3月の31日、日本が南極海で実施している調査捕鯨が違法かどうかを日豪が争っていた裁判で、国際司法裁判所(ICJ)が、日本側完敗の判決を言い渡した(こちら)。
判決を受けて、関係各方面には、静かな衝撃が広がっているという。
なるほど。
来るべきものが来た感じだ。
今回はクジラの話をしようと思っている。
クジラの話題は、必ず荒れる。
だから、この問題に触れる時には、論点を整理して、荒れる部分と荒れない部分をきちんと切り分けたうえで、感情論に流されない冷静なディスカッションを心がけるべきだ――といったあたりの心構えが、良い子の前提ではあるのだろう。
が、建前は建前として、クジラの話を「感情論」抜きで話すのは、簡単なことではない。ほとんど不可能と言っても良い。
というのも、捕鯨問題の核心である「食文化」や「宗教的伝統」は、そもそも、感情の分野の話題だからだ。これらのポイントを捨象したうえでクジラの話をしても、そんな論争にたいした意味はない。
つまり、クジラに関する話題を、「感情に流されない」で論じることは、前提からして無理があるわけで、言ってみれば、水に濡れないで泳ぐに等しい。
もっとも、コラムニストは、時々それをせねばならない。そして、空中水泳は、見破られた時のリスクがとてつもなく大きい。
「どうしたんですか? 町中で水着なんか着て」
できれば、見て見ぬふりをしてほしい。
私とて好きで裸体を晒しているわけではない。
話を元に戻す。
クジラの問題は、元来、そのかなりの部分が感情の問題だった。ということは、「感情論」であることを攻撃したり、感情に流されていることを反省している限り、話は前に進まないのである。
前提を考え直さなければならない。
クジラは感情を含んでいる。
われわれは、クジラに対して、感情的抜きで対峙することができない。
クジラを食べたいと思うことも、かわいそうだと感じることも、伝統を守りたいと考えることも、調和を大切にしたいと心がけることも、いずれも感情を含んでいる。どの感情が劣っていてどの感情が優れているという話でもない。
ただ、感情含みの対立は、感情とは別の言葉で一旦解きほぐさないとならない。
そのためには、「感情は理性よりも劣った判断だ」式の断言に逃げこむことなく、それでもなお、なるべく互いの感情を傷つけない筋道で話をすすめなければならない。これもまた、空中水泳といえばその通りかもしれないのだが。
最初に、私の立場を明らかにしておく。
私は、様々な事象について、自分の考えをはっきりと持つことの少ない人間で、事実、多くの対立的な課題に関して、たいていの場合、あいまいな態度をとることにしている。
面倒くさいからでもあるし、よくわからないからでもある。
ただ、クジラの問題には、ずっと昔から、明確な意見を持っている。
私は、捕鯨には賛成していない。商業捕鯨にも、調査捕鯨にも反対の意見を持っている。これは、何十年も前からの変わらぬ持論だ。
理由はいくつかある。
一つ目の理由は、これは、笑われるかもしれないのだが、クジラが好きだからだ。
自分の中では、これが一番大きい。他の理由は、取ってつけたお話だと言っても良いほどだ。
私は、カラダの大きい生き物が好きだ。敬意を抱いている。だから、クジラと言わず、ゾウと言わず、ホッキョクグマも、イリエワニもアナコンダもコンドルも、とにかく巨大な肉体を持った野生動物は、決して殺してほしくないと考えている。
幼稚園に上がる前の、ほんの幼児だった時代から、私は、一貫して生き物の写真や、恐竜の図鑑や、サファリの映画の大ファンだった。だから、野生の動物を殺して食べることには、抵抗がある。かわいそうで見ていられない。
「なにを、お嬢さんみたいなことを」
と言われるのは承知の上だ。私は、この点に関しては、永遠のお嬢さんだ。
ただ、自分の考えが、感情論に過ぎないことは、よくわかっている。
「牛クンはかわいそうじゃないのか?」
「バッファローを食い尽くしたアングロサクソンの罪には目をつぶるのか」
「ウサギたんをネズミ視して駆除している豪州人を野蛮だとは思わないのか?」
といったご意見に、有効な反論を持っているわけでもない。
人は、それぞれ、自分でもうまく説明できない感情から、生命に不平等な重みを設定している。で、私の場合、クジラは、とても高い順位にいる。これ以上は説明できない。
二番目の理由は、コスト&ベネフィット的に、計算が合わないと考えるからだ。
これは、感情論ではない。だから、他人に話す時には、もっぱら、こっちの理屈を持ち出す。
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