蘇我氏と並ぶ豪族であって、仏教導入に反対したとされる物部氏に関する本が一作年に出てます。
篠川賢『物部氏』
(吉川弘文館、「歴史文化ライブラリー」545、2022年)
「歴史文化ライブラリー」は、吉川弘文館などから出版された高価な研究書を一般向けにまとめた例が多いです。研究書で書き残したことを補足していることもあるため、こちらの版も読む価値がある場合が少なくありません。
そうしたこともあってか人気のシリーズなのですが、私が出した世界唯一の「ものまね芸」の歴史書、『<ものまね>の歴史―仏教・笑い・芸能―』は売れませんでしたね。テレビでこれだけたくさんものまね番組をやっているのに。名をあげたものまね芸人・歌手・タレントなどには送ったものおn、返事をくれたのは、団しん也や小堺一機など、ごく一部の人だけだったし。
愚痴はともかく、本書は『物部氏の研究』(雄山閣、二〇〇九年)を発表している篠川氏が、新たな研究成果を踏まえ、物部氏に関する伝承、実際の成立、全盛期、守屋の敗北と衰退と、幅広く検討しており、有益です。ただ、このブログは聖徳太子ブログですので、太子に関係する部分だけとりあげます。最初は、「全盛期の物部氏」章のうち、「尾輿の登場と欽明紀の「崇仏論争」記事」「守屋と蘇我馬子」の部分を見ていきます。
守屋の父である尾輿が大連になったことが明白なのは、欽明即位前紀が、大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稻目を大臣とすること故(もと)の如しと記していることです。『日本書紀』では、欽明以前の記述には尾輿が大連に任命されたとする記事はありませんが、これは事実なのでしょう。
その金村の失脚については、任那四県の割譲事件とは無関係とする説があるものの、篠川氏は、金村が外交問題で失脚したこと、物部氏と対立関係にあったことは事実と見てよいとします。
崇仏論争については、説話的な語りから見て事実のままとは考えられないとします。物部氏は百済外交に深く関わっていた以上、仏教受容に反対したとは思われないとするのです。そして、物部氏や中臣氏が廃仏派とされたのは、『日本書紀』の編纂段階ではこれらの氏が神祇祭祀に深く関わっていたためだろうとするのですが、推測が多いですね。
篠川氏は、平林明仁氏の説、つまり、物部氏は仏教の受容それ自体に反対したのではなく、天皇自身が仏教を崇拝すること、また、天皇の許可を得て蘇我氏が仏教を公的に崇拝することに反対したのだという説について、「公私」の区別が不分明だと批判しますが、どうでしょうかね。そうした形が当時の「公私」のあり方だったとも言えるでしょう。
私は蘇我氏主導で仏教導入が進んでいくという点も、反対理由の一つ考慮して良いと考えていますし、『日本書紀』が説くような形ではないにせよ、仏教に反対する勢力が存在したとしても不思議はないと考えてます。
次の守屋については、大連の位についたという記事は無い者の、敏達元年に守屋をその職に任命すること「故の如し」とあることから見て、疑う理由はないとします。一方、馬子はこの時初めて大臣に任じられたとしていることも、事実の反映の証拠と見るのです。そして、物部氏に関する記述が少ないことについては、欽明朝中頃からは蘇我氏の勢力が物部氏を上回ったためと説きます。
そして、守屋・馬子時代の崇仏論争については、その部分の『日本書紀』には話の筋から外れた記述が含まれており、信憑性を考える必要があるとします。馬子が父稻目が信仰した仏を祭ることを許され、石像を礼拝したあるが、石像は馬子が入手して自らが建てた仏殿に置いた石像であるため、いくつかの伝承を結びつけて作成した記事の不自然さを示す例としています。
そして、『日本書紀』編纂段階で作成された崇仏論争記事のほかに、蘇我氏の仏教崇拝や他の氏の反対という伝承は複数存在していたとし、仏教受容は倭国政権が外交方針として決めたことである以上、蘇我氏だけが仏教を推進したとは考えられないとします。それはそうですが、外交方針として実施されても内部で異論があるのは、現在でも同じでしょう。
次に、敏達の崩御記事については、文脈からすれば「仏罰ということになるのであろう」と述べています。「仏罰」という語を使う研究者は多いですが、この語は古代には見えていません。そうした語を用いるのは問題でしょう。
篠川氏の記述のうち、納得できるものとしては、敏達紀に百済から来た日羅のもとに「物部贄子連」など3人を派遣して国政を問わせたとあり、日羅が殺されると「贄子大連」らが埋葬したという記事から見て、大夫(マヘツキミ)であったとし、当時の物部氏は一族から2人を出して政治に参画させていたという指摘ですね。
]]>『日本書紀』には、法隆寺の火災の記事はあるものの、飛鳥寺などと違って創建記事がありません。このため、いろいろと疑われてきたのですが、『日本書紀』で創建記事が記されていないのは、実は天智天皇の創建寺院も同様でした。この問題を追及したのが、
中野高行『古代日本の国家形成と東部ユーラシア<交通>』「第四章 天智朝創建寺院と正史」
(八木書店、2023年)
です。
『日本書紀』天武9年(680:本が「六六〇」としているのは誤記)四月是月条では、「国大寺」である「二三」の寺以外は「官司」が治めることを禁じています。その「二三」の寺については、天武14年(685)9月丁卯条では、天皇の病気回復を祈り、「大官大寺・川原寺・飛鳥寺」で経を読ませ、稻を布施したと記されていますので、この三寺とみるのが通説です。
