先日、勤務先で教員向けに N-gramを用いたコンピュータ処理による古典研究法の講習をし、例として三経義疏の分析をやってみました。文系のパソコンおたく仲間である漢字文献情報処理研究会のメンバーたちで開発したこのNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)という比較分析法に関しては、2002年に東京大学東洋文化研究所の『明日の東洋学』No.8 に簡単な概説(こちら)を載せ、その威力を強調してあります。それ以来、宣伝し続けてきたのですが、文系の研究者には処理が複雑すぎたため、まったく広まりませんでした。
ところが、一昨年の暮に、上記の主要な開発メンバーであった師茂樹さんが、私の要望に応えてきわめて簡単で高速な形に改善してくれました。その結果、大学院の私の演習に出ている院生たちは、1回講習したらほとんどできるようになりました。そこで、今回は私が所属する学部や他の文系学部の教員向けの講習をやることになった次第です。
NGSMは、複数文献の共通する箇所や共通していない箇所をわかりやす対照表にして示すものです(具体的なやり方は、こちら)。
ここで三経義疏についておさらいしておくと、『法華義疏』が中国南朝の梁における三大法師の1人であって『法華経』解釈を得意とした光宅寺法雲(467-529)の『法華経義記』を種本としており、「本義」と呼んでいることは良く知られています。『勝鬘経義疏』も、「本義」と呼ぶ種本に基づいているものの、その「本義」は不明でした。
ところが、中国の西北端に位置する敦煌から出土した『勝鬘経』の注釈書の中に、『勝鬘経義疏』と7割ほどが一致する写本(E本)があることが発見され、これが「本義」だということになって大ニュースとなりました。ただ、研究が進むにつれ、これは種本ではなく、共通の詳細な祖本があったのであって、それをそれぞれ簡略化したのがE本と『勝鬘経義疏』であるらしいということになり、この敦煌写本研究を主導していた藤枝晃氏は、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本を遣隋使が日本にもたらし、太子はそれを読み上げただけだと説くに至りました。
注釈の中身を読んだ仏教学者の多くはこれに反対していました。ただ、仏教学にも通じていてE本と『勝鬘経義疏』を詳細に比較した古代史学の井上光貞氏などは例外であるものの、経典の注釈などは読まない多くの日本史学者の間では、藤枝説が定説となりました(ちなみに、藤枝氏は世界的な書誌学者ですが、仏教教理の専門家ではありません)。漢文が苦手で仏教学にうとい虚構論者たちは、むろん原文で読むようなことはせず、「三経義疏? この時代に書けるわけがない」「~が捏造したに違いない」などと想像で決めつけただけです。
しかし、『勝鬘経義疏』には和習が多く、中国成立説は成り立たないのであって、これについては私がNGSMを用いて論証し、何本も論文を書きました(こちら)。
三経義疏のうち、『維摩経義疏』だけが「本義」という言葉を用いて特定の注釈を頼りに注釈することをしておらず、その他、書写記録を見ても不審な点があるため、『維摩経義疏』だけを疑う研究者もおりました。実は、私もその1人でしたが、NGSMをやってみて三経義疏の類似度の高さに驚いた次第です。
状況は以上の通りです。『勝鬘経義疏』を「勝」、敦煌E本を「E」、『維摩経義疏』を「維」、『法華義疏』を「法」、法雲の『法華経義記』を「義」と略抄し、これらのファイルをNGSMによって4字から8字までの単位で切り出して対照させると、以下のようになります。ローマ数字は、登場回数です。ちなみに、NGSM処理に要した時間は、私のノートパソコンだと10数秒……。
第一初二 ( 勝:4 E:0 維:3 法:14 義:0 )
第一初二行 ( 勝:1 E:0 維:3 法:11 義:0 )
第一初二行偈 ( 勝:1 E:0 維:3 法:6 義:0 )
第一初二行偈嘆 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
第一初二行偈嘆佛 ( 勝:0 E:0 維:1 法:0 義:0 )
これは、「第一初二」という言い方が、勝・維・法に見えていてE本には見えていないことを示しており、この三疏が似ていることを示しています。「第一初二行偈」は6字も共通していますので、これを日本撰述部を含む大正大蔵経データベースのSAT(こちら。数十人で作業しましたが、10数年前にネット公開作業をやったのは、上記の師茂樹さんと私です)、日本撰述部を除く大正大蔵経とその他の中国の多様な仏教文献を含む台湾のCBETA(こちら)で検索すると、なんと、この言い方は三経義疏にしか見えないことが分かります。三疏が類似していることは明らかですね。
次のような用例も興味深いものです。
中亦有二第一正 ( 勝:5 E:0 維:6 法:11 義:1 )
「~の中に亦た二有り。第一は正しく~す」という科文(かもん=経典の内容分類、つまり異様に詳細な目次のようなもの)ですが、こうした分け方はE本には見えておらず、三経義疏と種本である法雲の『法華経義記』に共通ということですので、これをSATで検索すると、用例は本当にこれだけです。つまり、5世紀の末頃から6世紀の初め頃にかけて活躍した法雲の『法華経義記』と三経義疏だけに見えるのであって、三経義疏が等しく法雲の注釈を手本としていたことを示しています。こうした例は、他にも少なくありません。
現代の仏教学では、地論宗の浄影寺慧遠(523-592)、天台宗の天台智顗(538-598)、三論宗の吉蔵(549-623)を隋の三大法師と呼んでいますが、智顗と吉蔵は梁の三大法師の教学を乗り越えようと努めており、小乗の論書である『成実論』を基本としていた法雲の『法華経』解釈を厳しく批判していました。三経義疏は、三論宗系と言われることもありますが、それは吉蔵が古い注釈をたくさん引用しており、そうした古い注釈と三経義疏が一致している部分が目立つためであって、基本的な学風は吉蔵とは異なっています。
