バンクーバー五輪は2月の12日に開幕するのだそうだ。
 なんと、開幕まで二週間を切っている。

 全然知らなかった。なんとなくオリンピックがあるらしいぞという感じは抱いていたのだが、まさかこんなに間近に来ていたとは。
 この盛り上がりの無さは、いったいどうしたことなのであろうか。

 あるいは醒めているのは私の周辺だけで、世間は五輪景気に沸いていたりするのだろうか。
 バンクーバー特需、と?

 どうもそういう感じはしない。土日の午前中は相変わらず駅伝だらけだし。液晶テレビは売れているようだが、「さすが五輪特需だ」という話は聞かない。むしろ、エコポイントの効果切れで、市場には禁断症状が出ている。売り場はエコエコポイントを待っている。わかっていたことだが。

 とにかく、今回のオリンピックに関しては、日本中がなんとなく乗り切れずにいる。
 隣町の運動会。他人事。そんな感じだ。

 なにしろ、恒例のメダル数え上げ報道が無い。
 これまでのオリンピックでは、誰が何色のメダルで、どの競技でどんなメダルがいくつ期待できるのかといったような先走ったカウントアップ報道が、それこそ開幕ひと月前から繰り返されていたものなのだが、今回はそれが聞こえてこない。

 なぜだろう。
 メダルが期待できないからだろうか。
 それとも、過去の経験から、メダル獲得を煽るテの報道が、選手団に無用のプレッシャーをかけるということが学習されて、それで、今回は、メディアもメダルの数をあらかじめ数えるみたいな伝え方を自粛している、と、そういうことなのであろうか。
 
 いずれも考えられる。
 確かに、今回は、鉄板の金メダル候補(←という言い方もなんだか安っぽくて変だが)が居ない。
 議論のハードルを「メダル圏内」と、比較的低いところに設定してもなお、見たところ、確実な選手は見あたらない。

 とすれば、開幕前からメダルを話題にするのは、かえってあとあとの興ざめの素になる。ここは一番、黙っておくに限る。その方が無難だ。
 見ない夢は醒めない。
 受けない学校は落ちない。

 競技団体(あるいはJOC)がメディアに報道の自粛を示唆した可能性もある。
 事実、オリンピックではないが、昨年の8月に行われた世界陸上では、陸連が放送を担当するTBSに対して「キャッチフレーズの自粛」を強く迫ったことがあった。

 無理もない話だ。
「モザンビークの筋肉聖母」
「追い込み白虎隊」
「侍ハードラー」
「エチオピアのゴッド姉ちゃん」
「ツンドラのビッグママ」

 こうしてあらためて並べてみると、彼らが案出したキャッチフレーズは、どれもこれも恥ずかしい。
 一視聴者に過ぎない私が、思い出しただけでこんなにも恥ずかしいのだから、当事者であった選手は、どれほど屈辱を感じたことだろう。想像するにあまりある。

 いや、キャッチフレーズの出来不出来について、センスが良いだとか悪いだとか、優れているとか劣っているとか、そういうことを言うつもりはない。

 でも、さるマラソンの女子選手に対して「走るねずみ女」という言葉を使ったのは、いくらなんでもあんまりだったと思う。

 ヘタでも面白くなくてもダサくても、アスリートに対する敬意が感じられるのなら、別にかまわないのだ。多少ハズれていても。でも、「走るねずみ女」は、生身の女性に対して使って良い言葉ではない。私は彼女の親戚でも何でもないが、これを聞いた時には血の気が引いたよ。
 
 で、とにかく、去年の中継は、たしかに控えめだった。オダさんも静かだったし、TBSのお家芸だった選手紹介キャッチも発動されなかった。おかげで、ここ数回の放送に比べて、電波の質は非常に上品なものになった。

 が、一方で、盛り上がりに欠けていたのも事実だった。
 淡々とした中継で深夜の陸上競技を見てみると、これがどうにも寒々しかったりする。
 単純に言って、淋しいのだね。孤独感。

 これは、わたくしども視聴者の側にも責任があるのだと思う。
 つまり、われわれは、スポーツ中継がバラエティー化する以前のごく当たり前な視聴態度を、どうやら失ってしまったのだ。奇妙な方向であれ、下品なカタチであれ、一度アオり系の放送に慣れてしまうと、そこから脱却するのは、われわれ受け手の側にとっても容易なことではなかったということですね。

 結局、やかましくて大仰で演出過剰な、縁日の口上みたいな放送は、いつしかわれわれの感覚をも鈍磨させていたわけだ。快楽中枢における限界効用逓減の法則。だから、TBSのうるさい実況を嫌っていた私のような視聴者でさえ、前回の中継には、物足りなさを感じずにはおれなかった。

「あれ? オダさん、もしかして情熱無くしてる?」

 と、私は、挙動不審でないオダユージを見て、ハシゴを外された気分を味わった。
 ニッポンの陸上界全体が突然にトシをとったみたいな感じ。

「そうだよな。いつまでもガキみたいにはしゃいでられないし」

 と、一度そう思ってしまうと、真夜中に競技を見るためのテンションを維持するのは、困難な仕事になる。

「寝よ」

 そうだよな。どうせ海の向こうでやってる他人の駆けっこなんだし。

 かくして、放送現場におけるグレシャムの法則(←「悪貨は良貨を駆逐する」)は、いつしか良心的なスタッフを業界から閉め出してしまった。具体的に申し上げるなら、声のデカい芸人がゴールデンタイムを占拠し、声優あがりのナレーターがベテランのアナウンサーから職場を奪う事態が続くうちに、スタジオはいつしか、昼下がりの魚河岸みたいな荒んだ場所に変貌していたわけだ。売れ残りの魚を商う業者と、安物を買いに来る志の低い商売人。捨て値モノを扱うセリ市では、最も強力なダミ声を放つ買い手が価格をコントロールする。うむ。ありそうな話だ。
 