持統天皇即位前紀:朱鳥元年(686)12月乙酉条では、天武天皇の百ヶ日法要が、「大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」の「五寺」で行われています。
これらのうち、豊浦寺は蘇我稻目が向原の家を喜捨して寺とし、それが後に桜井道場(豊浦寺)となったとされています。飛鳥寺は有名なので略。阪田寺は、推古天皇が飛鳥寺の仏像造顕と納入の褒美として水田を布施したため、鞍作止利が天皇のために金剛寺を建てたとされています。
大安寺は、舒明天皇が創建した百済大寺であって、後に移築して大官大寺となったものですね。弘福寺(川原寺)は不明であって、斉明天皇の崩御の後に中大兄が建立したという説が有力です。薬師寺は、皇后が病気になったため、天武天皇が発願して建立しています。
つまり、これらのうち、川原寺だけ創建記事がなく、これは天智天皇建立とされる崇福寺、筑紫観世音寺も同じです。ということは、法隆寺(若草伽藍)と同じ状況ということになります。
法隆寺は、天武朝から奈良初期にかけては、国家から特別待遇を与えられていませんでした。このため、山部氏など、上宮王家と関係深い斑鳩の豪族たちが法隆寺を再建し、支えたとされてきましたが、豪華な壁画などから見て、国家的支援があったとする説もあります。また、考古学の森郁夫氏などは、7世紀後半から8世紀初めの頃になって斑鳩で一斉に再建法隆寺式の軒瓦を用いた寺が整備されていくことに注目し、官が関わっていたと推測しています。
ここで中野氏が注目するのは、上宮王家の名代が敏達の皇子である押坂古人大兄皇子の孫たちに受け継がれているとする武光誠氏の指摘です。つまり、太子の子のうち、山背大兄の壬生部は古人大兄皇子に、長谷王の長谷部は間人皇女に、財王の財部は宝皇女(皇極天皇)に、長谷王の子である葛城王の葛城部は葛城皇子(天智天皇)に受け継がれているのです。
(本では、武光誠註(34)参照としてますが、(32)です。こうしたミスが目立つ)
このことから、中野氏は、創建法隆寺も、上宮王家が亡びた後は、敏達の曾孫世代に継承されたのではないかと推測します。
再建法隆寺については、若草伽藍が焼ける前に西院伽藍の地に金堂を立てる企画が動き出していたとする説も有力ですが、中野氏は、敏達曾孫世代の代表である天智天皇がその企画を推進した可能性があると見ます。
伽藍配置でいうと、崇福寺は川原寺式、筑紫観世音寺は法起寺式であって、法起寺式は再建法隆寺が金堂が西で塔が東であるのと東西が反対ですが、金堂と塔が横並びである点は共通しており、これは舒明天皇の百済大寺以来のものであって、それまで百済影響ではなく、中国の影響であることが知られています。
天智朝の天皇発願寺院は、いずれも親の追善のために造立されているため、再建法隆寺もこの系統が推進したなら、舒明→皇極→天智の系統が上宮王家の人物を追善したのではないかと、中野氏は説きます。
そして、これらの寺の創建記事が『日本書紀』に見えないのは、近江朝廷の文物が失われたためである可能性に触れます。いずれにしても、『日本書紀』は厩戸皇子と中大兄M子を重視しておりながら、この二人の皇子と関係深い寺院の創建について記していないことに注目すべきだというのが、中野氏の結論であり、今後の課題としたいと述べて終わっています。
]]>中世の聖徳太子信仰は泥沼なので手をつけたくなかったのですが、事情があって調べざるを得なくなりました。その方面の最近の論文は、
堀 裕「掘り出される石の讖文―聖徳太子未来記と宝誌和尚讖―」
(佐藤文子・原田正俊・堀 裕編『仏教がつなぐアジア―王権・信仰・美術―』、勉誠出版、2014年)
です。
堀氏は、太子の予言に関する研究史の紹介から始めます。そうした研究は戦前から始まってますが、『日本書紀』では「未然」を知るとされていただけであったものが、南岳慧思の生まれ変わりとされた宝亀10年(779)の『唐和上東征伝』では200年後に「聖教」が日本に興ると預言したことになり、平安時代の『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』では平安遷都などの予言もするに至ったことが指摘されています。
中世にはさらに「未来記」などと称される太子の予言が次々に現れますが、寛弘4年(1007)に四天王寺で発見されたとする『四天王寺縁起(四天王寺御手印縁起)』、天喜2年(1054)に太子の墓の周辺で発見されたという長方形の石の箱と蓋に記された「御記文」がひとつの画期になっています。堀氏は後者を「天喜記文」と呼び、考察していきます。
「天喜記文」以後にも、この地から石製ないし石製と思われる予言の文が発見されています。堀氏は、石製という点に注意し、梁の神秘的な僧とされた宝誌の讖文、つまり予言との関連を検討していきます。
『四天王寺縁起』では、四天王寺の寺物を奪うような者には四天王が怒って罰するとし、仏教を交流する者がいたらそれは我が身だと説いています。これは当時の権力者で仏教熱心だった藤原道長を意識した言葉とされています。ただ、これは紙に書かれたものでした。
一方、太子の墓所の聖なる性格を強調する「天喜記文」は石製です。中国では唐代にめでたい言葉を刻んだ石がしばしば出現しており、則天武后の時も「聖母臨人~」と記された石が出ており、武后には「聖母神皇」という号が付け加えられました。武后はこうした事件を背景として弥勒化身として中国史上初の女性皇帝となります。
