震災ボランティアに行って。

 スーダンの写真を加工するのが面倒がっている内に、スーダン南部は独立するわ、その前に行ったエジプトでは革命起きるわの騒ぎで、状況を注視していたら震災に原発が起きて旅ネタどころでは無くなり、しかもtwitterで書きもの意欲を小口ベントし続けたので、いまいちブログ書き圧力が自分の中の炉心で高まらなかった。半年か。スーダンの記憶はもう遙かに霞む。
 震災から数えても既に100日以上が経過している。この間、ゴールデンウィークと、続いて6月上旬に被災地へ2度行った。いわゆるボランティアとしてだが、やはりこの記憶と経験は残して置くべきだろうと思ったので、ここに記すことにする。

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  • バスで着いて、この風景。絶句した。no-man's land。

ボランティアは役に立つのか

 阪神大震災で今ひとつボランティアが役に立たなかった事はよく知られている。これは、震災ボランティアそのものが阪神で始まった様なもので、受入体制が無かった事、及び当時のボランティアが生活の知恵や経験に乏しい学生が中心だった事も理由だろう。僕も当時学生だったが、きちんとした指揮命令系統がある中で、若く旺盛な労働力を提供できたケースでは、大変役に立っていたと思う。その逆、つまり個人乃至は少数の未熟練労働力が自立して成果を出すのは大変難しいと言う事だ。これが良く知られているがゆえか、東北でもボランティアは役に立つのか、という問いは腐る程今回受けた。僕の答えはYESである。何故なら、ゴールデンウィークの時点でもボランティアの受入体制は相当程度整備されており、また人生経験豊富なシニア層も参加者に多い。何が危ないかの判断、被災者の方と接するにはどうしたらいいかの対応、チームとしての自律的な役割分担、そんな所は仕事の経験が生きる。別にボランティアした事無ければボランティアが出来ない訳では無い。バブル崩壊以降の仕事の変化に対応したビジネスパースンであれば、目の前を暗中模索する現場でもそれなりに対応できるという事だ。
 そして、人力が活躍すべき現場は果てしなく広大である。
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  • 本来夢の様に美しい新緑の季節の筈なのだ。これは釜石の被災地域の直前の道の駅の風景。

