kojitakenに悪口する(2024年12/21日分)

ナベツネ(渡邉恒雄)死去 - kojitakenの日記

 昔なら言いたいことは山ほどあったが、ナベツネの読売社内での影響力が既にすっかり弱まった今となってはその気力はかなり減退している。

 何を根拠に「すっかり弱まった」と評価するのか、何一つ根拠を上げず全く意味不明な点がid:kojitakenらしいアホさです。
 そうした理解は「争いのない事実」とはとても言えないでしょう。
 むしろウィキペディアには

渡邉恒雄 - Wikipedia
 2024年11月末まで定期的に出社し役員会などに出席、12月に体調を崩して病院で治療を受けるも死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという。

と「kojitakenの主張とは逆のこと」が書いてあるのですが。
 なお、小沢一郎 カテゴリーの記事一覧 - kojitakenの日記で小沢氏に悪口し、また「大連立構想」当時、福田内閣発足自体が「大連立」の撒き餌だった - kojitakenの日記(2007.11.5)で、小沢氏を批判していた「アンチ小沢」のkojitakenなら

小沢一郎氏「あの時、大連立をやっていれば…」 渡辺恒雄氏を悼む [立憲] [自民]:朝日新聞デジタル
 渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆は2007年、与党・自民党と野党第1党・民主党の「大連立政権」の実現に向け動いた人物として知られる。当時、民主党代表だった小沢一郎*1衆院議員(現・立憲民主党)は19日、記者団の取材に対し「非常に鋭い政治感覚の持ち主だった」と渡辺さんを悼みつつ、「あの時に大連立*2をやっていれば、もう少し立憲民主党も政党らしい政党に成長できたのではないか」と語った。 
 大連立構想は民主党が参院で与党を過半数割れに追い込んだ中、当時の福田康夫*3首相が政権運営に苦慮する中で浮上した。小沢氏は記者団に対し「福田首相から連立の話を持ちかけられた。その仲介役みたいなことをしてくれたのが渡辺さん」とした上で、「(ねじれ国会の政治状況を)打開するには大連立以外ないと感覚的に彼(渡辺さん)は判断したのだろう。たまたま私もそういう判断だった。非常に鋭い政治感覚の持ち主だった」と語った。

などの記事を元に小沢氏に悪口するかと思いきや意外なことに小沢非難はありません。
 なお渡辺は「福田康夫内閣時代の大連立構想*4」以外にも

渡邉恒雄 - Wikipedia参照
 読売新聞では大野伴睦*5の番記者になった。
 渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて、ゴーストライターとして、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける。
 大野の著書『大野伴睦回想録』(1962年、弘文堂*6→2021年、中公文庫)も実際の筆者は渡辺だとされる(大野から渡辺が聞き書き)。
 渡邉は、初入閣を望む中曽根*7と1959年当時、自民党副総裁の大野との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約し、中曽根は岸内閣科技庁長官として初入閣した。
 大野との関係で、大野と親しい右翼・児玉誉士夫*8と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。
 1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根出馬に自民党最大派閥「田中派」領袖・田中角栄*9の支持を得るため、田中の秘書早坂茂三に中曽根を引き合わせ働きかけた。その結果、中曽根は田中の支持を得て総裁選に勝利した。

早坂茂三 - Wikipedia参照
 1982年の自民党総裁選では渡辺恒雄と共に、中曽根康弘の総裁就任に奔走した。中曽根嫌いの田中が、中曽根支持に動いたのは当時、田中の秘書だった早坂の手腕が大きいという。なお、中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で田中や早坂と面会し、中曽根が土下座し田中や早坂へ賛辞を述べた。

村上勇 - Wikipedia参照
 自民党大野派が、大野の死後、村上派(村上勇*10)と船田派(船田中*11)に分裂した際、渡邉は村上を嫌っていたため、大野後援企業に村上派への政治献金を取り止め、船田派に一本化するよう要請する挨拶状に差出人の一人として名を連ねた。
 なお、その後、船田派から分裂して生まれた水田派(水田三喜男*12)に村上派が合流する形で村上派は消滅している(水田派も水田死後、多くが田中派入りし派閥が消滅)。
 船田派も船田死後、田中派に合流する形で派閥が消滅した。