また、唐代には亀や瑞木などに予言の讖文が記されたものも良く出現しまいた。これらは、王朝交替や王位継承に関わって出現しがちであることが指摘されています。
これらを踏まえ、堀氏は「天喜記文」は石製であって地中から掘り出されたことに注目します。しかも、太子の墓の側から出現しているのです。
さまざまな讖文が仮託された宝誌の場合、唐代には観音の化身とする見方が広まっており、宋初には宝誌のものとされて国歌興隆に触れる讖文が登場していました。そうした宝誌を描いた図や信仰が平安時代には日本にもたらされています。堀氏は、聖徳太子も宝誌同様に観音の化現とされていたことに注意します。
つまり、「天喜記文」は、それまでの太子の予言とされるものと異なり、中国の宝誌の讖文、石に刻まれた讖文との共通性を強調するのです。
ただ、「天喜記文」や『四天王寺縁起』における予言は、四天王寺や太子の墓所を興隆させるためのものでした。以後になると、政権の変化などを予言したとされる太子の予言書が次々に出現するに至るのです。その意味で、「天喜記文」は新旧の太子の予言を画期となるものだったというのが堀氏の見解です。
]]>女帝論の見直しが最近盛んですが、新しい論文が出ました。
浅野咲「大后位の成立と七世紀の王権」
(『ヒストリア』第302号、2024年2月)
です。浅野氏は、立命館大学で学位を得て博士課程を3月に終了したばかりの若手研究者です。
律令制が導入されて以後、初めて皇后になったのは、藤原氏出身の光明子でした。それまでは「大后」は王族女性に限られていたということで、光明子が皇后となったのは異例とされてきました。また、大后は皇后の前身であり、共同統治者であるとするような見方もありましたが、浅野氏は疑問を呈します。
最近の研究では、「大后」は天皇ないしそれに準じる人物のキサキに対する尊称であって、天皇の嫡妻、天皇の生母のような特定の身分を指す語ではないとする説が有力になりつつあります。
ただ、浅野氏は、それを認めたうえで、「令制以前に特別な地位にあったキサキが存在した可能性は残されている」と説きます。
『日本書紀』では「大后」の語は五例のみです。ほぼすべての天皇ニツイテ皇后を立てたとする記述がありますが、皇后号は飛鳥浄御原令での成立と考えられているため、『日本書紀』における皇后という語は、編者が統一したものと考えられます。ただ、「大后」とあったものを皇后に変えたと決めつけることはできません。
浅野氏は、遠藤慶太さんの整理にもとづいて、三つの段階を提示します。A(神武~応神):次代の天皇の生母が皇后とされ、皇女のキサキは存在しない。B(仁徳~安康):皇女と天皇の生母が皇后とされた。C(雄略~天武):皇女もしくは二世王・三世王の王族女性が皇后とされ、天皇生母でなければ皇后とはされない。例外は僅かにあるものの、以上の三分類です。
浅野氏は、生まれながらに王族であって皇后と記されるキサキと、天皇生母とでは、性格が異なるため同列に扱うことはできないとします。
浅野氏は、推古以前の状況について詳しく論じていますが、ここでは省いて額田部(推古)をとりあげます。額田部については、敏達の存命中にキサキとして国政に参加した経籍がないとします。そして、『古事記』においては、額田部が「大后」であったことをうかがわせる記述がないとします。
なお、『隋書』における倭王の男性の名前であることについては、「アメタリシヒコ」のよう男性を示す王号が使用されていた可能性を指摘します。
そして面白いのが、聖徳太子の子である泊瀬王は膳氏の母から生まれておりながら、馬子の娘である刀自古の郎女と聖徳太子の間に生まれた異母兄の山背大兄の即位を支持し、「我等父子は、并蘇我よりして出づ」と述べており、母方の系譜を重視していることです。浅野氏は、この段階でも王族は母方氏族と未分化であって、母方への帰属意識を持っていたと説きます。
そして、このブログでも何度かとりあげた近親結婚については、敏達―彦人大兄―舒明―中大兄の系統だけでなく、聖徳太子―山背大兄―……の系統でおこなわれており、これは父方による王統の確立と財産の分散を防ぐためと見ます。しかも、上宮王家も舒明系も支配地を増やしていました。
つまり、王族の中でもこの二つの系統は対立要素を含んでいたのです。上宮家討伐については、浅野氏は、『藤氏家伝』の記述から、軽王の関与も認めます。王統を敏達系に限ろうとする動きがあったのであり、しかも滅ぼされたのは蘇我本宗家だけであって、蘇我氏でも倉山田石川麻呂は大臣となっています。
『藤氏家伝』では、鎌足が中大兄に石川麻呂の娘との婚姻を進言したという記述もあります。有力氏族の娘をキサキとしていることも重要だったのです。
浅野氏は、こうした状況において、王族のキサキを特別な位置に置こうとする動きが「大后」という位を生んだと推測します。しかも、生母が大后であることは、その皇子の即位を保証するものではなかったのです。この後、浅野氏は7世紀後半のあり方を検討していきますが、略します。
浅野氏は、「おわりに」において、王族の「大后」が視されていたのは7世紀のみだって、律令制によって嫡妻の制度が定められ、また皇親の範囲が定められた結果、父系集団を形成するための近親結婚は不要になり、王族出身の大后を立てる必要もなくなったため、光明子のような王族でない皇后が誕生するにいたったと説きます。
