当連載を始めるに当たって、新聞を定期購読させてもらっている。
と、いきなりこう書いても、にわかには了解しにくいかと思う。
順序立てて説明すると、こういうことです。
1. オダジマは紙の新聞を取っていなかった。
2. その話を聞いて、編集部のY氏は驚愕(たぶん)した。
3. で、Y氏は、「購読料はうちで負担しますので」と言いつつ、日本経済新聞の購読を強力に推薦した。「ネタになる用語を探すためにも有効なはずですから」と。
4. 「タダなら」ぐらいの気持ちで、オダジマは、新聞の宅配を了承した。
まず、(1)についてだが、事実、私は、この十年ほど、紙の新聞を読んでいなかった。
きっかけは単純で、今住んでいるマンションに引っ越して来た折、新聞販売店の勧誘があんまりしつこかったので、ヘソを曲げたのだ。で、販売店の人間に、「新聞は読まない。二度と来ないでくれ」と宣言して以来、ヘソを曲げっぱなしにしていたのである。
問題は、それで済んでしまっていたことだ。
この事態は「宅配の新聞すら読まない情報環境のもとで、原稿書きの仕事をこなしていたオダジマの驚くべき怠慢」というふうに読むこともできるし、「インターネットの普及によるペーパーメディア衰退を示す象徴的な出来事」と解釈することも可能だ。が、まあ、一般的には前者でしょうね。いずれにしても、この10年ほど、私は、新聞由来の情報とはほぼ無縁な、非ジャーナリスティックな仕事をしてきた、と、そういうことです。
このこと(オダジマが新聞を取っていないという事実)は、当然のことながら、業界では評判が良くなかった。付き合いのあった新聞系の雑誌では、「当件(新聞不購読)については、なるべく書かないでください」と、それとなく、クギをさされていたりもした。
「なんなら手配しますよ」
と、無料購読を示唆されたことも一度や二度ではない。
が、その度に私は
「溜まっちゃって、シバって捨てるのが面倒だから」
とか言って辞退していた。なんたる非礼。というよりも、どうして私はつまらぬケンカを売っていたのでしょうか。
でも、それで済んでいたのである。ヨメさんの親戚筋とかにあきれられたりしながらも、だ。
それほど、紙の新聞は微妙なところにきている。
大変な事態だと思う。
今回は、この度、10年ぶりに新聞を取ってみて気がついたことを中心に書いてみたい。
まず感激したのは、「一覧性」だ。そう。紙の新聞の人たちが、インターネットの即時性や、検索性や随時編集性に対抗して、二言目には持ち出していたあの言葉だ。
「なにしろペーパーメディアは一覧性が高いですから」
と。
ところが、その「一覧性」は、辞書に載っていない。
調べてみると、「広辞苑」にも「大辞林」にも掲載されていない。「ウィキペディア」にさえ項目が立っていないのだ。驚くべきことだ。
つまり、「一覧性」は、「一覧する」という動詞を名詞化して使う際の用語として、一応有効に機能してはいるものの、独立した単語として語義を紹介されるには至っていないのである。
とはいえ、情報処理にとって、一覧性は、非常に重要な事柄だと思う。
実際に、見てみればわかる。長いことディスプレイ越しの文字に頼り切ってきた者の目から見ると、紙の新聞の文字は、圧倒的に速く読めるのだ。
一目瞭然、という言葉があるが、まさにそういう感じ、読む前に、パッと見ただけで、おおまかな内容を把握してしまったような感覚がある。
この「一目ですべてがわかる感じ」そのものは、錯覚である可能性が高い。だって、5秒かそこいらで見開き一枚分のテキスト(原稿用紙にして約40枚分!)を読みこなせるはずはないし、私にそんなことができる道理もないからだ。絶対に無理。ムリムリムリムリかたつむり、である。
でも、紙面を数秒「見た」だけで、われわれの目は、「読む」のとは別次元の情報処理をしている。これは事実だと思う。
たとえば、紙面全体の「像」を「一覧」し終えた段階で、私は、読むべき記事と、無視してもかまわない記事について、おおよその判断をつけている。