といった言動をしており「ジャーナリストとは言えないフィクサー的人物」として俺は批判的です。
 正直「渡辺がいなかったら中曽根は首相にならなかったのでは?(俺は改憲ウヨの中曽根には勿論批判的、否定的です)」「読売も今ほど右翼紙面ではなかったのでは?」「日本のマスコミや政治ももっとまともだったのでは?」感を禁じ得ない。
 なお、この小沢発言、「当時の福田内閣同様に、政権維持に苦慮する石破*13内閣」と立民の「大連立」を小沢氏が画策してる*14とも理解できる発言であり、極めて問題発言でしょう。今後、党内外から小沢批判が出てくるのではないか。勿論俺も小沢を批判しますが。
 なお、小沢以外にも

渡辺恒雄氏が死去、石破茂首相「まだ教えほしかった」 - 日本経済新聞2024.12.19
 石破茂首相は19日、読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄氏が同日死去したことについて「ご冥福をお祈り申し上げる」と語った。「党や民主主義のあり方、日本のこれからの平和国家としてのあり方について、まだまだ教えをいただきたかった」としのんだ。

渡辺恒雄氏死去 政界から悼む声相次ぐ 岸田氏「一つの時代が終わった」 野田氏「言論界の巨星」(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース2024.12.19
 林*15官房長官は19日午前の記者会見で「心よりお悔やみを申し上げる」と述べた上で、渡辺氏の言論、新聞経営、スポーツ界などでの功績に触れ、「多くの政治家と接した戦後政治の生き証人である渡辺さんの迫力ある著作に長く接してきたところであり、また何度かお会いする機会に恵まれ、政治に対する該博な知識・見識から多くのこをと学ばせていただいた」と語った。
 国民民主党の代表役職停止中の玉木衆院議員は「まさに巨星墜つという印象だ。戦後の政治やメディアに大きな影響を与えた人物であることは衆目の一致するところ。主筆の部屋にお邪魔した際、国民民主党のパンフレットが机の上に置いてあり驚いたことを覚えています。衆院選後の政治状況や我が党の在り方についてご意見を伺いたかったのですが、もはや叶わず残念です」と悼んだ。

渡辺恒雄氏死去、政界から悼む声 「戦後政治の生き証人」:東京新聞デジタル2024.12.19
 公明党の斉藤鉄夫*16代表は、消費税の軽減税率導入を巡り、渡辺氏から「新聞文化を守るために必要だ」と激励を受け、公明の主張を後押ししてもらったと述懐した。
 日本維新の会の前原誠司*17共同代表は記者会見で「何度もアドバイスをいただき、政治に対する見識が勉強になった」と話した。

渡辺恒雄氏死去、政財界から悼む声…菅義偉氏「日本のあるべき姿について、意見を聞きたくなる人だった」 : 読売新聞2024.12.20
 自民党の岸田文雄*18前首相は「父の旧制高校の同級生で、若い頃から親しく指導していただいた。厳しい一面も示された方ではあるが、私にとっては絶えず心を温める優しい人柄だった」と述べた。「言論人として大きな影響を日本の戦後の歴史に残された。一つの時代が終わった」とも振り返った。
 菅義偉*19元首相は「経営者、ジャーナリストとして、日本全体を見て何を政治に求めるかを考えていた。日本のあるべき姿を考える時に、どうしても意見を聞きたくなる人だった。安倍晋三*20元首相もよく(話を)聞いていた」と語った。
 森喜朗*21元首相は「巨星墜つという言葉では物足りない。我々にとっては最も良き相談相手というか、父親という感じがした。難しい問題があれば相談に乗ってもらえた」と悼んだ。
 民主党政権末期を率いた立憲民主党の野田佳彦*22元首相は、尖閣諸島(沖縄県)の国有化問題について相談するため、2012年に渡辺氏を首相公邸に招いた。
 「『歴代の首相とたくさんお付き合いしてきたが、公邸に招いてくれたのはあなたが最初だ*23』とうれしそうだった」と懐かしんだ。
 額賀*24衆院議長は「新聞記者出身の政治家*25として、公私ともにご指導いただいた。時代を先導してきた論客を失うことは大きな損失だ」とのコメントを出した。

などの発言があり、ナベツネ本人、あるいは彼の「権力の源」である「読売新聞」には多くの保守政治家(自民議員が多いが、立民(野田代表)、国民民主(玉木代表)、維新(前原共同代表)のウヨ議員もいる)が「利用価値を認めてすり寄るのか」と思うとげんなりします。

*1:中曽根内閣自治相、自民党幹事長(海部総裁時代)、新生党代表幹事、新進党幹事長(海部党首時代)、党首、自由党党首、民主党幹事長(鳩山代表時代)等を歴任

*2:但し、民主党内の批判で失敗に終わった

*3:森、小泉内閣官房長官を経て首相

*4:なお、大連立構想 (日本 2007) - Wikipediaによれば渡辺の盟友である中曽根元首相や氏家斉一郎元日本テレビ会長(読売新聞での渡辺との権力争いに敗れ、読売新聞広告局長から日本テレビ副社長に出向させられるが後に渡辺と和解)も大連立支持で動いたとのこと

