聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

渡来系氏族を活用した蘇我氏による屯倉→邸→宮→寺:西本昌弘「桜井屯倉・小墾田屯倉から豊浦宮(寺)・小墾田宮(寺)へ」

2025年03月03日 | 論文・研究書紹介

 先に都と寺との関係を論じた吉川真司氏の論文を紹介しましたが(リンク)、その寺の中には宮や邸を寺に改めたものが多いことが知られています。有力な人が亡くなると、追善のためにその邸を寺にするような場合ですね。

 この問題を、天皇の宮から寺への改修について検討した最近の論文が、

西本昌弘「桜井三宅・小墾田三宅から豊浦宮(寺)・小墾田宮(寺)へ」
(『奈良県立樫原考古学研究所紀要 考古学論攷』第47冊、2023年9月)

です。

 西本氏は、安閑元年(534)に安閑天皇の妃であった巨勢氏の姉妹に対して、小墾田と桜井(向原)の屯倉が与えられたが、蘇我氏が渡来系氏族を活用して山田道沿いに開発を進め、勢力を増すにつれて蘇我氏の管轄下に置かれ、小墾田家と向原家に転化したします。

 『元興寺縁起』は後代の造作が多いものの、年代の不自然なところを訂正すれば資料として使えるとする西本氏は、『元興寺縁起』から、蘇我稻目は、欽明妃となった娘の堅塩媛のために向原邸を向原後宮とし、これを桜井に移して桜井道場(桜井寺)としたこと、向原後宮で育った推古はこの宮を伝領し、後に豊浦宮を豊浦寺としたことが読み取れるとします。

 なお、「後宮」といっても、中国の宮殿に付属する後宮ではなく、妃の邸をそのように表記していたと西本氏は説きます。これだと、隋使の裴世清が倭王の後宮には女が六七百人いると報告した理由が少し推測できますね。

 古代の日本では、皇帝のの巨大な宮殿に多数の妃たちが居住する後宮が設置された中国とは違い、宮殿も掘立柱式でさほど大きくなく、まして巨大な後宮の遺跡などは発掘されたことはありませんが、複数の妃の邸があってそれぞれに女性を中心としてお仕えする者たちがある程度いた場合、それらをひっくるめて後宮と称し、「白髪三千丈」式に大げさに表現すれば、「後宮有女六七百人」といった記述が生まれるかもしれません。

 それはともかく、推古が推古11年(604)に豊浦宮から新たに造営された小墾田宮に移り、豊浦宮を豊浦寺としたという伝承は、豊浦寺跡から出る瓦がその頃のものであることから立証されます。

 豊浦寺跡からは、石敷など宮の遺跡が発掘されており、豊浦宮跡と推定されていますが、西本氏は、そのさらに下層には桜井屯倉の遺構が埋もれている可能性があるとします。

 そして、小墾田宮は稻目の小墾田邸を改めたものであり、一般に言われるほど新しい中国式の宮殿ではなかったろうと西本氏は推測します。その小墾田宮は、推古の没後に寺に改められたのであって、その小墾田寺が現在の奥山廃寺だと西本氏は説きます。奥山廃寺からは、「小治田宮」と墨書された土器がいくつも出土してますからね。

 小墾田寺については、吉川真司氏の論文があり、大后寺と呼ばれて当時の尼寺の筆頭であったと説いていますが、実際、奥山廃寺は四天王寺式伽藍配置であって、回廊は南北66メートルほどあり、蘇我倉山田麻呂が創建した山田寺の金堂より大きく、天智天皇が母のために創建したと推定されている川原寺の中金堂に匹敵する大きさです。

 金堂の創建は、瓦の様式から見て620~630年ほどと推定されており、推古没年の628年とほぼ一致します。吉川氏は、小墾田寺は小墾田寺の付属寺院と推測していますが、西本氏は、規模の大きさなどから見て、小墾田宮の中心部分を寺にしたものと見ます。

