「木下黄太のブログ」 ジャーナリストで著述家、木下黄太のブログ。

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「復興バブル後の懸念」という文字が紙面に躍る福島県民の劣化意識。汚染地で保養ボランティアの自己満足。

2015-12-14 23:57:05 | ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã¨æ”¾å°„能

新聞を読むとばかばかしいと思うことが多くて、嫌になりますが、今度は福島民友新聞で、「復興バブル後の懸念」なる文字が飛び交っていることを知りました。

これは、現実を文字にしているだけでしょうが、やはり復興バブルなるものが存在し、それが終わることを懸念している人々の話を、そのまま新聞が文字にしているようです。

なんというか、「復興バブル」という事を意識した瞬間から、その意識を有する人々を救うなどという大義名分は、まさに馬鹿が思っている妄想の世界であると僕は感じています。

はっきり言いますが、原発事故後に5年近くが経過して、放射能汚染を回避するまともな意識を有する人は、福島県内の大半のエリアにいないと思います。

そういう状態で、福島の人を助けたいというような、善意の妄想を持つ他地域の人々は、ただの馬鹿だと思います。

すでに、大きな対応の節目は終了していて、むしろ移住した人々が、国や東電に対して損害賠償を請求して、一定額の保障を勝ち取れるかどうかしかありません。

後は、健康症状に関しての、具体的な保障を巡る戦い、これは県内に残留した場合だけでなく、移住者でも続きます。

もう、いつまでも、県民全員が、ただ被害者面する時代では当然にありません。

おそらくは、目鼻の利く県民は、復興バブルの恩恵を受けていたし、いまも受けているということです(このために県内に留まった人も多いと認識しています)。

更に、その復興バブルがそろそろ終わり始めている匂いを感じていること。

ついには、その終わりについて心配している状態も、県民の中の一定数にはあること。

そうした状態を踏まえて、地元新聞が現在の記事にしているという構造です。

こんな基本的な話も認識しないで、福島県民を救えとか、福島の子どもたちに何か出来ることを等という呼びかけも、具体的に意義がある成立はしないだろうということです。

勿論、復興バブルの恩恵とは無縁な人もいるでしょう。でも県内の中で、多かれ少なかれそうした恩恵がないと、事は動いていなかったのが現実です。

そうしたメリットを取りたくて、汚染よりも県内に居続けることを選択したのが、殆どの福島県民ということです。

彼らに、過剰に同情する必要が、もう五年近くも経過した時期にまだ必要なのかと、改めて感じています。


[追記]

こうしたことをまた書いたのは、僕の最近の記事に関して、首都圏から感情的反発が来ていたからです。

過去記事の内容。

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さて、福島の子供達に保養キャンプが先細りという話が大新聞に出ていたそうです。僕はこのことは当たり前の話と思います。保養キャンプをおこなうことや参加したい人が存在はするでしょうが、それをどこまでボランティア的な対応を続けるのかということについて、僕は疑念があります。ウクライナやベラルーシから、圧倒的に貧しい人々を海外で保養させる話は、彼らが現実的に不可能なことを可能にさせるための手助けです。これは理解できます。しかし、現在、国内の多くの団体が、「福島のこどもたちの保養」としておこなっているのは、二泊三日から、1週間程度の山間留学的な話が多いです。これは、その家庭が夏休みとかに旅行するのと、何が違うのでしょうか。福島が極端に日本の中で所得が少ないというような事情でもあれば、ボランティア保養の重要性はわかりますが、そんな経済事情は存在しません。きちんと意識のある家庭なら、多分この程度の保養に当たるような国内での短期間の旅行はおこなうと思いますよ。勿論、そんなゆとりはほとんどない家庭も存在するでしょうが、圧倒的多数は自力でもおこなうことはできる話です。移住とは違うのですよ。短期間のレクリエーションに近い。しかも、ふつうに旅行したら、家族でただ楽しめるのに、「かわいそうな福島のこども」という枠組みの中で、人と関わる話です。子供のことをきちんと考えたら、そんな枠組みのイベント参加させるよりも、家族旅行したほうがいいに決まっています。少し考えたら、わかる話です。最初の頃に、何か手助けをしたいとこういうことを始める感覚は理解はできます。しかし、一度や二度やってみて、その内実が想定と大きく異なることを実感させられて、保養的なことをやめた人々も多く存在することを、僕は以前からいろんな形で聞いています。お金が集まらなくなったから、ボランティアとして続かないという視点よりも、そもそもそれは本当に意味があることなのかという問い直しをすべきことなのです。そうした問い直しが内在していてないことの方が、僕は問題だと感じています。

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「復興バブル後」に関する不安が生じている(主に経済的)話と、他地域で保養という話のボランティアが続かないという話は、表裏一体と思います。

どちらも、他の人々に対して、その懐をあてにしている話と同義です。

そして、そんなことは長くは続きません。

あまりにあたりまえです。

また福島の平均年収は415万円で、僕の田舎である徳島と同程度です。全国30番目くらい。

高くは有りませんが、低すぎる訳でもありません。沖縄は300万円台前半ですから。

こうしたレベルの年収があるのに、何かの対応を自発的に取らない人は、その人たちの判断です。ベラルーシやウクライナの一般的年収とは比較にもなりません。

そして、一週間にも満たない保養など、家族旅行と同じです。そんなことのボランティア支援は続くはずもありませんし、それを続けることは、ほとんどやっている人々の自己満足の世界です。

「保養キャンプのお手伝いをして、真夏に青白い全く日焼けしていない子供たちに接すると、それだけでも必要性は感じます。捉え方、見る角度のちがい、それぞれの情報格差の中でも、求める人がいる限りは、必要だと思います。」

こんなことを書いてきた人間がいたので、場所を確認すると、神奈川県の相模原。汚染地です。そもそも汚染地で保養なんて、成立する感覚が理解不能です。

神奈川西部から、西日本などに避難移住した人々を知っている僕からは、理解不能な感覚です。

僕はそもそも汚染地で保養になるのか? という当たり前の問いをしました。すると。

「木下さんの発信する情報を元に、極論すればそういったクエスチョンになると思います。
しかしながら、少しでも放射線の低い所で、産地に気を配った食事をし、外遊びが出来る事に、価値を見出している方は多くおられるのも現実です。良い事か悪い事かは、ご自身の判断にゆだねるほかない世情には、憤りを感じますが。」

さらにこんなことまで、書いてきました。

馬鹿にはつける薬がありません。

自分達がしているボランティアによる自己満足の充足感が圧倒的に大きくて、そもそも汚染を回避するという本旨は、完全に抜け落ちています。

あまりにも低レベルなこういう人間も平気で存在していることが、こうした福島からの保養関連周りでの話には、本当に多いです。

福島支援しているという自己満足で、自分達の汚染は忘れ去れますから。便利な意識構造ですね。本当に腹立たしい。

ある意味、こんないい加減な感覚を有する間抜けな人間が多くいるから、「福島復興バブル」なる状態が県内で成立し、その蜜に味を占めた馬鹿な連中が、バブル後の心配をしているのが、今の福島リアルということです。

そんなバブルを与えられただけで、実は本質的に自分達の終わりを早めているだけですが、目先に飛びつく愚かな人々は、そんなことにも、勿論、気がつきません。

書いていても、気分がどんどん重くなる話でした。

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