「寺よ、変われ」(高橋卓志著/岩波新書)で、著者はコンビニの倍、8万余ある寺はいまや死にかけている、形骸化した葬儀と法事に安穏としていていいのか?さまざまな苦を抱えて生きる人を支える拠点となるべきだと、新しい寺のあり方を自らの実践をふまえて提起している。以下はその一節だ。
伝統仏教が「瀕死」状態であることは、すでに世の人々の目には明らかに映っている。しかし、人々はなかなか発言しない。肌で感じているにもかかわらず、人々は直接的な批判を口にしないのだ。それは仏教がいまだに権威としての一面をもっているからであり、権威を構成する檀家システムによって、菩提寺と檀家という上下関係が成り立っているからだ。
それだけではない。人々が伝統仏教に対して正面から批判しないということは、もっと深刻な問題を呈していると考えねばならない。つまり人々は伝統仏教を「見限っている」ということなのである。「仏教などあってもなくてもいい」、あるいは「仏教は葬式と法事だけやっていればいい」「仏教に期待したって何も変わらない」という見切り感である。これは仏教の存在の根幹を揺るがす、静かなる、そして深刻かつ強烈な批判と受け止めなければならない。まさに世間が静かに発するこの痛烈な批判は、坊さんである私白身に突き刺さる。
しかし「瀕死」であるはずの当事者の坊さんたちに、切迫感が感じられない。坊さん社会は、能力の優劣にはあまり関係のない長老主義と大寺権威主義という堅固なヒエラルキーの中にある。また檀家システムというスポンサーシップに依存し、再教育の場も持たない。それは努力しなくても生きていける独特の社会なのであり、いくつもの権威らしきものに護られた閉鎖的依存型社会でもある。
こういった中に埋没していれば個々の感性を磨く必要はないし、実際、感性が磨かれることもない。これらが坊さんたちの専門性をわからなくしている。いったい坊さんは何のプロなのか。釈尊や祖師方が残された、いわば「遺産」としての教えを「布教」という形で語り、食いつないできた日本の伝統仏教界はいま、サイレント・マジョリティの見切り感にさらされているにもかかわらず、過去の栄光や構造疲労の著しいシステムにさらに依存しようとし、身動きがとれなくなっている。そして、そこから一歩を踏み出そうとする方策が見つからない。
寺の現状が浮き彫りにされているが、びっくりだ。なぜなら、ここで指摘されていることは部落解放運動とその組織についてもピッタリ当てはまるからだ。