Trash and No Star

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金成隆一『ルポ トランプ王国』書評|アメリカン・ドリームはもうない

 先の大統領選挙期間中、ロック・シンガーのブルース・スプリングスティーンがハリス候補を支持していると、音楽系メディアなどが報じていた。ボスと呼ばれるそのクラシック・ロッカーの発言を細かく確認したわけではないが、私はそのニュースに違和感を抱かざるを得なかった。

 なにもスプリングスティーンだけではない。昨今、アメリカのロック・ミュージシャンやポップ・ミュージシャンが政治的な正しさを求められ、時にそれに素直に応じているように見えるけれども、現実はもっと複雑だろうなと思う。企業のコンプライアンス対策とはわけが違うのだ。

 

 「この町は負け犬ばかりだ」と、かつてブルース・スプリングスティーンは歌った。「俺はこんなところは出て行って、勝つんだ」と。あるいは映画『8 Mile』でも、廃墟のようなデトロイトの街に生きる若者たちは、お互いを負け犬と罵り合いながら、「いつかこの町を出て行くんだ」と息巻いていた。「こんな生活はそれまでのつなぎなんだ」と。

 

 確かに、ブルース・スプリングスティーンはその負け犬ばかりの、あるいは生きたまま死んでいる者たちの町を運よく脱出できたかもしれない。だが、彼の圧倒的な成功を支えてきたのは、その町を脱出できなかった名もなきルーザーたちではなかったのか?

 時代は変わったという。アメリカン・ドリームはもうないという。では、いっそのこと妻も子も捨てて、どこか「ここではない約束の場所」で光り輝く日を夢見ながら、せいぜいブルース・スプリングスティーンのコンサートで"Hungry Heart"あたりを合唱するしかない人々は、いったいどうすればいいのだ?

 ここに構造的な矛盾を見る。ハッキリ言って、かつてブルース・スプリングスティーンを支えてきた人たちの多くは今、トランプを支持しているのではないだろうか。夢にも思わなかった今回のトランプ再選を受けて、この疑問と自分なりに向き合うことを決めた。

 

 本書は、朝日新聞のニューヨーク駐在記者であった著者が、今となってはトランプ大統領の誕生が現実のものになりつつあった2015年から2016年にかけて、トランプ候補の人気の秘密を探るべく、主に「ラスト・ベルト」と呼ばれる五大湖周辺の州へと通い、支持者たちの声を集めて回った労作である。

 それらの町は、かつて製造業が栄えた地域であり、言い換えればかつてアメリカの繁栄を支えてきた地域である。時に過激な発言を繰り返し、差別や憎悪をむき出しにするトランプ候補を支持する人たちは、いったいどんな連中なんだろうか。そう身構えていた著者の前に現れたのは、いかに自分たちの住んでいる町に未来がなく、いかに昔のアメリカを取り戻す必要があるかを真面目に語る、かつて分厚い中間層を形成した勤勉な労働者たちだった。

 彼らの多くに、製鉄や物流といった、かつてのような仕事はもうない。巨視的に見れば、彼らは製造業のグローバル化と自動化といった時代の流れに置き去りにされた人たちだ。そこに一つの時代を背負い、謳歌した町がある。だが産業構造が変わり、企業が安い人件費を求めて他所へと移動し、人だけが残される。高学歴エリート層からすれば、時代の変化に適応できなかった人々、ということになるのだろう。だが、彼らはとにかく真面目に働いた。アメリカという巨大国家を支えることを誇りに思っていた。ただ、それに見合った敬意が欲しいだけなのだ。

 

 彼らにはもう一つ、大きな共通点がある。いち労働者として、民主党を支持する伝統の中で生きてきたことだ。

 繰り返すが、彼らが求めているのは、「まじめに働いていれば、公正な賃金と公正な暮らしを得ることができる社会」である。人並みの暮らし。人並みの贅沢。夏休みに家族旅行にでも行けたら文句はない。しかし生活は苦しくなる一方で、ますます都市型に、そしてリベラルになる民主党に見捨てられたと彼らは感じている。

 各章の扉に掲載された街並みの写真は、ブルース・スプリングスティーンの故郷、アズベリー・パークを見た時の村上春樹じゃないが、とてもじゃないが、「車を降りて、しゃれた昼食でもとろうかと思えるようなところでは断じてない」。

 

 時代の変化のなかで、自分の「取り分」が不当に切り詰められていくことに対する空しさ、あるいは怒り。その矛先は、まさしくトランプが攻撃していた移民や、当時の民主党クリントン候補に代表されるエスタブリッシュメント(文中では既得権層と訳されている)へと向かうのだ。

 事実、ほとんど世襲のような「ブッシュ」が仕切る共和党になんか興味はなかったが、かと言って民主党の候補も、彼らから見れば「クリントン」の看板を引っ提げた職業政治家なのだ。こうした政治家は企業献金の傀儡になっていて、改革が断行できない(ように思える)。そこでトランプなのだ。共和党候補だが、自己資金で活動できるので企業献金の餌食にはならないだろうと。そして何より、昔のアメリカに戻すと言っているのだと。

 一般的な人権感覚に照らせば見過ごせない発言はあるかもしれないが、それは支持者にとってみればむしろ正直さの表れなのであり、むしろエスタブリッシュメント的なものへのアンチテーゼとして機能しうる。そこでは、党派性を超えた大きな物語が確かに共有されている。そう、彼らが支持したのは、共和党でも民主党でもなく「トランプ党」だったのだ。

 そうやって共通の仮想敵を設定することで、とりあえず一期くらい任せてみるか、という譲歩を民主党支持層や無党派層からも引き出した。そしてそれが熱狂へと変わっていく。これは「他者の合理性理解」が他者の暴力性を許容してしまうか、という議論にも通ずると思うが、しかし彼らの切実な声に耳を傾けていると、 確かに、自分が社会から公正に扱われていると感じられなければ、社会の公正さを求めるのは難しいのかもしれないな、と思う。

 

 とは言え、そこで話は終わりにしてはならないのだろう。著者も終盤のまとめの段階で書いているが、トランプ支持者たちの心境は、ハッキリ言って、そのほとんどが過ぎ去りしアメリカへのノスタルジーである。今から1950年代が戻ってくるわけがないのだ。だが、そこにしかすがるものがないのだという切実さを無視することもできない。 

 

 最後の方で示唆されているが、ここで問われているのは、他ならぬアメリカが主導してきた世界秩序のあり方でもあるのだろう。 一度落とされたあとでの2期目の再選とはまた状況が違うかもしれないが、世界の警察官からいちプレイヤーに戻ったことを認め、その中で自分の利益を最大化しようとすることが、少なくともこの時の大統領選では支持されていたのだ。

 おそらくそれは今もそれほど大きく変わっていないはずで、ここの心境を本当の意味で理解し、掬い上げなければ、「アメリカン・ドリームで勝ちまくってセレブになったロック・シンガーやポップ・シンガーらエスタブリッシュメント(既得権層)が支持するリベラルな都市型候補」では勝てないかもしれない。少なくとも、選挙というものが、多数により勝敗を決するシステムであるうちは。

 極めて優等生的な感想しか出てこないのだが、自分がエリート主義的な視野狭窄に陥っていたことを思い知らされた。それは、選挙結果の受け入れ方に悩む今の日本においても言えることかもしれない。「自分たちの理想通りにならない世界はダメだ、底が抜けている」ではなく、もっと他者の合理性を知ろうとする試みが必要なのではないか。トランプを支持するしかない「アメリカのこころ」を知り、自らのエリート主義と向き合うための一冊。

 

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著者:金成隆一
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:2017年2月3日