広大な現場

 テレビに映る様な海に近く被害がひどい地域は、重機と自衛隊の世界だ。海岸線沿いは瓦礫の山と化し、僕がかつて旅行したどの紛争後地域より破壊されている。ここでのソリューションは単純だ。既に人命救助のステージは終わっているから、ひたすら重機が瓦礫を浚い、一箇所に積み上げ、最終処分を待つ。整地した後どうするかは今後考える。それだけだ。僕は岩手県の陸前高田と大槌、釜石で働いたが、海岸沿いは重機が唸りを上げ、自衛隊員が交通整理する、それだけの機械的なエリアであった。ここにボランティアの活躍余地は殆ど無い。
 では、どこに活躍余地が有るのかというと、要は人力でしか出来ない仕事だ。例えば津波に少し漬かった民家。これは重機で壊す訳にはいかないから、人力で床を剥がして塩水を抜き、庭に散乱する瓦礫をスコップと一輪車でひたすら運び出す。こう書くと簡単に思えるが、庭全域が20cm位の瓦礫と汚泥に覆われているので、猛烈な重労働なのである。10人が3日かかって漸く目処が立つ位の作業量だ。三陸地域のボランティアは遠野のボランティアセンターが差配していたが、遠野に集まるボランティアはゴールデンウィークで500人、6月の土日では250人といった所。全員が家屋整備に行っても、なんとか一日25軒という世界だ。広大な三陸地域を思うと気が遠くなる。もっとボランティアが居れば、もっと仕事が出来るのに。
 これは個人宅の清掃だから、行政の仕事ではない。我々被災していない日本人は、何時しか面倒な事は全て行政がやってくれる様な気がしてきているが、古今より地震で壊れたり、洪水で漬かったりした家は個人が直すのが不変のルールだ。それは個人の資産だからだ。行政が資産を持っている人だけを選択的に支援するのは道理が通らない。だからと言って、被災した個人が30人日の作業量を外注したら、100万円単位の出費になって負担が大きすぎる。だから、ボランティアの意義がある。
 また、最近巨大な蠅が大量発生という気持ち悪いニュースが出ていたが、4月からゴールデンウィークにかけての遠野のボランティアの一大仕事は、流出サンマ拾いだった。陸前高田には、一年分のサンマを冷凍して備蓄する倉庫があるらしく、これが被災して何十万匹という魚が流れ出し、1ヶ月経って強烈な腐臭を放っていた。これを拾って捨てるのは、重機では全く出来ない果てしない人力の細かな作業だ。何百人という人員が、陸前高田の津波が到達した際から海岸線までを横一列に並んで、一日数百メートルずつサンマを拾いながら緩歩前進するという気が遠くなる仕事を行っていたのである。放置されて1ヶ月経ったサンマには蛆がわき、触ると原型を止めずに液体と化すというナウシカの腐海もかくやの、凄まじい状況であった。これには膂力は不要な事から、多数のうら若き女子達が決死隊となり、悪臭にまみれて遠野に帰還していた。この決死隊の活躍によって、それでも蠅の発生は相当程度食い止められたと思うし、下手したら伝染病の発生なんていう事態も未然に防げたのだと思う。蠅が出るかも、疫病が流行るかも、とりあえず今臭い、程度では津波後1〜2ヶ月の修羅場において、自衛隊を投入する様な重みにはならず、これは正にボランティア向けの仕事だったのである。

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  • 手前が数時間掛けて家屋清掃後、奥がこれからの場所である。ぐちゃぐちゃに瓦礫が積み重なり、そして電線や漁網が絡まって、一筋縄で行かない。見ての通り、瓦礫と言っても大きいのは自動車とかタンクとかのレベルである。

肉体的充実感と精神的無力感

 大半のボランティアは週末のみ、或いは有給取って4-5日というタイムスパンで作業に当たっていた。また、相当士気が高い状態であった為、皆凄い集中力で作業に当たっていた。なので、肉体的には一日作業すると、心地よい疲労に覆われ、人の為にもなったという充実感から、ビールが大変美味しい状況で有る。しかし、現場に広がる風景は、広漠たる荒野だ。僕は例に漏れず、テレビで嫌という程被災地の映像を見てきた。だからボランティアに来たのだ。でも、自分の目で実際にそれを見るというのは全く違う経験であった。正直、テレビでは現実の1%位しか伝わって来ないと思う。遠野のボランティアセンターから、バスで陸前高田の現場に初めて入ってきた時、余りの圧倒的な破壊の風景に言葉を失った。近くの座席の女性は、風景を見ながら、滂沱の涙を流していた。たかが波、たかが水の前に、近代文明は無力であった。海岸線まで数kmある所まで、その破壊の風景が広がっている。おそらく、岩手から福島まで、この様な状況なのだろう。大きな再開発で、気が付いたら全ての建物が更地になっていた、その風景を見た時の感覚に少し似ている。重機が瓦礫を浚ったら、そこは更地なのである。この岩手から福島までの広大な更地、どう復興すれば良いのか、僕には見当も付かなかった。作業しても、その先にどう復興するのかが判らない。それは精神的には無力感となった。
 阪神大震災の時は確かに家はつぶれたが、つぶれてない家も多かった。道は道として大渋滞はしていたが、存在していた。でも、ここは全てがゼロになっている。そして、その復興の指揮を執るべき市役所も無くなっていた。陸前高田のボランティアセンターはテントの掘っ立て小屋だった。誰が何をすればいいのか、皆呆然としている、そんな印象を持った。
 また、建物を再建すれば街が出来るほど簡単では無い。街には、基幹となる産業が必要だ。地方交付税交付金で国からの援助はあって、これが公的支出と公的雇用という形で非常にベーシックなお金は回ってくるが、これだけでは街は復興しない。例えば漁業とか他の地域からキャッシュが獲得できる産業が有って、魚市場が成立し、その清掃業が出来、横持ちの運送業が食えて、漁師が飲む居酒屋が成立したりするものだ。しかも、その居酒屋は漁師だけが飲むんじゃなくて、旅館の従業員とか、農業の人とか、他の産業で食べてる人が来て成立している。こういったお金のサイクルが一旦全てゼロになってしまっているので、果たして何から始めれば、お金のサイクルが出来て、人がまた集まり、街が成立していくのかが皆目見当が付かない状態なのである。そういう意味では、この地域は人が住む有史以前の開拓時代に逆戻りしてしまったとも言える。
 建物が有るから人が戻るのではなく、仕事が有るから人は戻る。そして、この地域の仕事は、津波のリスクから逃れられないものばかりである。行政として、リスクは高いが海辺で仕事してくれと、港や市場を再整備するのは、本来リスク回避的な組織にしてはハードルの高い意志決定である。だが、それ無しにこの地域の復興は多分、無い。もうこの旧市街が広がっていた海外沿いの低地は放棄して高台に移る他ない。そんな極端な案が説得力を持つほど、海外沿いは無の世界となっていた。

