火山や鳥インフルエンザの話は、専門家にお任せするとして、今回は、久々にサッカーの話をしたい。
 自分がサッカーの専門家だと言っているのではない。
 私はサッカーファンだ。火山マニアでも動物医療通でもないが、サッカー好きではある。だから、アジアカップ優勝みたいな話題には食いつかざるを得ない。そう思って、宮崎県の皆さんにはご容赦いただきたい。

 ザッケローニ監督率いるところの代表チームを「ザッケローニ・ジャパン」とせずに「ザック・ジャパン」としたのは、おそらく「ザッケローニ・ジャパン」と発音した場合の語呂の悪さを嫌ったからで、ほかに深い理由はないのだと思う。
 でも、悪気が無いのだとしても「ザック」という呼びかけ方は失礼だと思う。少なくともメディアの人間が代表監督に向けて使って良い呼称ではない。

 親しい友人や知人が「ザック」と呼ぶのはかまわない。
 特に親しくなくても、ザッケローニ氏が「コール・ミー・ザック」と言ったのなら、そう言われた人間は、その場に限って、彼を「ザック」と呼ぶことができる。
 ファンが親しみと敬意をこめて「ザック」と呼ぶことも、時と場合によっては許される。
 スタジアムに集まった観客が
「ウィー・ウォント・ザック」
 と、唱和することは、先例からして、失礼にはあたらない。イタリア語で「われわれはザックを支持する」をどう言うのか私は知らないが、そのフレーズをコールすることもたぶんアリだ。

 でも、スポーツ新聞がヘッドラインで「ザック」の三文字を大書することや、ニュースショーのキャスターが「ザック采配」についてあれこれ語るのは、間違いのはじまりになると思う。
 というのも、「ザック」と呼んだ瞬間に、取材者と取材対象の距離感が曖昧になり、批評する者とされる者の間の緊張感が消失してしまうからだ。
 メディアの人間は、代表チームの監督に対してきちんとした距離感を保っていなければならない。

 マスコミは前の監督の岡田さんについても「岡ちゃん」という呼び名で呼ぶことを好んだ。
 これも良くなかった。
「岡田さん」「岡田監督」「岡田氏」と、しかるべき距離(と最低限のリスペクト)をとっていなかったおかげで、「岡ちゃん」関連の記事は、どこか無責任だった。
 岡ちゃんに甘えた記事。岡ちゃんをあなどった記事。岡ちゃんをただのネタとして消費するだけの原稿。そういう駄文がいかに多かったことか。
 ザッケローニ監督に対して、同じような馴れ合いが生じる事態はぜひ防止せねばならない。

 対監督に限った話ではない。
 誰であれ、「佑ちゃん」「ダル」「愛ちゃん」「真央ちゃん」「遼クン」「ウッチー」「浅尾きゅん」「ミキティー」と、そういう距離感のデタラメな呼称を使っている限り、適正な批評を含んだ記事を書くことはできない。

 というよりも、取材対象に愛称で呼びかける形式の語法は、元来、芸能マスコミのレトリックであって、マトモなジャーナリストが採用して良いはずのものではない。

 「裕ちゃん」「ひばりちゃん」の時代から、芸能マスコミは、タレントを「ちゃん」付けで呼んできた。恋人や娘に語りかける時と同じ、下の名前だけを呼ぶ「愛称」が、彼等の呼びかけ方の基本で、「愛称」がもたらす「親しみ」と「距離の近さ」を芸能記者は何よりも珍重する。だから、タレントの側もそう呼ばれることを望む。芸能界というのはそういう場所なのだ。彼等はプライバシーを放棄しているのではない。芸能人にとっては、あらゆる場所が私的な空間なのであって、スターというのは、すべての人間との間にプライベートな関係を取り結ぶことができる存在なのだ。そうでなくても、ファンとの間にプライベートな妄想を紡ぐことが彼等の仕事ではある。