*5:自民党大野派領袖。日本自由党幹事長、衆院議長、吉田内閣北海道開発庁長官、自由党総務会長、自民党副総裁(岸、池田総裁時代)等を歴任

*6:渡辺は大野回想録出版以前にも著書『派閥:保守党の解剖』(1958年)、『大臣』(1959年)、『党首と政党 : そのリーダーシップの研究』(1961年)を弘文堂から出版している。弘文堂 - Wikipediaによれば当時の弘文堂社長は渡辺恒雄の弟・渡辺昭男。ちなみに 弘文堂 - Wikipediaにも記載がありますが、弘文堂は田中二郎(東大名誉教授)『行政法』、鈴木竹雄(東大名誉教授)『会社法』、江頭憲治郎(東大名誉教授)『商取引法』、菅野和夫(東大名誉教授)『労働法』、西田典之(東大名誉教授)『刑法総論』等の版元であり、法律分野で知られています。

*7:岸内閣科技庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相、自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行管庁長官等を経て首相

*8:日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介首相は、1959å¹´1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が大野と親しい児玉であり、河野一郎(自民党河野派領袖。岸内閣経企庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)等を歴任。河野洋平元自民党総裁の父)や佐藤栄作(岸の実弟。自民党総務会長(岸総裁時代)、岸内閣蔵相等を経て首相)も署名した誓約書が残されている。しかし岸は誓約を反故にし、池田勇人(岸内閣で蔵相、通産相を歴任)に政権を禅譲している。一説にはこの事について岸は「床の間(首相ポスト)に肥溜め(大野)を置けるわけがない」と言い放ったという。誓約を反故にされたことで大野は岸を恨み、一説には、岸が首相正式辞任直前に右翼(児玉の部下であり、面子を潰された児玉の報復とされる)に刺され負傷した際には「ざまみやがれ、あの法螺吹きが」と言い放ったという。(児玉誉士夫 - Wikipedia、大野伴睦 - Wikipedia参照)

*9:岸内閣郵政相、自民党政調会長(池田総裁時代)、池田、佐藤内閣蔵相、自民党幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣通産相等を経て首相

*10:鳩山内閣郵政相、岸内閣建設相、三木内閣郵政相等を歴任

*11:鳩山内閣防衛庁長官、自民党政調会長(岸総裁時代)、衆院議長、自民党副総裁(福田総裁時代)等を歴任。栃木県知事を務めた船田譲は息子。宮沢内閣経企庁長官を務めた船田元(船田譲の息子)は孫

*12:吉田内閣経済審議庁長官、石橋、岸内閣通産相、池田、佐藤内閣蔵相、自民党政調会長(鳩山、佐藤、田中総裁時代)等を歴任

*13:小泉内閣防衛庁長官、福田内閣防衛相、麻生内閣農水相、自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相等を経て首相

*14:勿論そうした考えに石破首相や野田立民党代表が乗るかは不明ですが。

*15:福田内閣防衛相、麻生内閣経済財政担当相、第二次、第三次安倍内閣農水相、第四次安倍内閣文科相、岸田内閣外相、官房長官等を経て石破内閣官房長官

*16:福田、麻生内閣環境相、公明党政調会長、幹事長、岸田、石破内閣国交相等を経て公明党代表

*17:鳩山内閣国交相、菅内閣外相、野田内閣国家戦略担当相、民進党代表、国民民主党代表代行等を経て維新の会共同代表

*18:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相

*19:第一次安倍内閣総務相、第二~第四次安倍内閣官房長官、首相等を経て自民党副総裁

*20:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官等を経て首相

*21:中曽根内閣文相、自民党政調会長(宮沢総裁時代)、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)等を経て首相

*22:民主党国対委員長(前原代表時代)、鳩山内閣財務副大臣、菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)、立民党最高顧問等を経て立民党代表

*23:ナベツネと親しい関係にあったという中曽根なら招きそうなもんですが、違うのか?。それとも単なる「野田へのおべっか」か?

*24:小渕内閣防衛庁長官、森内閣経企庁長官、自民党政調会長(小泉総裁時代)、小泉内閣防衛庁長官、第一次安倍、福田内閣財務相等を経て衆院議長

*25:なお、額賀は産経出身