Trash and No Star

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金成隆一『ルポ トランプ王国2』書評|自分の国でよそ者になってしまった人々

 2016年、トランプが当選することになる大統領選を追った前著『トランプ王国』の続編。「ラストベルト再訪」と題し、トランプ当選後のアメリカを歩き、支持者たちの声を再び拾っていく。当選から2年ほどの時間の中でそれがどのように変質したのか、あるいは都市部、郊外、地方といった地域差がどのようになっているのかを探る。

 結論を先取りすれば、取材対象の属性や階層、居住地域を拡大したこともあり、個別の変質そのものというより、現代アメリカの複雑さ、あるいは「分断」の深刻さそのものを伝える内容となっている。印象的なのは、「階級」という言葉が度々使われていることだ。アメリカン・ドリームという理想が崩壊したアメリカで、いま何が起きているのだろうか。

 

 舞台は2017年から2019年までのアメリカ。「2020年、トランプ落選」という未来を知っているのでいくらか割り引いて読む必要はあるだろうし、トランプを大統領にしたことに対する後悔も聞かれるには聞かれるのだが、しかし全体を通じて基調となるのは、大統領就任後のトランプの実績や人柄を概ね期待通りと評価する声である。

 そう、少なくともラストベルト再訪による総論は、それが消極的なものであれ何であれ、「トランプ支持が概ね維持されている」という厄介な現実である。著者は冷静に、インタビューの合間に投げかけを行う。それで、仕事は戻りましたかと。公約はすべて達成されているわけではないし、合衆国大統領らしからぬ暴言もあるではないかと。

 しかし彼らの返しも冷静だ。トランプ支持者と言えど、トランプの言っていることをすべて額面通りに受け取っているわけではないのだ。ヒラリー・クリントンに代表される「エスタブリッシュメント(既得権層)」への反感からトランプを消極的に支持した人々にとって、当時の大統領選は「よりマシな方」を選ぶ妥協の手続きに過ぎなかったことは、前著が描いたとおりである。

 

 プロ政治家は信頼できない。どうせ選ぶのであれば、「より政界に取り込まれていない方」を選びたい。その象徴が、残念ながらトランプの暴言なのだ。したがって、公約がすべて実現されなくとも、彼らの中で直ちにトランプが不信任になるわけではない。いや、むしろすべて達成されないくらいの方が、「より政界に取り込まれていない」ことの証明になるのだ。

 多くの人から語られた、「ワシントンで既得権益と戦うアウトサイダー」という表現が印象深い。時に法を超えたレベルで自らの信じる正義を執行し、善悪の境界線を撹乱していく「ヒップスター」を愛してきたアメリカの文化的精神が、そこには流れているのだろう。彼らがトランプに期待していることは、ある種の秩序への挑戦であり、彼らにとってはそれこそが正しくアメリカ的な態度なのだろう。

 

 だが、本書ではそうした「トランプを支持せざるを得ないアメリカのこころ」が、前著と同じように再現されていくわけではない。2016年の大統領選で「リベラルな都市」と「保守な地方」の対立がはっきりと見えてしまった中、その中間地帯である「郊外」に分け入ると、どうにも割り切れない、引き裂かれた声が聞こえてくるのだ。そこはいわば、かつてアメリカン・ドリームと呼ばれたものの残滓が静かに横たわる場所である。

 そこに住む人々は、アメリカという国を今でも誇りに思っているし、大統領にはホワイトハウスに相応しい品格ある人間であって欲しいと思っているし、自分たちの住む国が世界のリーダーであって欲しいと思っている。アメリカという場所が、平等にチャンスが与えられ、努力が正しく報われる国であって欲しいと思っている。真面目に働いていれば、いつかは親の社会階層を越えられると期待している。

 また、アメリカがその出発点から移民国家であることを理解し、また誇っていると同時に、今なお増え続けるニューカマーたちにも、自分たちがしたような「同化」に努めて欲しいと思っている。部分的にはトランプの主張につながり得ると同時に、明確につながらない部分もあるが、いずれにせよそうした感覚全体が、ここでは緩やかに「保守」と呼ばれているのだろう。

 少なくとも、私のような人間がTwitterのフィルターバブルの中で見る、過激なトランプ支持者とは異なる、「普通の人々」がそこにいる。変化し続ける合衆国に対するアメリカ中間層の戸惑いと、迷い。もちろん、それはこの数年で広がったものではないだろうが、それがもっとも激しい形で露呈しているのが、ここ10年ほどのアメリカということなのだろう。

 

 とはいえ、ここまでであれば、前著の補完や定点観測と呼びうる内容だ。より深みを探るために著者が広げた取材範囲は、二つの新たな領域へと向かう。それが「帰還兵」と「ディープ・サウス」である。

 

 帰還兵については、前著で「アメリカ社会でもっとも尊敬されるべき人々」と言及されていたのが印象的だった。著者はこれまでの取材で得たつながりを頼りに、戦場で被った健康被害の治療を受ける元兵士たちに接触を試みることになる。

 沖縄での赴任経験がある人も多く、私の興味に照らせばそれだけでいろいろと考えてしまうのだが、しかし一方では、帰国後の彼らが置かれた状況が痛ましいものであることもまた事実だ。戦場で浴びた化学兵器の後遺症、生涯消えることのないPTSD、あるいはそこから派生するアルコールやドラッグの問題。

 いま、そのすべてを詳述するほどの余裕はないが、そうした帰還兵が途切れることなく現れ、病院に通う姿からわかるのは、大統領が誰になろうと――もちろんオバマになろうと――アメリカという国がずっと戦争を続けている国だということである。アメリカ社会のリアリズムが、ここでは残酷に露呈している。