末尾で「推論に推論をかさねた」と述べており、その面は確かにありますが、大后を皇后の前身と単純に位置づけることはできないことは確かですね。これは、推古天皇について考える場合、重要な点です。
]]>
小宮秀陵「6世紀新羅における大王号の使用とその意義」
(佐川英治編『多元的中華世界の形成―東アジアの「古代末期」―』、臨川書店、2023年)
です。小宮氏は、ソウル大学で学位を得た朝鮮古代史研究者です。
新羅は高句麗に従属していた状態から脱し、高句麗に対抗できる国家として自立すると大王(太王)を名乗るようになります。この王号に関連して様々な改革がなされますが、この問題を検討したのが、
です。小宮氏は、ソウル大学で学位を得た古代朝鮮史の研究者です。
新羅で大王号が用いられたのは、智証王の時代(500-514)からです。智証王は503年に臣下たちから「新羅国王」という尊号を献上され、新羅が成立します。臣下の奏上では、「羅」については、「四方を(網)羅するの義」と述べていました。つまり、小中華ですね。
それ以前、中国北地を押さえていた苻堅は、初めは皇帝を名乗らず、「天王」と称していました。また、高句麗でも4世紀から「太王」を名乗るようになっていました。北方遊牧民族が支配した北魏でも、皇帝号と遊牧民族の長の称号である可汗を使い分けており、北燕までは遊牧民族系が支配した国では「天王」や皇帝を名乗る国が興亡を繰り返していました。
新羅では、智証王の次の法興王の代(514-540)に「寐錦+王」という新羅語と漢字の「王」を組み合わせた称号が見えています。これは、それ以前の新羅では、高句麗王を「高麗大王」と呼び、新羅の王については「新羅寐錦」などと称していたものです。
それが535年の川前里書石の銘文では「聖法興大王」、539年の川前里書石の追銘では法興王の妃を「太王妃」と称しています。この時期に伝統的な寐錦から大王号に返歌したのです。小宮氏はこの箇所では触れていませんが、この法興王は仏教を導入して盛んにした王であることが注目されます。
さて、高句麗では大王と名乗りつつ伝統的な観念に基づき、高句麗の始祖については「天帝之子」「日月之子」などと称していました。これは『隋書』に見える第一回目の倭国の使使いが述べた「倭王は天を兄とし、日を弟とする」という言葉を考えるうえでも重要ですね。
法興王は、大王号を用いた翌年、建元(536-550)という年号を立てており、これが真興王まで続き、真興王は、開国(531-567)・大昌(568-571)・鴻済(572-584)という三つの年号を用いています。
法興王は、その前の520年に律令を発布して公服と位階を定め、527年の異次頓の殉教をきっかけとして仏教公認をしています。つまり、これらは連動した出来事だったわけです。
法興王を受け継いだ真興王は、国史の編纂を進めています。この時期に百済は領地を広げており、565年には北朝である北斉から冊封を受けるに至っています。その前の561年に支配した伽耶の地に立てられた石碑には、「四方軍主」という語が見えており、小中華主義がうかがわれます。
なお、新羅では中国皇帝のように「詔」の語を用いることができなかったため、「教」を用いていましたが、国王だけでなく、王族もこの語を使っていたのが、6世紀半ばにかけて、国王だけが「教」の字を用いるようになる由。
「太王」とか「大王」と記された真興王が征服した土地を巡狩して立てた石碑には、「道人」とか「沙門道人」などの語が見えており、磨雲嶺碑・黄草嶺碑では、法蔵と慧忍という僧侶の名が従者の筆頭に、つまり貴族たちより先に置かれています。彼らが中国思想と仏教に通じていて文章なども担当したのでしょう。
この論文は最近の研究成果に基づいて興味深い指摘が数多くなされており、有益です。倭国の王号・年号・外交・制度改革・国史編纂などを考えるには必読ですね。朝鮮諸国の上に立っていることを自負していた倭国が、上記のような動向を目にして、それに対抗しようとしないはずがありません。
]]>前々回取り上げた大津氏編集の本の中から、次に紹介するのは、
榎本淳一「倭の五王と遣隋使」
(大津透編『日本史の現在2 古代』、山川出版社、2024年)
です。榎本氏は東アジアの外交史の代表的な研究者の一人です。
この本は、教科書に書かれていることを補足したり、新しい説を紹介するという立場で書かれているため、ここでも教科書の説明を示したうえで、最近の研究や自分の考えを述べています。
まず、倭の五王については、倭王が宋に欲張りな称号を求めたことが有名ですが、榎本氏は、『宋書』倭国伝によれば、五王のうちの珍について「倭隋等十三人を平西・制虜・冠軍・輔国荘厳の号に除正せんことを求む」とあり、配下の者たちにも将軍の号を求めたことに注意します。
つまり、五王の朝貢は、自らが安東大将軍に任じられて朝鮮諸国に誇示するためだけでなく、配下にあった国内の有力者たちを序列化しようとしていたという点に着目するのです。しかも、雄略天皇と推定される「ワカタケル」の名が刻まれた鉄剣などが東国と九州から出ており、倭王武は東北南部から九州中部に及ぶ地域を支配し、土地の有力者を「杖刀人」とか「典曹人」などといった形で職務を与えていたことが分かります。
五王以後、中国への使節が送られていませんが、榎本氏は、「武」の479年の宋への派遣が最後となったのは、派遣の目的が達成されたためと見ます。この「武」、つまり雄略天皇の時に「治天下」という語が鉄剣や大刀に刻まれたことを重視し、また、『万葉集』などが雄略朝を自分たちが生きる時代の始まりと認識していたことを重視するのです。