 なお、井上主税氏は、5世紀後半の日本の初期の横穴式石室墳は、埋蔵物から見て、楽浪・帯方にいた漢人を祖先とする中国系百済人の墓だとし、飛鳥周辺のそうした墓を東漢氏を代表とする中国系百済人のものとしています。蘇我氏は、そうした渡来系氏族を配下にし、屯倉を開発していったのであり、その屯倉の地を勢力下におさめて邸を立て、それを宮とし、さらに寺としていったという流れを指摘しています。


古代における仏教の中心地としての都:吉川真司「日本古代の仏都と仏都圏」

2025年02月22日 | 論文・研究書紹介

 最近では都城制に関する研究、都と地方を結ぶネットワークの研究が盛んになっていますが、古代日本の都を「仏都」と位置づけ、その勢力圏を論じた論文が、

吉川真司「日本古代の仏都と仏都圏」
(堀裕・三上喜孝・吉田歓編『東アジアの王宮・王都と仏教』、勉誠社、2023年)

です。

 文献研究を進めるだけでなく、考古学にも通じている吉川氏は、7世紀の倭京から8世紀の平城京に至る倭・日本のミヤコは、政治・経済の中心となる王都であると同時に、王権によって交流された仏教の根拠地でもあって「仏都」と位置づけることもでき、その周辺地域も仏都の影響を受けていて他の地域と異なる特色を持っていたとします。

 平城京に至る諸地域で営まれた都も「小さな仏都」であって、仏都の最大のもののは平城京だが、長岡京は平城京の寺院が移されず、さらに平安京となると、東寺・西寺しか寺院が認められなかったため、旧都の平城京がそれを補完せねばならず、平城京は「純然たる仏都」として存続していったと見通しを語ります。

 「仏都圏」というのは、吉川市が考案した用語であって、仏都を支える社会的・経済的基盤となった地域のことです。これは、「首都圏」という言葉に示唆されたものである由。

 吉川氏は、官大寺の僧尼たちは寺と山林で活動するだけでなく、その寺と関係が深い地域を行き来し、法会をおこなっていたこと、しかも、その地域は、播磨・紀伊・陸奥・近江その他、かなり限られていたことに注意します。

 その関係性を示す一例として、吉川氏は、飛鳥・白鳳期の寺院の数とその地域の人口の比を取り上げます。寺院の数は1983年の奈良国立文化財研究書の目録によっています。これ以後、各地で寺の遺跡が発見されていますが、全国にわたる発掘状況の報告としては、今も価値があるとして使うのです。そして、最近の人口研究の成果を踏まえて作成したのが、下の図です。

 A級の国は2000人以下に1寺院、B級は2~4000人に1寺院、という具合であって、一番少ないF級は16000人以上に1寺院となっています。見れば明らかなように、A級は大和・近江・和泉・河内・山城であって、畿外であるにもかかわらず、近江が第二位になっていることが注目されます。

 B級は、紀伊・播磨・尾張・摂津・讃岐・備前・飛騨であって、畿内の摂津が入っており、順位が低くなっています。C級のうち、伊勢はB級の最下位に近いため、準B級とみなされます。また、飛騨については、飛騨匠の存在による可能性が大きいため、考察から外すとします。

 こうして見ると、九州の少なさが目立つものの、渡来人が多い豊前、国際交渉の玄関口である筑前は、さすがに多少は多くなっています。九州王朝論者によると、九州王朝は強大であって東国にまで勢力を及ぼしていたそうですが、仏教先進国であって隋と仏教外交をしたはずなのに、この結果によると、寺には興味がなくてあまり建てず、臣下であった大和王権に建築や瓦作成の最新技術を下付した、ということになります。なんと寛大な王朝なんでしょう!