 思い出すのは、やはりブルース・スプリングスティーンだ。改めて"Born in the U.S.A."を聴いてみる。国にいいように使われ、ベトナムに送られ、あっさりと使い捨てにされる若者たちの声にならない声。帰還後の就職がうまく行かない若者に向かって、退役軍人管理局の役人は言う。「まだわからないのか?」と。これがアメリカに生まれるということなんだと、ブルースは歌った。

 

 前回の記事にも書いたが、ブルース・スプリングスティーンをいま政治的に支持している層と、ブルースの歌の中で描かれている人々の間には乖離があるのではないかと、こういう曲を聴くとやはり思う。教科書通りの正しさでは生きていけない、ある種の壁。その向こう側こそがアメリカだろうし、人生だろうし、ブルースが題材にしてきたアメリカなのではないか。

 「トランプ支持」か「反トランプ」かでは割り切れない、アメリカのこころ。「もっとも尊敬される」と同時に、「もっとも忘れられた」人々がそこにいる。

 

 そして、もう一つの新機軸がディープ・サウス(深南部)だ。言うまでもなく、もっとも保守的で、もっとも敬虔なキリスト教徒たちが暮らすとされる地帯である。前著や本書の前半部分で主に触れられてきたのが、いわば「経済的争点」だったとすれば、Twitterなどでよく目にする「文化的争点」が、ここではものを言う。

 例えば、同性愛や妊娠中絶への反感や、勤勉さという美徳のもと、おそらくは日本で言う生活保護に近い文脈で使われているのであろう「福祉」というものへの軽蔑などが多くの人から語られる。あるいは学校教育からのキリスト教の追放を不満に思っている。それはアメリカという国の、人種や民族構成の変化による宗教の相対化の表れである。いわばイーストウッド的、『グラン・トリノ』的戸惑いと言ってもよい。

 ここで私は、ブルース・スプリングスティーンの影響下で2000年代のインディー・ロックの星となったアーケイド・ファイアの、2007年リリースの『Neon Bible』を思い出さずはいられない。その収録曲、"Windowsill"で、彼らは「これ以上アメリカで暮らしたくない」と歌った。アルバム全体として、いわゆる福音派への批判を含んだ内容だとされている。だが、彼らは本当に狭量で偏屈な人々なのだろうか?

 教義的な都合でどうにもならない部分もあるのかもしれないが、少なくとも私は、ここで描かれる「普通の人々」に向けて、Twitterのタイムラインでよく目にするようなトランプやその支持者たちへの「痛烈な文化的批判」を向けようとは思わない。本書でもインタビューを試みているアーリー・ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』の原題のように、彼らはきっと、「自分の国でよそ者になってしまった人々(Strangers in Their Own Land)」なのだから。

 

 すっかり長文になってしまった。

 こうやって網羅的に紹介してしまうと、いかにも焦点がぼやけた本に思えるかもしれないが、冒頭に結論を先に書いたように、前著よりも現代アメリカの複雑さ、あるいは「分断」の深刻さを立体的に伝える内容となっていることは最後に強調しておきたい。

 

 その前提として本書が示唆するのは、例えばトランプとハリスに象徴されるような「保守とリベラルの対立」は、歴史的に一定の角度で維持されてきたわけではない、ということだ。つまり、ある程度のスパンで見た時に、民主党も変質しているし共和党も変質している。

 かなり単純化して要約するが、民主党は労働者のための政党から、より普遍的なレベルで自由や寛容を重んじるリベラル政党へと、そして共和党はある種の特権階級のための政党から労働者のための政党に、つまりは「裕福で、高学歴で、リベラルな人たち」への反感を募らせた人々のための政党へと変貌した。いわゆる古参の党員や支持者から見ると、そこにはねじれのようなものがあり、それぞれの立場でそこを離反する人々の姿も描かれる。

 それはしかし、ある意味では「小さな分断」かもしれない。より深刻なのは――本書の分析では主にトランプ陣営の戦略と見なされるわけだが――どれだけひんしゅくを買おうが特定の話題にあえて固執し続けることで、選挙の争点を恣意的に設定してしまう戦術の横行である。

 例えばそれが「トランスジェンダーのトイレをめぐる問題」であったりするわけだが、言うまでもなく、この争点だけで人は大統領を選ぶわけではない。だが、保守陣営からこの争点にこだわられ、論点をミスリードされてしまうと、リベラル陣営も本気で反論し、一定のリソースを割かざるを得なくなってしまう。そこでは、進歩性や平等性と引き換えに、選挙に必要な「数」を失う磁場が形成されてしまう。このジレンマは深刻だ。

 

 それでも普遍性を強い気持ちで信じる道もあるだろうが、しかし本書が丁寧に拾っていくのは、そうした党派性を超えて、真の意味で普遍的に、「仕事(生活)も大事、多様性も大事」というフラットな生活者の感覚を反映できる選択肢がないことだ。

 「トランプ支持者たち」と一括りにして排除しまう時に一緒にこぼれ落ちてしまう、そういった微妙な立場からの声。ほぼクリシェのような指摘になるかもしれないが、「不寛容に見えるものを一緒くたにして排除することの不寛容さが結果としては分断を強化している」という問題が、そこでは露呈しているのだろう。

 だから「カマラ・ハリスはアメリカにとっても早すぎた」ではなく、なるほど、いわゆるリベラルが勝てないのには合理的な理由があるのだなと思わざるを得なかった。そしてこう言ってよければ、そこには現代日本にも通ずるリベラル政党の限界のようなものも示唆されているように思った。トランプ再選の今、ここからやり直したい一冊だ。

 

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著者:金成隆一
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:2019年9月20日