そうした状況で、中国では南北朝が隋によって統一されると、東アジア諸国は急いでこれに対応します。倭国も、中央集権を進めると同時に隋に使節を送ります。600年の第一回の派遣で受けた衝撃で、倭国の礼制などが進んだとされていますが、榎本氏は、留学生なども送っていない以上、この時に多くのことがもたらされたと見る説については慎重です。
倭国がおこなった隋との交渉が対等外交であったかどうかについては諸説ありますが、榎本氏は、少なくとも中国との明確な上下関係を避けようとする傾向があったとみなし、隋は倭国を朝貢国とみなしたものの、倭国がそう自認したことについては疑問がるとします。
第一回目の遣使が衝撃を与えたことは事実であるものの、推古朝の冠位十二階にしても礼制改革にしても、内容は隋代のものでなく、それ以前の南朝の影響が濃いことを榎本氏は指摘します。外交儀礼の整備に利用されたと言われる『江都集礼』にしても国家儀礼を定めた礼書ではなく、これがもたらされたとしても、それだけで外交儀礼を整備することは不可能であったと説きます。
また、『隋書』では隋使を鼓角を奏して隋使を出迎えたとしており、これが第一回目の遣使がもたらしたとされてきましたが、榎本氏はこの記事は信用できないとし、短期間しか滞在していない第一回目の使節が隋の礼制・楽制をどれまで摂取・将来できたか疑問とします。
第二回・第三回の遣隋使については、聖語藏に残る隋代の写経などから見て、留学僧が仏教を学んで来たことは確実とします。仏教以外の広範囲の書物も持ち帰っており、その中には隋の『大業律令』も含まれており、これが飛鳥浄御原律令の編纂に利用されたと推定します。
最後に、遣唐使の意義が強調されがちであるが、この第二回・三回の遣隋使の役割も大きかったとしてしめくくっています。
なお、聖徳太子については、太子が外交を主導したとする見方については疑う説もあると述べるのみで、詳細な検討はしていません。全般に、穏当な議論と思われます。
]]>毎月ネット連載している「仏教のヨコ道ウラ話」に、先月は「「憲法十七条」は白い鹿の角の根にあった字に基づく?」(こちら)というエッセイを掲載しました。タイトルの通りで、『大成経』に収録された『五憲法』の由来話です。「根にあった」と書きましたが、鹿の角のどこに字があるかは、版によってさまざまでした。
『大成経』では、聖徳太子の主な事績は、第「三十六巻から三十八巻までを占める「聖皇本紀」に書かれています。この「聖皇本紀」は、延宝5年(1677)に江戸室町の書肆、戸嶋惣兵衛が刊行し、延宝7年にも(1679)にも出版されています。人気ぶりがわかりますね。
『大成経』は結局は禁書とされましたが、その人気は近代以後も続いており、四天王寺のすぐ側で太子会を組織して活動していたいた上西眞澄が熱烈に信奉しており、延年5年版の「聖皇本紀」を皇紀2600年、つまり昭和15年(1940)に影印版で刊行しています。
写真のうち、右側の写真は、は添付されていた聖徳太子の合掌像です。大阪願泉寺の所蔵である由。願泉寺は、大阪貝塚にある真宗本願寺派の寺です。真ん中は、延宝5年本の影印。左側は、昭和8年(1933)に満州国から献上され、春日神社に下賜されてそこで飼育しているという白鹿です。いるもんなんですね。
この本は、寄付を募って出版されたため、本の末尾には、「勧進録」が附され、喜捨した人たち108名の名が記されていました。その筆頭にやや大きな字で記されているのは、桃谷順一。化粧品会社の社長ですね。「勧進録」によれば、『神代皇代大成経序伝』は既に出版し、神宮を初め寺社に献納した由。
私は、『大成経』については、聖徳太子の本名を「厩戸王」と推定したものの、論証できずに終わった真摯な研究者、小倉豊文がその「憲法本紀」に説かれる『五憲法』に強く反発していたことがきっかけで調べるようになりました。調査しないと……。
当初は小倉がなぜそこまで反発するのか分からなかったのですが、広島高等師範の教員だった小倉は、戦争が激しくなって学生が工場動員されて暇になったため、四天王寺に入りびたり、聖徳太子の真実の姿を解明しようとしていたら、四天王寺のすぐ側である「天王寺町二五八四番地」に事務局を置く太子会が『五憲法』を広める運動が展開していたのですから、いらついたのは当然でしょう。
上西のこの本には、太子会が定期刊行している『勝鬘』という名の聖徳太子鑚仰パンフレットのようなものが付属してました。昭和13年8月13日刊行版です。第1面では上西が「憲法本紀」の意義を説いており、山内藤馬という教育関係者らしい人物が、大阪財政経済協会理事長という肩書きで、「勝鬘を推奨す」という短い宣伝文を載せており、『大成経』を賞賛して「国難」の時期なればこそ重要とし、「教育者諸君へ特に本誌の購読を推奨する」と述べています。いや、怖いなあ。
その『勝鬘』の後には、昭和13年2月15日づけで「内務大臣 末次信正閣下」あての平野神社の祭神に関する陳情書が載せられており、『大成経』の記述を尊重するよう上申しています。本気なだけに怖いですね。
]]>前回とりあげた本では、大津氏が全体の「序論にかえたい」ということで最初の項目を書いているため、内容を見てみましょう。
大津透「天皇号と日本国号」
(大津透編『日本史の現在2 古代』、山川出版社、2024年)