 吉川氏は、尾張・讃岐・備前などを仏都圏に含めることについては異論があるだろうが、『延喜式』が「近国」としている17国に、尾張・備前は含まれています。問題は讃岐ですが、奈良時代における諸大寺の寺領を見ると、尾張・讃岐・備前は入っていると説きます。

 そして、法隆寺領と上宮王領、大安寺領と舒明・天武天皇領、興福寺領と藤原鎌足領の関係が推測されるとし、上記のような地域は、王都の強い影響下にあって社会的・経済的に王都を支えた地域だと論じます。

 なお、平安京内には東寺と西寺しか認められなかったが、都の郊外には王族・貴族の寺が乱立し、その結果、平城京と並ぶ仏教の中枢地となったと吉川氏は説き、東国などと結び着いていた延暦寺は、それまでとは異なる存在だったと述べています。


最新の調査でわかった救世観音像の異様な生々しさは聖徳太子の写実:石松日奈子「夢殿秘仏救世観音像考(一)」

2025年02月17日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺の仏像については、時々、最新機器による撮影や調査がおこなわれ、新しい知見が発表されています。NHKが2020年に救世観音を精細な8K映像で撮影した際、その合間に専門家としておこなった調査をまとめたのが、

石松日奈子「夢殿秘仏救世観音像考(一)―二〇二〇年の調査から―」
(『聖徳』第252号、2024年7月)

です。

 石松氏は、フェノロサが無理に夢殿の扉を開けさせ、秘仏を発見したとする通説は誤りであり、明治政府の命令によって岡倉天心が主導して調査したのであって、フェノロサは同行者にすぎなかったという話から始めます。

 その救世観音像がクスノキの一木造りで造られていることは有名ですが、石松氏は、この像には一木造りに対して異様なこだわりがあることを強調します。持ち物なども同じ木から造られているのです。

 彩色も独自です。表面に漆を塗って目止めをし、白土で下地をつくり、その上に金箔を押しています。髭は、金箔の上に太く描いており、朱に塗られた唇の下にくぼみが造られ、そこから顎に伸びる髭が塗られていました。写実的なのです。現在の姿でも異様に生々しいですが、制作当初はもっと人間のような生々しさを持っていたと石松氏は説きます。造形で一番似ているのは、山口大口が650年に造った四天王像であって、百済観音像などは王冠なども大きく異なっている由。

 大きさは180センチほどであって、これは「尺寸王身」と言われ、太子等身で造られた金堂の釈迦像が立てば175センチほどであるのに似ているそうです。

 冠は青色のや歩揺で飾られた豪華なものであって、仏像のかぶりものというよりは、冠そのものである由。これは古墳から出る冠と似ており、高句麗・百済・新羅の三国時代の朝鮮の古墳から出る冠と共通する要素があるため、そうした仕事をする渡来系の工人の作と見ます。

 このため、石松氏は、釈迦像が如来形の太子であるのに対して、救世観音像は菩薩形の太子を形づくったと見ます。この論文は続篇が出るそうなので、楽しみです。


四天王寺に関する時代無視の想像説:藤谷厚生「古代宗教と寺院建立の謎」

2025年02月12日 | 論文・研究書紹介

 後代の史料にも、古い時代の貴重な伝承が含まれていることがあります。ですから、後代の史料だとして考慮しないのは正しくないのですが、明らかに後代の史料を全面的に信じて古代を描こうとすると、空想を重ねた説になります。最近のそうした一例が、

FUJITANI Atsuo, The Ancient Religion and Mystery of Temple
Construction :The Religious Strategies Towards the Mononobe
Clan by Prince Shotoku[藤谷厚生「古代宗教と寺院建立の謎-聖徳太子の対物部氏に関する宗教的戦略-」]
(『四天王寺大学紀要』第74号、2024年9月)

です。藤谷氏は、大阪大学の印度哲学科卒で龍谷大学大学院博士課程で学んだ仏教学者であって、律その他の分野について幅広く研究して論文も多く、文献の地道な翻刻・解題も多数発表している学者ですが、四天王寺大学に勤務しているせいか、この論文では四天王寺に関する神秘説を真に受けすぎてますね。

 この論文では、仏教尊重の蘇我氏と聖徳太子は、祭祀を担当して権威を保っていた物部氏の守屋を打ち倒した後、玉造に四天王寺を建てたが、物部氏の宗教的な権威を打倒するため、その宗教的な拠点であった荒陵の池の青龍を祀り、荒陵の東を壊して四天王寺を移したと説いています。

