一つの出来事をどうとらえ、対処するか?人によってさまざまであることは当然だ。そして、たいていの場合、おおまかに言えば、3通りに区分される。一つは、直接の当事者の対応を見守り、第3者として静観することだ。二つ目は、一線を引きつつも、外側から必要最低限の関与をすることだ。三つ目は、眼前の自体をジブンゴトとしてとらえ、積極的に関わることだ。しかし、現実にはきれいに区分けすることは難しく、3通りが入り乱れることにならざるをえない。
さて、ここでの問題は、その出来事が「部落問題がらみ」である場合だ。もちろん、それがどこで、誰によって、どのような問題として起きたのかということが第一義的には大きな意味を持つし、関係する「当事者」が解決にあたるべきことは言うまでもない。しかし、それがまっとうな筋道をたどらずに、うやむやに収拾されることもある。
それを目の当たりにして、なお、第1や第2の道に徹するべきかどうか?ここには、すぐれて「当事者性」および部落問題へのスタンスに関わる問題が潜んでいるように思う。言うなれば、組織の自立性や自主性というタテマエ論に依拠し、奇麗事を説くことは、「対岸の火事」を眺めることと同じだと思う。
端から私の足元にも火は及んでいるのに、それを消すのは私ではなく、火をつけた者の責任だと言うに等しい。そうこうするうちに、火は全身に回り、炎上してしまうだろう。だから、問題の本質を見誤ってはならない。必要な時に、遅滞なく必要な手を打つことが肝要だ。
もちろん、それによって問題がレールに乗って、「解決」に向かう保障はない。逆に、混乱や錯綜が生じるかもしれない。しかし、だからといって、そこをくぐり抜けることを避けては、問題の本質を見誤ることを看過することになる。だから、リスクを承知で、事の本質に迫れる者はその仕事をすべきだろう。
そのためにこそ、私たちは存在しているのであり、それをようしないのであれば、看板をおろして、店仕舞いをしたほうがいいだろう。事態は、問題は、それを問うているのだから。