です。
推古朝説と天武朝説があり、教科書でも両方を並記していると述べることから始めています。そして学説史を簡単に紹介し、唐代の髙宗が天皇と呼ばれたことについては、髙宗を天皇、武后を天后と称しただけであって、皇帝号はそのままであったため、この髙宗の「天皇」の影響とする説を坂上康俊説によって否定します。
ついで、「天皇」の語が見える「天寿国繍帳銘」については、美術史では推古朝と見ているうえ、冒頭の系譜の形式は推古朝にふさわしいとする義江明子説を支持します。
そして、隋に送った「東天皇」国書については、「日出処天子」国書が無礼とされたため、へりくだった表現にした「東天皇」国書が出されたという説に賛成します。もと「大王」とか「天王」とあったののを『日本書紀』が書き換えたとする説については、それでは後退しすぎたことになるため、実際に「天皇」の語が用いられていたと見る堀敏一説を師事します。
ただ、その称号を隋が認めていたかどうかは疑問が残るとし、ただ、「天皇」の語は対外交渉の場で使われはじめたと推測します。ここは大津氏の判断ですね。
スメラミコトについては、「スメラ」は「澄む」の語や鏡と結びつけて王の清澄さ、神聖さを述べた語だとする西郷信綱説を示し、神話に基づく皇統を指す語らしく、推古朝以前の成立であり、これに対応する語として「天皇」号が考えだされたのだろうと推測します。
これは1975年の説に基づく推測ですが、そうであれば、『日本書紀』では清澄さと皇統が結び着くことを強調した記述が何度も出てきそうなものですが、そうなっていません。また、「スメラ」は須弥(スメール)山に基づくとする森田悌氏の説(こちら)も考慮されていません。
日本国号については、「日辺に在る」とする『旧唐書』が適切としたうえで、日本国内にいれば太陽はさらに東から昇るのであって、日本国内から昇るわけではないとする平安期の『日本書紀』講書の記録に触れ、「日本」はあくまでも中国から見た呼び方であり、「東方、極東を指す一般名詞だったらしい」と説きます。
しかし、隋唐の文献、あるいはそれ以前の中国古典で「日本」をそうした意味で用いた例があるのでしょうか。
大津氏は、武后の時代から30年ほどしかたっていない『史記正義』が「武后、倭国を改めて日本国となす」などと述べていることから、大宝の遣唐使が日本国号を伝え、武后がそれを承認したのであり、これも対外の場でのものと説きます。
国内での呼び方としては、天武3年(674)に対馬が銀を貢上したことを『日本書紀』が「倭国」に銀が出た最初と記していることから見て、この時はまだ日本国号はなく、大宝律令で正式に制定されたとします。
律令制下の国号の問題などは略します。「参考文献」は、大津氏自身の論文以外は、20年以上前のものが多いです。そうでないのは、このブログでも紹介して高く評価した河上麻由子さんの2011年の論文くらいですね。そのような諸論文と自分の研究に基づいて、1999年に『古代の天皇制』(岩波書店)を出し、以後はその概説はされているものの、大きな進展はしておられないことが推察されます。
]]>古代史研究の状況を示すため、重要な項目について分担執筆で編集された本でありながら、聖徳太子の項がない本が今年になって出版されました。
大津透編『日本史の現在2 古代』(山川出版社、2024年5月)
です。山川は、吉川弘文館などとともに日本の代表的な歴史出版社ですし、かつ、圧倒的なシェアを誇る高校教科書で「厩戸王(聖徳太子)」という表記を用い、「厩戸王」という呼び方を広めた会社ですね。
編者の大津氏の「あとがき―付、聖徳太子をめぐって」によれば、「執筆者が得られず、残念ながら立てられなかったテーマがある。それは聖徳太子であり、なぜ近年の高校教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記するのかという問題がある」と述べています。そこで、この「あとがき」を取り上げてみます。
この記述は、古代史学界にとって恥ずかしいことですね。諸説があるのだから、諸説を紹介すれば良いわけでしょう。それができないというのは、それぞれの説についても自信をもって評価できないということですね。それで良いのでしょうか。専門分化が進み、いろいろな領域にわたる聖徳太子全体について書ける若手がいなくなったのか。
そもそも、この「あとがき」にしても、大山説を批判する形ではありますが、「聖徳太子の本名である『厩戸王』を用いる方が、学問的に見える」と書いてますが、この呼び方は古代の文献に見えず、「本名」である証拠はありません。「大山氏が本名だと思い込んでいる」などと書くべきでしょう。
大山説に反論した本として、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館、二〇〇七年)、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書、2000年)、東野治之『聖徳太子―ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書、二〇一七年)、同『法隆寺と聖徳太子―一四〇〇年の史実と信仰』(岩波書店、二〇二三年)を引いてます。