これは、リテラル(文字通り)な意味で、「読んで」いるのではない。グラフィカル(視覚的な、絵として)な図像として、紙面の情報を処理している。われわれのアタマはおそらくそういうふうに出来ているのだ。
目(あるいは、脳の視覚情報処理)には、神秘的な能力がある。
フラミンゴのおかあさんは、数万羽のヒナの中から、一瞬で自分の子供を見つけ、あやまたずにわが子の前に着陸することができる。人間の目にも似た能力がある。たとえば、恋する者の目には、ハチ公前の群衆の中で、恋人の立っている場所だけが、輝いて見える。のだそうだ。
「スポットが当たってるみたいに見えるんですよ」
うん。どうかしているんだと思うよ。色んな意味で。
紙の新聞は、特定の情報(特定の単語、特定の記事、あるいは分野)を検索する上で、デジタルのメディアに比べて不利だと言われている。
事実、その通りだと思う。。
「メタミドホス」でも「都立五日市高校」でも、こちらが、自分で何を知りたいのかはっきり自覚している場合、その言葉(あるいは概念や事件)についての記事や関連情報を探すには、インターネットの方が速いし、使い勝手も良い。
でも、われわれは、必ずしも、常に明確な目標を持って生活している人々ではない。
というよりも、わたくしども一般人は、多くの場合、漠然とした情報飢餓に苛まれているのみで、きちんとした研究課題や明かな検索対象を持っていたりはしないのだ。
で、そういう「なんか面白いこと無いかなあ」ぐらいな心持ちで、漫然と周囲を見回している人間である当方にとって、ありがたいのは、「検索性」よりは、「一覧性」なのだ。
不特定で雑多な情報を一覧できる形で提示している図像、すなわち、記事の配置と、見出しのデカさと、分野別の編成によって、「世界」を圧縮せんとしている画像である新聞の紙面は、その意味で宝の山なのだ。
一覧性の高いメディアは、情報を読むために能率が良いのではなくて、情報を捨てる上で、能率が高い。
ここが大切なところだ。
つまり、こちらが探すのではなく、面白そうな情報が向こうから目に飛び込んでくるのが理想なのだ。なんとなれば、必要の無い情報が必要でないことを確認するために、その情報についてのインデックス情報を読むみたいな、そういう回転覗き穴式の情報検索過程は、ぜひとも避けたいわけだから。
その意味で、画面をスクロールさせて情報を探すのと、畳半枚分ぐらいの原稿を一覧できるのとでは、やはり能率が違う。
で、私は、眼鏡を新調せねばならなかった。
近視と乱視と老眼が併存する視野の中で、新聞を読むための視覚は、私がこれまで使っていた遠近乱交眼鏡(←視野を歪ませることによって乱近視者の老眼をなだめる奇跡の妥協的レンズ)の焦点距離では、得ることができなかったからだ。
で、30センチから1メートルぐらいの距離で活字を読むための眼鏡を、この度、新たに作ったわけなのだが、なるほど、新しい視野で読む文字は、素晴らしく頭にはいる。
新聞を取らなかったこの10年は、もしかして、私のとって、失われた10年だったのではなかろうか、と、軽い後悔の念さえ抱いている今日この頃なのである。
で、この際、「一覧性」について、もうひとつ、新しい語義を付け加えたい。
どうせ、正式な辞書に載っている言葉じゃないわけだし。
どういうことなのか説明する。「一覧性」は、単に《情報を一目で見渡せる性質》《ページを一覧する上での見やすさ》という意味を表現するだけの言葉であってはならない。「一覧性」は、《情報がページ内で完結している》という性質を、併せて備えていてしかるべきだ。
具体的には、「他のページを参照させたり、補完情報をリンク先に託していたり、用語解説をウィキペディアに委ねていたり、細部に関する解説をグーグル検索に頼っていたりする原稿は、ウェブ上では通用しても、紙のメディアでは許してもらえないぞ」ということだ。
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