本書には様々な人が登場するが、「新劇」歴史において、この人のことを忘れてはならないだろう。
新劇初期の指導者である坪内逍遥と小山内薫は、それぞれに座を組んで明治後期から活躍していたが、10年程で自然消滅した。その灯を再び点したのは「赤い伯爵」と言われた土方与志(1898~1959)だ。祖父は土佐藩出身で維新後に宮内大臣を11年務めた伯爵で、父は若くして自殺。後を継いだ土方は学生時代から芝居に熱中し、演劇グループを立ち上げたり、自宅に模型舞台研究所を作るほど入れ込んだ。
転機となったのは関東大震災。東京の惨状を見て、今こそ劇場を!と全財産をつぎ込んで、小山内薫らとともにバラック建ての劇場を築地に建てた。1924年6月に「築地小劇場」としてこけら落としを迎え、連日の超満員でごった返した。
順風満帆かに思えた1927年、4年目の築地小劇場にも厳しさを増しつつあった時勢の波が襲った。当局による「検閲」だった。脚本はズタズタにされ、支離滅裂になって返ってきた。削除された台詞をパントマイムで口パクで演じたりした。さらに二つの危機が追い打ちをかけた。経営悪化に伴う内部紛争と、左翼陣営からの攻撃だった。土方の財力で持ちこたえてきた経営も限界に達し、官憲からは検閲による弾圧を受け、左翼からは生ぬるいと鞭うたれたのだ。
そして、小山内薫の死とともに築地小劇場は揺れ始め、1929年に「左翼劇場」に合流する若手、芸術路線を重視する「劇団築地小劇場」、プロレタリア演劇路線の土方、丸山定夫らの「新築地劇団」の3つに分裂する。さらに、1933年には不逮捕特権を持つ土方を爵位を剥奪して拘束するという動きがあり、土方は身の安全と小林多喜二虐殺を世界に訴えるという極秘任務を帯び、外国での亡命生活に発った。
1940年には新劇人の一斉逮捕が行われ、その2か月後の10月には大政翼賛会が結成される。劇団はその下部組織「日本移動演劇連盟」の傘下に組み込まれ、築地小劇場もその名を「国民新劇場」と変えさせられ、太平洋戦争開戦まで1年、新築地劇団は息の根を止められる。
1941年、スターリンによる粛清の中、スパイ容疑で国外追放された土方一家は、「餓死・一家心中・乞食」の危機が迫るなか、生きのびることを選択し、帰国するもその場で逮捕される。治安維持法違反で懲役5年の実刑判決をうけたが、100人を超えた演劇関係者の逮捕者で実刑判決は土方ひとりだけだった。そして、1945年10月、仙台刑務所から出獄した土方は、GHQの肝いりで演劇界に復帰する。弾圧に抵抗した元伯爵は「民主主義の旗手」として、円満な占領統治のための価値を見出したのだろう。