政治的な対象として関与するほかにどうしようもない事件だということだ。
災害に政治的な態度で取り組むことは、不潔なことではない。
むしろ、そうあってしかるべき、当然の帰結だと言って良い。
現政権には現政権の立場があり、それに対抗する勢力には彼らの思惑がある。その、双方ともに政治的な手段を通じて自分たちの理想を実現しようとしている政党なり政治集団が、今回の地震のような社会的な一大事を、政治的に利用するのは、極めて当然のなりゆきだ。
あるいは、「利用する」という言い方に反発をおぼえるムキもあるかもしれないが、この度の地震のような天災の機会を通じて、それぞれの政治勢力が、被災者なり彼らを心配する一般国民なりに訴える政治的パフォーマンスの巧拙を競うことそのものは、決して有害なできごとではない。
とすれば、一方が原発の運転の続行による電力の安定供給をアピールし、対抗する側が、安全と安心のために原発の一時停止を訴えることは、民主政治が機能している国での健康ななりゆきと考えて差し支えない。
この長い、少々まとまりを欠いた原稿を通じて、私が何を言いたかったのかというと、大きな災害に見舞われたり、国家総動員的なプロジェクトが動き出したりした時に、「異論」を排除しにかかる圧力が生じがちなわが国のネット社会の動き方に、私が、大きな懸念を抱いているということだ。
お国の何かが危機に瀕していたり、未曾有の大災害に直面している時の心がまえとしては、二つの態度が考えられる。
ひとつは、非常時であることをわきまえて、国民の一人ひとりが私心を捨てて一致団結してコトに当たるという処方箋だ。
もうひとつは、非常時だからこそ、発言することのリスクを恐れずに、活発な議論を展開する態度だ。
私は、個人的に、2番めの対処を心がけておいた方が、うちの国の国民が陥りがちな視野狭窄を回避する上で好ましいと考えている。
その意味で、NHKのような組織が、安易にクレーマーに屈したことにがっかりしている。
大地震以来、芸能人の「売名」を指弾し、慈善を訴える者の「自己陶酔」を揶揄し、笑顔を見せる人間の「不謹慎」を咎めているネット上の自警団じみた人たちは、原発のような論題に関しても、議論を挑むよりは、異論を排除する構えでコトに当たっている。
私のツイッターアカウントに異論を寄せた人たちを見回してみても、「論」として、自分の主張なり考えを語ろうとする人たちよりは、ただただ罵倒して行く人々の方が数として多数派だった。
残念なことだ。
戦前の隣組は、地域社会の狭苦しさに基礎を置いた相互監視システムだった。
現在のネット隣組は、インターネット空間の広大さと自由さの結果としてわれわれの前にあるわけだが、その「自由さ」と「広大さ」は、もっぱら特定の個人をあげつらって排除する人間たちの側にだけ供与される仕様になっている。
ということはつまり、いつの間にやら、われわれは全国規模の隣組の一員になってしまっているわけだ。
汝の隣人を愛せよ、と言った人がいるのだそうだが、砂漠の国の隣人とはちょっと条件が違うと思う。
ところで、来週と再来週は本欄はお休みになります。
3週間後に、この国が素敵な国にうまれかわっていますように。
私が素敵な人間に生まれ変われば良いのかもしれませんが、それは無理です。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
それ以上でもそれ以下でもない、と思います。

当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
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