さて、『法華義疏』は、7世紀に入って書かれているにも関わらず、100年近く前の法雲の注釈の用語を用いて説明していたのです。実は、これは『勝鬘経義疏』も同様であり、三大法師の一人である僧旻の『勝鬘経』注釈に基づいていた可能性があることが指摘されています(こちら)。
三大法師が活動した梁は、史上最も仏教を尊崇して「菩薩天子」と称され、経典の講義をしたり注釈を書いたことで名高い梁の武帝(464-549)の治世です。武帝の長男であって賢明さで知られた昭明太子(501-531)も経典の講義が巧みであって、法雲に賞賛されています。
聖徳太子は、おそらくこれをめざしたのですね。津田左右吉は、太子を神格化しようとする僧侶がこうした例を参考にして、太子も講経したと記したのだろうと見たのですが(幅広い東洋学者なればこその推測であって、さすがです)、太子は朝鮮諸国に見せつけるためもあって、講経や注釈作成を実際にやったものと思われます。百済や高句麗の僧を家庭教師としてのことですが。
和習の例としては、
漢中之語 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
漢中之語外 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
漢中之語外國 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
漢中之語外國云 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
の「漢中」もその一つです。「関中」なら長安など中国中央の地を指しますし、「梵漢之語」「胡漢之語」などの言い方はたまに見られますが、中国のことを「漢中」と呼んで「これは、漢中の語であって、外国では~と言う」などと述べているのは、検索すればわかるように、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』だけです。
和習というのは、中国の標準的な漢文と異なる変格語法ということです。百済や新羅の資料にも変格語法は多数見られますが、『勝鬘経義疏』のうねうねと続く長い文章は、『源氏物語』の文体のようであって、百済や新羅の変格漢文では見たことがありません。これについては、香雪美術館での講演で述べました。いずれ書きます。
三経義疏に関する私の論文については、このブログの作者の関連論文のところにリンクを張ってあるうえ、また論文を発表する予定です。関心のある方は、自分で NGSMを使って三経義疏を調査してみてください。
【付記:2021年2月3日】
私はこれまでの論文では、三経義疏は変格語法が目立つため、中国撰述説は成り立たないと論じてきましたが、日本成立、太子の作とまでは書いていませんでした。しかし、調査していて『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の類似をいくつも見出した結果、「百済・高句麗の僧に指導されて「本義」を読み、それを略抄しつつ自分の意見をはさむ形で太子が書いたと見てよい」と考えるようになりました(むろん、「憲法十七条」も百済の学者などの指導のもとで太子が書いたという立場です)。ただ、宮内庁本の『法華義疏』は太子自身が筆をとって書いたのではなく、草稿本を側近が書写した可能性が高いと見ています。
異質な点がある『維摩経義疏』については検討すべきことが多いのですが、『勝鬘経義疏』『法華義疏』ときわめて似ていることは確かです。太子の作ということはあり得ますし、そうでない場合は、『勝鬘経義疏』『法華義疏』を読みすぎてその用語・文体でしか書けなくなった人の作ということになるでしょう。
いずれにしても、これまで指摘されているように、三経義疏は梁の三大法師の教学が基本となっており、隋の新しい教学は反映されていません。さらに唐代になって645年から玄奘の画期的な新訳が登場するようになった後で、こんな古い学風・用語で書くのは無理であることは、現在の大学生に明治の頃の学者の論文に似せた形で文語文で卒論を書けというのと同じです。書いたとしても、ボロだらけになるでしょう。
【付記:2021年2月16日】
上の記事では、三経義疏をきちんと読んでいた日本史研究者として、井上光貞氏と曾根正人氏をあげてありました。曾根さんは実際に三経義疏を読んでいたものの、外国僧を主とする太子学団作成説を唱えた井上氏と違い、結論は中国撰述説だったので、誤解を避けるために上の部分から曾根さんの名前を削除しました。着実な研究者である曾根さんの主張については、大昔にN-gramがらみでブログで書いていましたので、ご参照ください(こちら)。当時に比べ、N-gramが簡単に使えるようになりましたので、研究者の意見も変わるでしょう。なお、曾根さんは、この問題を論じるには仏教学のかなりの素養が必要だと判断したのか、最近は難解な唯識論書の注釈に仲間で取り組み、そちらの成果を次々に発表しています。
「三経義疏」カテゴリの最新記事
- 『法華義疏』は隋に派遣された留学僧が帰国する推古末年以前の作:井上亘「御物本...
- 『勝鬘経義疏』を尊重した唐の僧侶の注釈:楊玉飛「明空撰『勝鬘経疏義私鈔』の注...
- 三経義疏は梁以前の学説に基づき、同一人物によって書かれた:木村整民「聖徳太子...
- 三経義疏に関する最新の研究状況を「中外日報」紙に寄稿
- 三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然
- 義疏の内容に踏み込んだ田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序)」
- 拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」の刊行
- 三経義疏の変格語法に関する論文の続編を提出
- 中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経...
- 中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経...