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  • 鉄筋コンクリートの建物がぶち抜かれて骨組みだけになっていた。これ以上何をどう強化できるというのだろう。

現場のリアル

 ゴールデンウィークは3日間作業に従事した。ボランティアは遠野のボランティアセンターに早朝集まり、そこに貼られる求人票みたいなボランティアニーズに応募して、その日の作業に行く事になる。1日目は小学校の清掃をして、2日目は陸前高田の田んぼの瓦礫撤去作業が新しく始まるという事で、これに応募した。この田んぼ組は60名位のチームになった。ボランティアのチームリーダーはボランティアの中から選ばれる。この陸前高田矢作地区の田んぼ瓦礫撤去チームには、前日違う現場でリーダーをしていた人が参加し、彼がリーダーを務める事になっていた。が、現場に行くバスに乗ると、彼は今日が最終日なので、作業で体を動かして帰りたいと仰り、一番前の席に座り、前リーダーとうっかり目が合ってしまった僕が代わりのリーダーをやる事になった。とは言っても、初日の現場だから、前リーダーも今日の現場を知っている訳では無く、みな初めてで手探りの作業となる。
 僕はてっきり、結構きっちりとしたマニュアルが有るのだと思っていて、その通りにやるだけだと楽観的に考えていた。だが、徐々に事態を把握するに連れて、その考えは甘かった事を痛感させられた。作業指示書はペラ一枚で、ざっくりとした地図に斜線が引かれ、この辺りの瓦礫を撤去、という一言だけであった。頼む方もボランティアが何をしてくれるのか、良く判らないのだろう。この辺の瓦礫片付けられると有り難いのだが、という相談か何かが電話で有って、それをボランティアセンターが受け、多分それだけで60人が現場に送られたのだと想像する。この「この辺りの瓦礫を撤去」という一言を現場で解釈して、バスに乗る総勢60名を指揮するのがリーダーの役目という事だ。その事態を把握した瞬間、結構大変な仕事である事を理解し、僕は静かに考えを巡らせた。
 まず、ロジとしてはチーム分けと工具の配分と回収、そして帰りのバスの時間調整はマストだ。現場に到着して、僕はまず工具を数えた。一輪車が10台・スコップが15本ほど、土嚢が200枚程度だったと思う。おそらく大物の数が均等である方が不満が出ないと思い、5班に分けて、各班で班長を任命し、一輪車を均等に2台ずつ配分した。作業としては、津波が漬かった田んぼには小さいものは瓦の破片、大きいものは道路の標識や、ガソリンスタンドのタンク、その辺の立ち木まで、様々なものが転がっているので、これをひたすら道路沿いに運んで積んでいくというものである。道路には重機が入れるので、道路脇に寄せれば、重機が拾っていけるという算段だ。5班には、それぞれ均等に作業場所を割り当てた。