 しかし、これは平安時代の偽作として有名な『御手印縁起』の記述に基づいたものです。また、藤谷氏は、物部氏の祭祀の柱として『十種大祓』をあげていますが、平安時代の作と見られている『先代旧事本紀』に見えるものであって、とても古代の頃のものとは考えられません。『古事記』『日本書紀』に見える祓の類より進展していることは、見れば明らかです。

 しかも、藤谷氏は、四天王寺の建立によって物部氏が頼ってきた龍脈を断ったとし、この話は「taoist Feng Shui Philosophy(石井訳:道教の風水哲学)」に基づいて作られたなどと論じています。風水説は道教思想にも取り入れられますが、もともとは別のものです。この論文を読んでいると、何でもかんでも道教で説明しようとした福永光司の頃の道教ブームを思い出してしまいます。

 荒陵(あらはか)の「あら」は、新しい、あるいは、威力がある、という意味だと普通は解釈されていますが、藤谷氏は、この地が物部氏の宗教的拠点だったとするために、物部氏の「あら」という人物の陵だったと推測します。となれば、きわめて有力な人物ということになりますが、物部氏の古い伝承を伝えると称して作成された『先代旧事本紀』でもそうした人物はいません。

 つまり、大山誠一氏の場合もそうでしたが、強引な推定をやると、それを支えるために次から次へと強引な推定を重ねていくことになるのです。


推古朝の礼制改革は隋が手本ではなく南朝や朝鮮諸国を参考に:榎本淳一「推古朝の迎賓儀礼の再検討」

2025年02月06日 | 論文・研究書紹介

 推古朝の改革は隋を意識してのものであることは良く知られていますが、隋を模範としたのかという問題に取り組んだのが、

榎本淳一『隋唐朝貢体制と古代日本』「第二部第一章 推古朝の迎賓儀礼の再検討」
(吉川弘文館、2024年)

です。

 古代の中国と日本の関係に関する研究を進めてきた榎本氏は、中国は「礼」の社会であるため、中国と交流しようとする国はその「礼」の規制を受けざるをえず、また国内で改革を勧めるには中国の礼制を受容せざるをえなかったとしたうえで、周辺諸国は長い独自の伝統に基づく中国の礼制をそのまま受け入れることはできないため、選択的、かつ段階的に、変容をともないながら受け入れていったのであって、倭国も例外ではないと説きます。

 『日本書紀』によれば、隋使の裴世清を迎えた倭国の諸臣たちは、冠位十二階で定められた冠とそれに対応する朝服を着用していました。つまり、この時の衣冠は、迎賓儀礼の整備と呼応した形で行われた可能性が強いのです。

 これらの礼制に関する改革は、すべて初回と第2回の遣隋使の間に実施されており、まるで隋使の来訪を想定したうえでの改革がなされています。初回に制度の不備を叱られた際、隋による査察が約束されていたのか、それとも、改革状況を示すために倭国が来訪を要請したのか。いずれにしても、改革が終わった後に遣隋使が派遣され、隋使がやってくるのです。

 その迎賓儀礼には、隋の儀注である『江都集礼』が用いられたとする説が有力でしたが、この書は隋の国家的な儀礼を記した注ではなく、礼制の沿革・故事、南朝系の礼論の精華をまとめたものであることを発見した榎本氏は、この書によって対応したとする説を否定します。

 榎本氏は、衣冠にしても、中国南朝ないし朝鮮諸国の影響が強いことに注目し、迎賓儀礼を含む推古朝の礼制のモデルは、隋のそれでなかったらしいとするのです。

 『日本書紀』推古12年9月条では、「朝礼を改め」、宮門を出入りする際は匍匐するよう命じていますが、隋唐には宮門についてはこうした礼はないため、日本の古来の習慣が用いられたとされてきましたが、榎本氏は、そうであれば「改め」とは言わないだろうとし、中国でも匍匐は古くは喪礼などに見られ、また唐代にも敬意を示すために匍匐をおこなった例があることに注意します。

 そして、『南斉書』によれば、皇帝に対する敬意を示すために門で匍匐する礼があったことを示します。これは、聖徳太子の仏教の手本は、梁の武帝だけでなく、その前の南斉の皇子である蕭子良でもあったとする私の説と合致しますね。

