先週頂いた夏休みの間、私は、考えていた。
 どうして自分は、こんなにものりピーに注目しているのだろう、と。

 どうでもいいと、心の片側ではそう思いつつ、もう一つ深い部分で、どうしても無視できない。

 だから、選挙報道や、各党のマニフェストの情報を脇に除けて、台風情報もイチローの連続安打記録報道も、本田△のゴールのお知らせもすべてを押しのけて、私は、結局、のりピーの続報を待ち続けた。

 不可解ななりゆきだ。

 だって、しょせんは旬を過ぎたアイドルの、ありがちな不祥事に過ぎなかったわけで、ポロポロと漏れ出してくる周辺情報を含めてみても、報道された内容のほとんどは、当方が当初抱いていた予断とそんなに違わなかったのだから。それなのに、私は、彼女を黙殺することができなかった。

 20年間テレビに出続けている人間への関心は、それほどわれわれの心の奥深くに根を張っているものなのだろうか。

 おかげで、彼女が富坂署管内の警察施設に出頭した旨を伝えるニュース速報が流れた直後に始まった情報番組(「情報7days ニュースキャスター」TBS系)は、30.4%という驚愕の高視聴率を獲得した。ちなみにこの数字は、NHKを含めた全放送局の、あらゆる時間帯の放送の中で、今年度記録された最高視聴率だという。

 のりピー現象は翌日も続いた。

 逮捕の翌日の日曜日、「真相報道バンキシャ!」(日テレ)が、21.4%、サキヨミLIVE(フジ)が、18.8%を記録している。いずれも番組の新記録。びっくりだ。

 のりピーは間違いなくカムバックするだろう。
 今回の事件を通じて、広範な需要が証明された以上、消えることは不可能だ。
 業界が黙っていないし、ファンが放っておかない。なによりオレら野次馬が彼女を待っている。いつまでも。青い顔色の飢えたウサギみたいに。

 今回は、のりピー騒動の謎について考えてみたい。
 誰が得をするわけでもないのに、それでも人々がのりピーに注目せずにおられなかった理由について、だ。

 8月のアタマに押尾学容疑者と酒井法子容疑者が立て続けに逮捕されて以来、しばらくの間、テレビはクスリの話題だらけだった。

「絶対にいけません」
「清純派のイメージが粉々に……」
「どんなことがあっても薬物は薬物ですから」

 キャスターは、いまさらながらに薬物のおそろしさを強調している。

「こわいですね」
「若い人たちにぜひ訴えたいですね」

 ……白々しいと思ったのは私だけだろうか。
 なーにをいまさら。
 私は、逃走初日の報道を眺めながら既にそう思っていた。
 

 でなくても、「薬物は危険です」というお話は、カタにはまっている。それゆえ、決まり文句を聞かされているこっちはどうしたってうんざりする。若い連中は特に強くそう思うはずだ。

「わかってるよ、うっせえな」

 と。
 問題は、後半にある。つまり、何回も聞かされているうちに、「わかってるよ」よりも、後半の「うっせえな」に重心が移るのだ。

 「わかってるよ」の手前で言われていることについては、よほどの間抜けでない限り、既に了解済みだ。クスリのリスクや、クスリのヤバさや、シャブの危なさについては、彼らだって十分に承知している。さんざん聞かされてきてもいる。

 それでもなお、「うっせえな」と彼らは思う。
 あるいは、わかっているからこそ、彼らは「うっせえよ」とそう感じる。

 当然だ。
 補足すれば

「うっせえな、危ないのはわかってるよ。危ないから面白いんじゃないのか?」

 と、彼らは、そういうふうに考える。
 もちろん、面白い以上に、想像を絶してアブないのであるが、であっても、この際、危なさを強調するのはあんまり得策ではない。

 ブルース・スプリングスティーンは、"Blinded by the light"という歌のシメのフレーズで以下のように歌っている。

"Mama always told me not to look into the sights of the sun
Oh but mama that's where the fun is"

「太陽を直視するな、とおふくろはいつもいっていた。
 でも、ママ、そこにこそ楽しみはあるってもんだぜ」

 青春の暴走てやつだ。オレたちみたいな半端者は、ベイビー、突っ走るために生まれてきたのさ、とかなんとか、特にロックンロールジェネレーションじゃなくても同じことだ。若いヤツは無茶をしたがる。旧石器時代以来の伝統だ。

 大人が「いけない」と禁じることには、何か良いことが隠れているはずだと、7歳児の本能はそう考える。

 子どもが見てはいけないことになっている真夜中のテレビ番組に、どんな秘密の宝物が隠れているのか、それを知るまでの間、少年は未知の画面に憧れ続ける。無論、知ってしまえば、たいしたものではない。子どもにとって有害なものは、大人にとって有害でさえない。それだけの話だ。
 
 もう少し知恵がついて、禁じられているものには禁じられるだけの理由があるということがわかる年頃になると、今度は、禁じられたブツにではなく、禁忌を破るという行為自体に価値を見いだすようになる。

 ビールやタバコがミドルティーンにとって魅力的に見えるのは、禁じられているからだ。もし仮にビールが給食のメニューの一品として供されたら、それはただの苦い水として評価されるはずだ。ゲロマズ。あれを旨いと感じるまでには、長い道のりを経なければならない。心根がすっかり曲がり切るまでの。

 では、ビールなり麻薬なりを推奨すれば事態が改善するのかというと、そんな簡単なことではない。
 推奨したらしたで、彼らはこの時とばかりに、素直に従う。そのあたりの勘所について、彼らは本能的に承知している。
 