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  • 高台は残った。でも、市の中心である平地は、見渡す限りの荒野と化している。

 とりあえず作業は始まったが、やおら一人の女性が、トイレをどうしたらいいかと聞いてきた。難問である。勿論作業指示書には何も書かれていない。そしてここは田んぼで、トイレはそうそう見つからない。困ってしまったが、この問いで目が覚めた部分もあった。現場の立ち上げリーダーというのは、こういう輜重の全てに思いを巡らし、準備する所までやらなければいけないのである。考えてみれば、今後の展開やリスクは色々有り得る。トイレもそうだし、トイレが見つかっても紙がない場合も有り得る。また、砂塵舞い散る中ではランチを食べれない為、ランチ場所の確保も必要である。しかも、ファーストエイドキットも無いので、怪我したら僕が持っている絆創膏と消毒液を使い果たしたら手当が出来ない。また、その日は涼しかったが、重労働をする中で、各自がそれに耐えうる十分な水を持っているかは判らない。これら一つ一つに対応策を練る必要がある。
 僕は、先ずは最初の30分は絶対に怪我をするなと各班長にお願いし、依頼主である近くの集落に赴いた。対応して頂いたのは、地区長の方だったが、この方にお願いをして、公民館のトイレを開放して貰い、またランチ場所としても確保した上で、マキロンや絆創膏などの簡単な医療道具の準備をお願いした。地区長の方は、頼んでいるのだからと快く受け入れて下さり、ご厚意でペットボトルの水も2ケースほど頂いた。これは大変有り難かった。実は、僕は現地に来る前に色々なケースを考え、10リッターのウォーターボトルを持ち込んでは居たが、60人が渇いた時に、これを賄えるかと言うと、自信は無かった。また、アウトプットのイメージをすり合わせるべく、どの程度まで綺麗にすべきかの意見を仰いだ。ここを発注者と握れないと無駄な作業をしてしまう可能性がある。作業指示書には、作業内容を発注者と握れ等とは書かれていなかったが、当然やるべき事だと僕は思った。ITシステム作るのに仕様書が無くては話にならない。ただ、話してみると、発注者もどこまで綺麗にできるかのイメージが無い事が良く判った。当然だ。津波も初めてなら、津波被害へのボランティアを使うのも初めてなのだから。でも、リーダーとしてはこれを定義しないといけない。
 最初は、ざっととか、出来る限りとか、そういう分量を示す抽象的な表現から、この定義の調整は始まった。当然ながら、初めてのボランティア発注なので、イメージが湧かないのだ。そして、先方にはやってくれて申し訳無い、という気持ちもあるので、余計に遠慮がちな表現になる。この状況に、僕も気を遣ってしまうと、本当にばくっとした、自分の以心伝心スキルに依存した作業内容になってしまう。なので、しつこい位具体的な例えを使って話す様にした。数度のやり取りのあと、何とか大体の作業内容が定義され、また輜重も十分に確保出来た為、僕は速やかに取って返して、皆に作業の細かさの目安を伝えた。そして、トイレの場所とトイレに紙は少ないので、ティッシュとかを持参してなければ、密かに瓦礫の中から拭けそうな紙を拾っておくべき事も言った。一部からは笑いが漏れた。だが、ポケットティッシュを持参していなかった人は内心冷や汗ものだったと想像する。また、作業場所を当初良かれと思って5班に均等に割り当てたが、そうすると両脇にある道路から最も遠い3班は、瓦礫搬送に時間と体力を要する為、均等が仇となっている事に途中で気が付いた。公正を期すなら、道路に近い班の面積を増やすか、真ん中の班に人を多めに張るしか無い。僕は後者の方が措置として判りやすいと思って、途中で事情を説明し、人数調整を試みた。
 幸い、参加者の士気は異様に高い。作業はそこそこ順調に進んだ。ある程度自律的廻る様になると、定期的に休んで貰うこと、怪我をしない様に、無理な大物に取り掛かっている班にブレーキを掛けること、そして班ごとの作業の質のバラツキを少なくする様に、拾う瓦礫の目安を再三伝えることが僕の主な仕事となった。
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  • 左がほぼ瓦礫撤去後、右が撤去前である。手前が道で、手前側に拾った瓦礫を積み上げていく。