 で、最近では、香里奈、瑛太、小雪、HITOMI、遊助、杏……といった具合いに、はじめから姓を取り払った芸名を名乗るタレントが増えてきている。そう名乗れば、客が自分を恋人みたいに思ってくれる、と、そういうふうに彼等は期待している……のだろうか。
 ちなみに私はこういう苗字取っ払いタレントの名前を、どうしても単独で発音することができない。
「香里奈っていう名前のタレント」
「瑛太とか名乗ってる俳優がいるだろ?」
「ほら、あの小雪とか言うモデルさんなんだか女優なんだか」
 と、そういうふうに、ものの言い方に一定の屈折を加えてからでないと、そのタレントについて言及することができない。だって、面識もなければ肉体関係もないまったくのアカの他人について語るのに、いきなり下の名前だけの呼び方を採用するみたいなマナーは、普通の日本人の対人感覚として、どうにも面映いからだ。

 だから、スポーツマスコミが、「ザック」という愛称を芸能人でもない人間に対していきなり適用してしまっているのは、彼等が日本語を使う人間としての尋常なたしなみを失っていることのあらわれなのだというふうに私は判断する。量産型ザック。劣化版の代表監督言論。

 鉄面皮で知られる浦和レッズのサポーターでさえ、たとえば「田中達也選手」を「達也」と呼び捨てにするまでには、一定の段階を踏む。具体的には、5試合程度のスタジアム観戦が最低条件になる。その上で、少なくとも2点か3点のゴールを見届けなければいけない。でないと、「達也」と呼ぶことは許されない。
「お前、誰に断ってオレの達也を呼び捨てにしてるんだ?」
 と、先達にたしなめられる。

 もっとも
「あのグランパス戦の決勝ゴール以来、あいつはオレの達也になった」
 というオールドサポの感慨自体、身勝手な思い込みなのであろうし、それ以上に、お門違いな旦那気質であるのかもしれない。
 でも、それだっていきなり「ザック」と言っちゃうキャスターよりはずっとマシではあるのだ。

 「岡ちゃん」「ザック」「佑ちゃん」という主語を平気で使う取材者は、馴れ馴れしいかよそよそしいかのいずれかの距離しか持っていない書き手になる。まっとうな批評者としての、中間距離に立つことができない。だから、彼等の記事は、絶賛か酷評かの両極に分かれる。彼等はより唾の飛ぶ記事が、よりたくさんの客を呼べると思いこんでいる。つまり、マッチポンプだ。

 もしかすると、今、彼等がザックをもてはやしているのは、この先の転落をより劇的に演出するための準備なのかもしれない。
 外すためのハシゴは高い方が良い。これも芸能記者の文法だ。彼等は、婚約記者会見の席で、
「○○さんが浮気をしたらどうしますか?」
「離婚はしませんよね?」
 みたいな質問をあらかじめ「仕込んで」おく。
 で、万が一(むしろ「まんまと」「案の定」だが)離婚が成立した場合には、その時のVTRを何回も再生して、破局報道に花を添えるわけだ。

 サッカーにしろ野球にしろ、芸能記者の感覚で選手や監督を消費することは、ぜひいましめてほしい。
 心配なのは、ザックと佑ちゃん。長友佑都クンは大丈夫。なぜなのか佑ちゃんと呼ぶ記者がいないから。幸いにも。

 名称については以上。
 以下、ザッケローニ氏のチーム運営について、思うところを書くことにする。
 サッカーそのものの戦術や技術については、非経験者である私が何を書いたところでさしたる意味はない。だから書かない。
 といって私が「チーム」や「組織」について専門家だというわけでもない。
 「組織」とは、一貫して没交渉だった。チームスピリットやチームワークに関わった経験もない。人に使われたことも無い(あったが無能だった)し、人を使った経験もない。
 ということは、普通の日本人から比べても、組織についてはむしろ疎いのかもしれない。
 でも、常に局外者として日本の組織を傍観してきた自覚はある。そういう場所からの発言だと思って読んでほしい。ま、部下もいないわけだし。オレが何を言ったところで、誰もたいした影響を受けないわけだ。

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