「石切」は、豊中とは近くはないが、とてもよく知っているところだ。
1976年、当時の上田卓三部落解放同盟大阪府連委員長が、大阪4区から衆院選に立候補し、1988年にリクルート株問題で辞職するまで12年間、その選挙運動で足繁く通ったのが東大阪市の石切や日下、善根寺だった。
路地を含む地理はもちろん、どこにどんな家があるのかをそらんじ、支持者とは顔なじみになるほどに濃ゆ~い関係をつくった。
その拠点となったのは当時の荒本支部で、大変お世話になった。しかし、その後、荒本支部は分裂し、一緒に選挙運動をやった人たちも双方に分かれるという辛いこともあった。荒本の事務所には飛鳥支部の方々も来ていて、親しくさせていただき、運動のいろんな場面でも会う機会があったが、あの「飛鳥会事件」の裁判でそのうちのお一人が証人として出てきて、思わぬ場所での久しぶりの再開に驚いたことを思い出す。
石切駅から石切神社への参道の両側には店が並び、神社ではお百度参りをする老若男女の変わらない風景があったが、感慨が湧くことはなかった。ただ、部落解放運動一直線であった若かりし頃の自分を思い返すと、「石切は遠くなりにけり」の感を強くした。