すべて古代史研究者の本であって、拙著や拙論を含め、仏教研究者の本や論文については、聖徳太子を擁護する僧侶や僧侶学者のかたよった説とみなして相手にしていないのか、まったく触れていません。しかし、古代から中世にかけては、仏教が圧倒的な勢力をふるっていました。その仏教の研究者の成果を無視して古代や中世の歴史を語ることができるのか(ちなみに、私は駒澤大学仏教学部の教授でしたが、寺とは関係ありません)。
このブログで何度も触れたように、古代史の代表的な研究者の一人であった井上光貞先生は、東大の学生時代は印度哲学科の講義にも出席し、『勝鬘経義疏』中国撰述説が出た際は、『勝鬘経義疏』をよく似ている敦煌写本を比較して読み直すなどしており、また平安浄土教についても仏教学者が高く評価する研究書を書いていました。それだけの仏教の素養があったのです。
現在、古代史研究者で三経義疏をきちんと読んで論文を書ける人はいるのか(曽根さんは、そちらの研究はもうしておられないようですね)。また、「憲法十七条」について論じるには、中国思想の知識も必要です。
「憲法十七条」に関して私が最も高く評価するのは、日本思想史の村岡典嗣の戦時中の論文ですが、村岡は、中国思想の影響を細かく確かめつつ、仏教を主軸とすると説いていました。聖徳太子について触れている最近の古代史学者の論文で、中国思想の影響について詳しく論じた論文は見たことがありません。
「憲法十七条」に対する中国思想の影響という点では、このブログでも法家の強い影響を指摘した山下洋平氏の論文を紹介して高く評価しました(こちら)。この論文は『日本古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院)に収録されましたが、本年3月の刊行ですので、本は間に合わなくても、論文は数年前に出てますので参照できたはずです。
また、同じくこのブログで紹介して高く評価した和漢比較文学の岡田高志さんの論文「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」(『古事記年報』第66号)は、「憲法十七条」が重要な箇所で2度用いている表現が、三経義疏すべてに見えるというきわめて重要な指摘をしていたのですが、刊記は2024年3月であって、刊行されたのは実際にはさらに後ですので、参照できなかったでしょう(リンク)が、発表自体は数年前の学会研究会でなされており、話題になっていました。
このほかにも、考古学や美術史を含め、聖徳太子関連でいろいろな分野で重要な指摘をした本や論文は、このブログで紹介しています。要するに、聖徳太子に関しては、このブログをチェックしていれば最新の研究状況が分かるはずなのに、それをやっていないということです。
あるいは、チェックしている人はいるかもしれませんが、大津氏が声をかけた研究者たちの中には、ここで紹介した本や論文をきちんと読んで判断できる人はいなかった、ということになります。むろん、書きたいと思いつつ、多忙のために断った場合もあるでしょうが。
いずれにせよ、率直に言うと、最近の聖徳太子研究、ないし美術史や考古学その他の関連分野の新しい研究成果に関する情報は、このブログが最も詳しいのですから、ここを無視して最新の研究をするのは無理なのです。
大津氏は、「聖徳」というのは死後に贈られた諡号だから使うべきでないという主張については、「聖徳」という呼称は奈良時代に定められた推古などの天皇号より古いことに注意します。そして、奈良朝以後の聖徳太子信仰とは区別すべきだとしつつも、若草伽藍が670年に焼け、しばらくして再建された法隆寺は聖徳太子信仰の寺となったとする東野氏の主張に賛同し、「飛鳥仏教の象徴」としては、やはり「聖徳太子」の方がふさわしいとしています。
しかし、そこまで言うのであれば、なぜ、「厩戸王」が本名であるような書き方をするのでしょう。大津氏は、日中の律令の比較などで画期的な仕事をされた研究者であって、天皇号・日本国号などについても書いておられましたが、かなり前のことであって、最近はやられてないですね。
いずれにしても、この本において聖徳太子の項の「執筆者が得られ」なかったというのは、情けないことであり、古代史研究者たちには反省してほしいところです。「いや、私は大津先生には声をかけられていないが、書く自信がある」という若手には、どのような説であれ、積極的に論文を書いてもらいたいところです。最近、聖徳太子関連の論文は非常に少ないですしね。
なお、執筆者が得られなかったという点は、私が監修した若手による論文集『仏教の近代思想と日本主義』(法藏館)も同じであって、臨済宗の日本主義について引き受けてくれる禅宗史の若手はいませんでした。そこで、やや年代は上であるものの、博学で近代も調べているインド・中国仏教の研究者である大竹晋さんに頼んで書いてもらいました。
この場合、禅宗の僧籍がある研究者や、写本・版本を利用する研究者で禅宗の寺との関係を悪くしたくない人などは書きにくいかったという事情があるかもしれないものの、聖徳太子については、法隆寺や四天王寺の貴重な写本を見せてもらっているので書きにくい、といった人は稀でしょう。
]]>2023年2月に亡くなった早稲田大学名誉教授、新川登亀男氏は、古代の天皇制に関する本を出す予定で準備していたものの、体調の悪さなどもあって実現しないまま終わった由。
ただ、出版社である吉川弘文館に渡していた原稿がかなりあったため、大学の同僚である川尻秋生氏を中心として友人や教え子たちが協力し、未定稿や書きかけのものについて形式面の統一や典故の確認その他、最低限の加筆・訂正をおこなった結果、刊行されたのが、
