先に都と寺との関係を論じた吉川真司氏の論文を紹介しましたが(リンク)、その寺の中には宮や邸を寺に改めたものが多いことが知られています。有力な人が亡くなると、追善のためにその邸を寺にするような場合ですね。
この問題を、天皇の宮から寺への改修について検討した最近の論文が、
西本昌弘「桜井三宅・小墾田三宅から豊浦宮(寺)・小墾田宮(寺)へ」
(『奈良県立樫原考古学研究所紀要 考古学論攷』第47冊、2023年9月)
です。
西本氏は、安閑元年(534)に安閑天皇の妃であった巨勢氏の姉妹に対して、小墾田と桜井(向原)の屯倉が与えられたが、蘇我氏が渡来系氏族を活用して山田道沿いに開発を進め、勢力を増すにつれて蘇我氏の管轄下に置かれ、小墾田家と向原家に転化したします。
『元興寺縁起』は後代の造作が多いものの、年代の不自然なところを訂正すれば資料として使えるとする西本氏は、『元興寺縁起』から、蘇我稻目は、欽明妃となった娘の堅塩媛のために向原邸を向原後宮とし、これを桜井に移して桜井道場(桜井寺)としたこと、向原後宮で育った推古はこの宮を伝領し、後に豊浦宮を豊浦寺としたことが読み取れるとします。
なお、「後宮」といっても、中国の宮殿に付属する後宮ではなく、妃の邸をそのように表記していたと西本氏は説きます。これだと、隋使の裴世清が倭王の後宮には女が六七百人いると報告した理由が少し推測できますね。
古代の日本では、皇帝のの巨大な宮殿に多数の妃たちが居住する後宮が設置された中国とは違い、宮殿も掘立柱式でさほど大きくなく、まして巨大な後宮の遺跡などは発掘されたことはありませんが、複数の妃の邸があってそれぞれに女性を中心としてお仕えする者たちがある程度いた場合、それらをひっくるめて後宮と称し、「白髪三千丈」式に大げさに表現すれば、「後宮有女六七百人」といった記述が生まれるかもしれません。
それはともかく、推古が推古11年(604)に豊浦宮から新たに造営された小墾田宮に移り、豊浦宮を豊浦寺としたという伝承は、豊浦寺跡から出る瓦がその頃のものであることから立証されます。
豊浦寺跡からは、石敷など宮の遺跡が発掘されており、豊浦宮跡と推定されていますが、西本氏は、そのさらに下層には桜井屯倉の遺構が埋もれている可能性があるとします。
そして、小墾田宮は稻目の小墾田邸を改めたものであり、一般に言われるほど新しい中国式の宮殿ではなかったろうと西本氏は推測します。その小墾田宮は、推古の没後に寺に改められたのであって、その小墾田寺が現在の奥山廃寺だと西本氏は説きます。奥山廃寺からは、「小治田宮」と墨書された土器がいくつも出土してますからね。
小墾田寺については、吉川真司氏の論文があり、大后寺と呼ばれて当時の尼寺の筆頭であったと説いていますが、実際、奥山廃寺は四天王寺式伽藍配置であって、回廊は南北66メートルほどあり、蘇我倉山田麻呂が創建した山田寺の金堂より大きく、天智天皇が母のために創建したと推定されている川原寺の中金堂に匹敵する大きさです。
金堂の創建は、瓦の様式から見て620~630年ほどと推定されており、推古没年の628年とほぼ一致します。吉川氏は、小墾田寺は小墾田寺の付属寺院と推測していますが、西本氏は、規模の大きさなどから見て、小墾田宮の中心部分を寺にしたものと見ます。
なお、井上主税氏は、5世紀後半の日本の初期の横穴式石室墳は、埋蔵物から見て、楽浪・帯方にいた漢人を祖先とする中国系百済人の墓だとし、飛鳥周辺のそうした墓を東漢氏を代表とする中国系百済人のものとしています。蘇我氏は、そうした渡来系氏族を配下にし、屯倉を開発していったのであり、その屯倉の地を勢力下におさめて邸を立て、それを宮とし、さらに寺としていったという流れを指摘しています。