 しかし田んぼの瓦礫清掃とは、果てしなく、かつ人の顔が見えない作業である。田んぼは数キロ先まで続いていた。一日やれる量は、せいぜい100m位である。ボランティアは感謝を求めるべきではない、それは当然なのだけれど、余りに果てしのない作業を黙々と60人が続けているのを見て、彼らには何らか精神的充足が必要なのではないかと感じた。報われたと思えば、東京や仙台に帰って、彼らは体験をポジティブに語り、またボランティアが増えるだろう。何しろ瓦礫に埋まった田んぼは見渡す限りに存在しており、ボランティアは何人居ても困らない。そう考えた僕は、昼休みで公民館を使わせて頂いている時、地区長の方に作業の終わり際に締めの言葉を頂けないかとお願いをした。人前で話すのは苦手だと彼は笑っていたが、ご快諾頂いた。その数時間後、彼から発せられた言葉はこんな内容だったと記憶する。

  • 津波で先祖代々の田んぼが瓦礫に埋まり、地区の人はへたり込んで1ヶ月ずっと呆然としていた
  • 今日作業をして貰った所は、本当に綺麗になった。地区の人も入れ替わり作業の様子を見に来て、驚いていた。今日、震災後初めて地区に明るい笑いと表情が戻った
  • 地震の後、初めて前に進む気持ちになれた。今年は難しいが、来年には絶対苗を植え、収穫をしたいと思っている

 60名と僕は、頭を垂れてその言葉の重みを噛み締めていた。田んぼを綺麗にしただけでなく、田んぼに人生を懸けていた人々の心の曇りも少し綺麗にする事が出来ていた。正直、嬉しかった。この地区長の方には精神的に参っている所、本当に良くして頂いて、感謝したい。
 翌日も同じ現場だった。2日目は前日既に一通り考慮済だったので、あらゆることがスムーズだった。ボランティアの仲間には500mlで無く、1リットルの水を準備する様お願いした。ファーストエイドキットも遠野から持ち込んだ。この日は総勢140名の大部隊を率いる事になったが、何の問題も無かった。この場所限定ではあるが、300人でも500人でも作業する事は出来たと思う。ランチで昨日の様に公民館に寄り、そこから田んぼに戻る道すがらは、地区の方から「頑張って!」「ありがとう!」と声を掛けられながらの行程となった。我々はこの日、300m前進した。
 この日まで指示や引き継ぎは口伝が多かった。普通の仕事の常識と、人が数日で入れ替わるというボランティアの人的状況を鑑みれば、書面でノウハウを残すべきであろうと思われた。遠野に帰還後、僕は、この後ボランティアセンターで引き継ぎ書を作るのであれば、その標準フォーマットとしても使える様に、詳細かつ汎用的な引き継ぎ書を作成し、この後2ヶ月滞在するという広島の方に全てを託した。
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  • 震災後3ヶ月も経てば、草花は力強く再生する。これがまた作業を厄介にする。田んぼの瓦礫撤去とは、この写真に散らばっている様なものを根気強く拾っていく作業である。土砂の中にも瓦礫は埋まっている。1m進むのが如何に大変か、判るだろうか。