新川登亀男『創られた「天皇」号―君主称号の古代史』
(吉川弘文館、2024年6月)
です。この本のうち、冒頭の「Ⅰ 二度創られた「天皇」号」については、このブログでも以前、紹介したことがあります(こちら)。今回、いくつかの論考を紹介しますが、最初は、「Ⅳ 「ミコト」と「尊」「命」字称の成り立ち」です。
「刊行にあたって」で秋尻氏も述べているように、「文章のつながりの悪いところや、不完全な箇所」が見られますが、有益な考察もなされているので、紹介する次第です。
この前のⅢの部分で『日本書紀』や『古事記』における君主の称号について検討しています。そのうち、「七 「跏趺坐」する「倭王」」では、『隋書』では倭王は「跏趺坐」するとされていて、結跏趺坐の仏教王のイメージが強いが、「跏趺坐」は「あぐら座」と見てよく、仏教に限定する必要はないと説いています。そして、人物埴輪で足を組んでいるのは、男性ばかりであるため、『隋書』に見える「倭王」は男性と説いています。
それはともかく、「Ⅳ 「ミコト」と「尊」「命」字称の成り立ち」のうち、「一 和語「ミコト」の漢語(字)表記」では、まず、前章における『日本書紀』の「尊(ミコト)」の用例検討をまとめます。つまり、『日本書紀』は天皇の系譜の一本化をはかる際、父子相承でなければならないとし、それに相当する人物を「~尊」と呼ぶものの、兄弟相承の場合はそうしないことが多く、即位しても暗殺されたり欠陥があったりする場合「~尊」と呼ばれない傾向があるとします。
これは重要な指摘ですね。新川氏はさらに、天武天皇の長子である草壁皇子の場合は、特別に「皇子尊」と呼ばれていることに注意します。このことは、これが表記の基準となっていることを示していそうですね。
ただ、玄宗皇帝の勅書に見える「須明楽美御徳」については、日本側が提示した「スメラミコト」を唐の側が好字で表記し、日本はそれを用いるようになったと推測していますが、唐が東海の小国に対してそんな好字をあてるとは考えがたいですし、「コ」の音に「御」を使うなどは日本風としか思われません。
新川氏の指摘で面白いのは、「皇御孫命(スメミマノミコト)」では、ミコトに「命」の字を用い、「尊」の字をあてなかったのかという問題提起です。新川氏は、「~尊」と表記される尊い人物の系譜に属する人物ということで「命」が選ばれた可能性があるとしていることです。これについては、新川氏もちょっと触れているように、最初から漢語表記で創られた語と、和語の尊称を漢語にした語の違いということも考えてみるべきなのでしょう。特に儀礼の際の表現は特別でしょうし。
さて、問題は「ミコト」を「弥己等」と表記し、「命」も「尊」も用いて以内「天寿国繍帳銘」です。新川氏は、この銘文には推古天皇の国風諡号が見えるため、推古の死後の作と推測します。これはいかがなものか。新川氏も気づいているように、「弥己等」の表記は銘文の前半、つまり、欽明天皇と蘇我稻目に始まって聖徳太子とその妃の橘大郎女に至る系譜だけに見えています。この系譜が古い形式を残していることは通説です。
ただ、新川氏の指摘のうち、「ミコト」の語が頻出する銘文において、太子の母、橘大郎女、その父である尾治王には「ミコト」が附されていないという点は重要です。太子の母は欽明天皇の皇女ですし、橘大郎女の父は敏達と推古の間に生まれた皇子です。
欽明天皇も、また蘇我稻目の娘であって欽明天皇の妃となった堅塩媛も「弥己等」と呼ばれており、用明天皇についても推古天皇についても「弥己等」と呼ばれているのに、欽明天皇の皇女である太子の母は、「弥己等」と呼ばれていないのです。このため新川氏は、天皇の系譜に組み込まれた人だけが「弥己等」と呼ばれたと説くのですが、聖徳太子が「弥己等」と呼ばれておりながらその母である皇女が「弥己等」と呼ばれていないのは、確かに気になるところです。
ただ、新川氏は、銘文の後半は間人皇女の死亡で始まっており、その系統が続いてなかったため、「弥己等」が付加されなかった可能性を示唆します。しかし、それを言うなら聖徳太子が「トヨトミミノミコト」と呼ばれているのはなぜなのか。
新川氏は、聖徳太子にしても、後半では「大王」などと呼ばれており、「トヨトミミノミコト」と呼ばれているのは前半だけであるため、前半の系図は「擬古の意図がはたらいていた可能性があろうか」と述べますが、前半についても新しい尊称である「天皇」が用いられていることをどう説明するのか。また、限られた字数にする必要がある銘文で前半だけそうして何になるのか。
新川氏は、その「天皇」の語がかたよっており、欽明には「天皇」が用いられているのに、敏達と用明と推古には付けられておらず、後半では推古を「天皇」と呼んでいることを問題にしたうえで、「治天下」とあるので敏達も用明も天皇であることが示されているとします。
そして、銘文の前半は、君主を「国風諡号+命」の形で示す『古事記』に似ている面があるとし、銘文の「弥己等」は『古事記』の「命(ミコト)」にあたる可能性があるとし、ミコトの本義は「命」であって、「尊」はこれを書き換えたものと見ています。
いずれにしても、『古事記』は天武天皇の時に始まった企画ですので、「天寿国繍帳銘」もその頃の表記が反映していると見るようですが、はたしてそう言えるのか。
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