 榎本氏は、「あぐら」を「呉床」とする表記、南朝の影響が強い百済から渡来した工人が「呉橋」を作ったこと、小墾田宮は隋唐の都と違って正方位でなく、これは南朝の建康でも同様だったことなどに注意します。

 また、遣隋使を迎える際、倭国は飾船で迎えていますが、内陸の洛陽・長安などを都とする隋唐ではそうした儀礼はなく、東南アジアの赤土国や新羅では飾船で迎える例があることから見て、これは海に近い建康を都として外国の使を迎えた南朝の儀礼ではなかったかと推測します。

 そして、『日本書紀』と『隋書』の記述の違いについては、数字から見て、『隋書』はおおざっぱな概数であって、『日本書紀』の方が具体的であり、『隋書』は数字が大きい傾向があることを指摘します。つまり、『日本書紀』が実際の数字であって、『隋書』の記述は大げさになっている可能性があると見るのです。

 また、『唐会要』によれば、舒明朝に倭国におもむいた高表仁は、「王」と礼を争った結果、太宗の朝命を伝えずに帰国したため、蛮夷を扱う才がないとされ、これ以後、国交が絶えたと記されていますが、その前の裴世清は、きちんと朝命を伝えています。

 『隋書』によれば、隋は倭国を朝貢国扱いして訓戒したような書き方ですが、『日本書紀』によると隋使が天皇の取り次ぎの者にうやうやしくお渡したように書かれていて矛盾していますが、この参考になるのが、高句麗の例です。

 『唐書』によれば、高句麗に派遣された李義琰は、坐ったままの国王を叱って対応を改めさせたのに対し、弟の李義琛は坐ったままの王の前で匍匐して拝したため、世間は兄弟の優劣を論じたとされています。しかし、李義琛は兄より劣っているとされたものの、朝命を伝えており、高表仁のように非難されてはいないことに榎本氏は注意します。

 つまり、外国に派遣される使節にとって重要なのは、朝命を伝えることであって、その伝達儀礼の際、中国側の使節が相手国のやり方に多少妥協することはあり得たわけです。

 このことから、榎本氏は、『日本書紀』も『隋書』も自国に都合良く書いてあり、『日本書紀』では「倭王」を「倭皇」に改めたりしているものの、『日本書紀』では隋の国書が「皇帝問」という臣下あての書式であったことを記し、「朝貢」という語もそのまま用いていることから見て、全面的な書き換えはしていないと見ます。舒明朝の時に唐使ともめたのは、倭国がそれまでの国書伝達のやり方を踏襲しようとしたため、と推測するのです。

 いや、当時の状況がかなり見えてきましたね。


大臣を群臣の上に立つ存在と位置づけたのは冠位制度の成立と同時:鈴木明子「冠位十二階と大臣」

2025年02月01日 | 論文・研究書紹介

 冠位十二階については、10年近く論文が出ておらず、新しい視点の研究が望まれていましたが、ようやく出ました。このブログでは何回か論文を紹介した鈴木明子さんの最新作、

鈴木明子「冠位十二階と大臣」
(『日本歴史』第921号、2025年2月)

です(鈴木さん、有難うございます)。

 鈴木さんは、大和政権の中枢では、最高級執政官である大臣・大連が並び立ち、参議・奉宣を職掌とするマヘツキミ(漢字表記は大夫・臣・卿)とともに合議体を形成していたとされていたことから話を始め、この合議体のあり方に関する諸説を紹介していきます。

 この論文の特徴は、新羅の貴族合議体と比較していることであって、新羅の場合、合議体の統括者の地位が定めるのは官位制の確立と密接に関連しているとし、この点を日本と比較していきます。

 まず、日本の大臣の位置づけから見ていきますが、『日本書紀』の宣化元年(536)五月辛丑朔条では、大王― ● ―、蘇我大臣稻目― ● ―、物部大連麁鹿― ● ―、という具合で、三者がそれぞれ指揮系統を持っていることに注目します。それが欽明朝になると、大王が大臣を派遣するという形が見えるようになります。