ボランティアに来る人

 学生は確かにボランティアの一大チャンクだった。ただ、それでも30%程度だろうか。残りはシニアから壮年まで多種多様であり、性別も7:3で男が多い程度で女子もそれなりに居た。男性の参加者の年齢が非常に幅広いのに対し、女性は30代が非常に多かったと思う。横浜から1人で車を運転して現地に入ったという女性が居た。職場の仲間と2名で東京から夜行バスで来たという女性も居た。男性では、引退してどこかの会社の顧問をやっているというシニアの方も居たし、沖縄で会社をやっている社長は、社業を置いてきたと言っていた。皆、目には知性の輝きが有った。まだ、日本に於いてボランティアに来る層というのは、それなりに賢い層なのだろう。そして、士気は高かった。士気が高くて賢い人が一杯居る、これは組織的にはもの凄い強みだ。賢いけど硬直した組織、或いは士気は高いが若くて荒っぽい組織、それが世の普通だ。陸前高田の田んぼチームは、そんな世の普通を超えた素晴らしい人たちに支えられていた。
 ちとゆるい話をすれば、こうやってボランティアに来ている女性は、少し話してみると魅力的な人が多かった。こういう社会活動に連帯したのは、薬害エイズの時以来の様な気がするが、薬害エイズの活動の是非はともかく、あのムーブメントにも、かわいい子が一杯参加していた気がする。もしかしたら、同世代で、あの活動に大なり小なり思う所があった当時の大学生が、今30代になって、陸前高田に来ているのかもしれない。ただ、薬害エイズの時代とは違って、僕らも成熟している。当時の様なイデオロジカルな正義感みたいなものは震災ボランティアに無く、日常の延長線上で淡々と貢献するといった雰囲気だったのは極めて健全であった。自分探しに来ている様な弱い人も見なかった。そういう、ある種いい雰囲気な事も有って、遠野のボランティアセンターに比較的長期で泊まっている組の中には、ちらほらロマンスの話を聞いた。ボランティアが婚活になっているというのも悪くない。
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  • 最前線に駐屯する自衛隊。自然に頭が下がる。

 最後に現場に行ってから、また1ヶ月が過ぎた。肌感覚として、1ヶ月では目に見えた復興は進まない事が良く判る。今や残るボランティアニーズは、田んぼや家屋の瓦礫撤去という、地味な作業ばかりだろう。これは人力でしかどうしようも無く、かつ津波の規模からして果てしのない作業だ。田んぼや家屋が終わったら、次は森が残る。森は瓦礫をどけてと声を上げたりしないが、美しい筈の新緑は、醜い瓦礫に埋もれている。そして、森の中へは重機は入れない。誰が感謝するでも無い、こういった所が無名のボランティアの働き場所だと僕は思う。陸前高田では、リーダーをしていたので、被災者の方の言葉を無理言ってお願いしたが、そもそもボランティアは押しかけてやらせて貰ってる程度のものであって、感謝を求めるのは筋違いだ。そして、面と向かうと、シャイでうまく率直に感謝の言葉が出ない民族だって事もよく判ってる。僕だって、「ありがとう」より「すいません」がつい口に出る、同じ日本人なのだから。
 ボランティアなんて100%自己満足だ。正義感や義務感は僕には無い。あの肌寒い3月の中旬に、僕は凄まじい津波の映像を呆然とテレビで見続けた。同じ様に見続けた1億人の同胞は、時間が戻って欲しい、何とかしてあげたい、という気持ちを共有したと思う。僕はこの何かしなければという気持ちを満足させる為だけに現地に行った。結果として、みんなの役に立てば、動機は問われない。それが仮に会社の業務命令みたいなものであったとしても。会社の業務命令で来ている人より、自由意思で来ている人の方が偉いなんて事は無い。人の役に立てれば、その価値は等しい。ボランティアは何か高尚なもので無く、単なる作業なのだ。僕はそう信じている。
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