 危険な薬物は、なんとしても禁止せねばならない。

 私が申し上げているのは、禁止薬物を若者から遠ざけるための方法論に問題があるということだ。キャンペーンを打つつもりなら、事前にその手法と効果について十分に考察しないといけない。
 
 いずれにしても、薬物の「危なさ」や「怖さ」を強調する方法は、得策ではない。
 なぜなら、「危ない」という警告を、反抗期の若い人間の耳は、「挑戦する価値がある」というふうに翻訳して聞き取るからだ。

「やめろよ。危ないぞ」

 と、打ち上げ花火を手に持って遊んでいる中学二年生に道理を説いたところで、効果は期待できない。危ないことは彼もわかっている。むしろ危ないからこそ彼はそれをやっている。度胸と男気を見せるために。

 とすれば、大人であるわれわれは、彼に「この男は危険なことをやっている」という傍証を与えるべきではない。
 むしろ、退屈そうな冷眼を送るべきなのだ。

「なーんだ、口にくわえてるかと思ったら、手持ちかよ」

 ぐらい。でなければ、すっぱりと無視する。

 「コワい」というメッセージはさらにひどい逆効果を生む。
 「○○沼は怖いんだから近づいちゃダメだよ」と、小学校2年生までの男の子なら、それで言うことを聞いてくれるかもしれない。
 
 が、10歳を超えた男の子のうちには、

「コワくなんかないよ」

 という反骨が芽生えている。あるいは、哀れな自尊心ないしは虚栄心、でなければ、コワさを乗り越えないと大人になれないという強迫観念が。やっかいな逆説だ。反発しない子どもは大人になれない。赤信号を渡らない子どもは道の向こう側にたどり着けない。

 誰もが、公園の滑り台から砂場に飛び降りるとか、ジャングルジムのてっぺんに立つとか、歩道橋の手すりの上を歩いてみせるとか、そういった類の、愚かな挑戦をスルーできない一時期を通過して大人になる。いや、誰もが、とは言わないでおこう。でも、男の子のうちの半分ぐらいは、無意味な冒険の記憶を持っているものなのだ。無事に大人になる年齢まで生きながらえたことを、われわれは、感謝しなければならない。十分に賢かったわけではないのに、われわれは生き延びることができた。わたくしどもは運が良かった。ありがとう。

 こういう話をしていると思い出す名前がある。

「これ飲める?」

 と、A藤が突然話しかけてきた。体育の授業中、教師が何かの用事(忘れ物だったと思う)で、教室に戻っていた間の出来事だ。

「……無理だよ」

 と私は答えた。A藤の手の上には、どこから拾ってきたのか、正露丸の粒ほどの大きさの石が乗っていた。

「ぼくは飲めるよ」

 と、言ってA藤はそれを飲んだ。
 私は小学校の3年生だった。だから、自分が飲めなかったことに強い屈辱を感じた。
 で、飲んだ。同じ、正露丸の錠剤ぐらいな石ころを。男の意地で。
 と、A藤は、もう少し大きい、枝豆の豆ほどの石を見つけてきて言った。

「これはどう?」

 プライドというのはおそろしい精神作用だ。
 私は、負けたくなかった。だから、同じぐらいの石を見つけてきて、A藤に見せた。

「よし、一緒に飲もう」

 われわれは、その石をズボンにごしごしとこすりつけて消毒(できるはずはなかったのだが)して、口に含み、そして、いちにのさんで飲んだ……はずなのだが、私は飲み込むことができなかった。恐怖を感じているからなのか、緊張していたからなのか、喉が強く締め付けられる感じがして、どうしても飲み下せなかったのである。

「どう?」

 A藤が顔をのぞきこんだ。彼は既に飲み終えている。私は飲めない。しかも、涙ぐんでいる。っていうか、吐きそうだ。

 勝負は、私の負けだった。
 勝ち誇ったA藤は、さらにもう一回り大きい石を飲んだ。

 完敗。どうしてこいつはこんなにも大きい石を飲むことができるんだ? アタマがどうかしてるのか?

 以来、私はいろいろな局面で、A藤に勝てなくなった。ドブ川の中のイトミミズを手づかみにする勝負や、団地裏の斜面を両手を広げて駆け下りる勝負や、動物園の七面鳥のアタマに触る勝負において、私は連敗した。いや、人生の早い段階で敗北の効用を学んだことは、結果として、そんなに悪いことではなかった。だが、それでも、小学校時代を通じて、私は、あの男にだけはアタマがあがらなかったのである

 何の話をしているのだろう?
 私は「男気」の話をしているつもりだ。

 ギャングエイジの少年は、「勝負」が行われていると感じた時、負けることを絶対的に忌避する。それが、どんなにくだらない勝負であってもだ。いや、むしろ、くだらない勝負であればあるほど、勝つことの重要性は増す。なんとなれば、「オレはこんなにも無謀なことに命をかけることができる」ということが、すなわち男であることの証明であるからだ。

 どこかのやくざの親分さんが、言っている(「アサヒ芸能」で読んだ)。
「男とは、平気で命を捨てられる人間のことだ」

 つまり、アレだ。小学校4年生というのは、やくざと一緒なのだな。あるいは、やくざが永遠の小学生だということなのかもしれないが。

 話を元に戻す。
 のりピーに関して、彼女の「転落」を強調することは、逆効果だと思う。

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