 オリンピックが、愛国イベントになったのは、おそらくここ数回のことだ。
 長野オリンピックあたりからだろうか? あるいはもっと以前のロス五輪ぐらいに遡って考えるべきなのかもしれないが。

 とにかく、私が若者だった頃、オリンピックは、「ニッポン応援イベント」ではなかった。

 むしろ「世界のスポーツの祭典」という位置づけで、それゆえ中継の華は、あくまでも、「その時点での世界最高のアスリート」だった。「ニッポンのメダル」は、注目要素ではあったものの、話題の中心ではなかった。僥倖。もしくは、一種の天佑。それぐらいの扱いだった。

 冬季オリンピックの場合は、日本人選手の競技レベルが低かったせいもあって、特に外国人の一流選手に注目が集まる傾向が顕著だった。

 トニー・ザイラー、ジャン・クロード・キリー、インゲマル・ステンマルク、アルベルト・トンバ……と、古手のスキーファンは、これぐらいの名前はソラで暗記している。そうだよ。外国人の名前をたくさん知っていることが自慢だった時代があったのだよ。

 私が最も熱心にスキーを見ていた時代の最大のスター選手は、インゲマル・ステンマルクだった。
 この人の滑りは、いまでも覚えている。とにかく速かった。そして奇跡みたいになめらかで優雅だった。
 滑っているだけでBGMが流れてきそうな、そんな感じだ。

 だから、ステンマルクの時代、冬季オリンピックの中継スタッフは、ステンマルクの姿を追うことを、第一優先として、放送番組を制作していた。
 視聴者も同様。
 日本人選手の活躍もアタマの片隅で期待していないわけではなかったが、画面で見たいのは、なによりステンマルクだった。まあ、ミーハーだったと言ってしまえばそれまでだが。

 であるから、その当時、日本人選手の試合結果は、ダイジェスト版のニュースに委ねられていた。

「なお、○○競技に出場した○○選手は○位と健闘しました」

 ぐらいなアナウンスとともに競技映像が5秒ほど。

「おお、やるじゃん」

 それで終わり。それで十分だった。ことほどさように、日本人選手の動向は、注目を引かなかったのだ。

 それが、ある時期を境に、「がんばれ!ニッポン!」というキャンペーンが打たれるようになり、オリンピック中継の基調低音は、愛国応援モード一色の暑苦しい方向の何かにシフトしていた。

 それゆえ、たとえば前回のトリノ・オリンピックでは、男子滑降競技の決勝の中継が途中で中断された。
 今井メロ選手が出場しているスノーボードハーフパイプの生中継とカブったからだ。
 男子滑降決勝の中継を見ていた私は、驚愕したものだった。

「えっ? ダウンヒルを途中で切るのか? もしかして、NHKは、冬季五輪の華の、そのクライマックスの男子滑降決勝の映像を中断するのか? マジで?」

 落胆と虚脱、そして怒りと悲しみ。
 そうか、ダウンヒルの決勝より、スノボの予選なのか、と、そう思うと、もはやテレビを見続けるのが苦痛になった。いったい何のための受信料なのだ、とまでは思わなかったですがね。

 20世紀までは、冬季オリンピック中継のクライマックスは、誰が何と言おうとアルペン競技の決勝だった。日本人選手が出場していようがいまいが、だ。

 それが、放送されない。

 で、代わりに、スノボの予選中継が届いてきている。なんということだろう。今井メロ選手が、ジャンプの着地に失敗して、そのまま斜面をズルズルと滑落して行く様子が、ナマでたっぷり30秒上映されている。私はおぼえている。アナウンサーは「ああ」と言ったきり中継を投げ出し、解説者は、鼻息をひとつ吐いた後、言葉を発しなくなった。で、深夜のテレビ画面には無音の滑落映像が延々と流れていた。

「放送事故か?」 

 まあ、事故と言えば事故だ。はっきりしていたのは、NHKが、アルペン競技の決勝よりも、日本人選手の出場するスノーボードの予選を中継することを選んだということで、その結果があの映像だった。

 文句をつけてばかりで、なんだか自分ながらイヤになるのだが、この際だから胸のうちにあるつかえを一通りはき出しておく。

 私は、フィギュアスケートの浅田真央選手を応援している。
 がんばってほしいと思っている。
 が、そう考えている一方で、彼女に対して、「真央」ないしは「真央ちゃん」と、名前呼びで語りかけるカタチの放送に、いまだに慣れることができないでいる。
 あれはアスリートに対する態度ではないと思う。

 安藤美姫選手は「美姫」と表記される。あるいは「ミキティ」と呼ばれる。
 この呼び方も私は好きになれない。
 安藤選手と、普通にそう呼んでほしい。

 スポーツメディアの中では、いつの頃からなのか、女子選手に対して、名字を省略することをもって「美人選手認定」とするみたいな、異様な風潮が定着している。
 名前で呼ばれる選手は、それだけ国民に愛されていて、親しまれていて、娘のように扱われている、と、そういうことになるようなのだ。

 で、私は、このマナーどうしても好きになれない。どうしてスポーツをパパ目線で見なけりゃならんのだ? ばかばかしい。

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