 さらに推古朝になると、天皇― 皇子(皇太子)・大臣 ― 群臣 という構造が登場しており、この形は欽明朝あたりから確立していったとみられるとします。こうなると、天皇が大臣を直接派遣するといった記事は見えなくなります。

 また、推古朝以前では御前会議であって、大臣・大連が中心となって発言していますが、推古朝では御前会議はなくなります。天皇は合議に臨席しなくなるうえ、大臣も発言しなくなるのです。つまり、大臣は群臣の筆頭となって合議を主催し、とりまとめる統括者となったのですね。鈴木さんは触れていませんが、これは女性の推古が天皇であったこととも関係するかもしれませんね。

 そうなると、大臣は、他のマヘツキミたちの中の最上位者ではなく、彼らの上に立つオホマヘツキミの立場となるわけで、この時期には群臣のうちの誰かが合議でこれまでの大臣の代理をつとめる例が増えていきます。こうした変化は殯宮儀礼でも見られ、推古20年の堅塩媛の殯宮儀礼では、天皇と大臣の誄を群臣が代行しており、皇子たちはそれぞれ自分で誄をしています。

 また、大臣自身が天皇に奉宣することはなくなり、群臣がその役をつとめるようになります。外交の場でも同じですが、重要なのは、新羅征討の例が示すように、群臣が新羅を討つか使者を出すかでもめ、遣使の方向で事態が進行していったにもかかわらず、大臣が合議の結論を超えて征討を命じていることです。つまり、群臣より格段に上の立場とされるようになったのです。

 鈴木さんは、この形が確立したのは、物部守屋大連が亡んでからのこととし、大臣が群臣の中の最上位ではなく、群臣を超えた立場に立つことを明確に規定したのが、大臣が群臣に位を冠を与えた冠位十二階だと見ます。このため、大臣の地位は世襲となり、大臣固有の紫冠も定められたのです。これが大化以後、官位制に含まれる左右の両大臣制度に変化したと鈴木さんは説きます。そして、そうした冠位十二階とセットになったのが「憲法十七条」だとします。

 この大臣・群臣の形は、新羅の貴族合議制において、「大等」と呼ばれる構成員たちのちの上に上大等(上臣・大臣)が立つのと同じであり、新羅の影響と鈴木さんは見ます。

 ここで大事なのは、そうした冠位十二階は、「憲法十七条」とセットであって、「憲法十七条」が説いている合議の形と密接に結び着いているとしていることです。
 
 新羅では、王権が専制化していき、貴族たちの中のトップであった王が、貴族会議を超越した立場になっていくにつれ、その王の下で貴族を率いる上大等が登場しており、それまで貴族たちがそれぞれ「王」と呼ばれていたのに、そう呼ばれる人が限定されてゆき、単独の「王」が誕生していきます。日本の変化もそれと同様と鈴木さんは見るのです。

 ここで思い出されるのは、私の最初の「憲法十七条」論文です(こちら)。その論文では、「憲法十七条」が説いている国家を治める「聖」とは蘇我馬子のことだ、と推測していたことです。群臣の合議を媒介にして聖臣である馬子が政策を定め、それが「天」である「君」の絶対的な「詔」として、「地」である群臣やその下の役人たちに下されるという形を想定したのです。

厩戸皇子が「聖」であることが強調されたのは推古朝の早い時期からのように思われますので、「推古―(聖なる)皇子・(聖臣である馬子)大臣―群臣」、あるいは、「推古・(代行する聖なる)皇子―(聖臣である馬子)大臣―群臣」という構造を検討してみる価値がありますね。


長屋王との対立を重視した道慈の研究書:曾根正人『道慈』

2025年01月22日 | 論文・研究書紹介

 前々回、道慈が『日本書紀』の仏教公伝から推古朝の興隆に至るまでの記事を書いたとする宮﨑健司氏の論文を紹介しましたが、ほぼ同時期に、まさに道慈に関する単行書が出版されています。

曾根正人『道慈』
(吉川弘文館、人物叢書、2022年5月)

です。2007年に刊行された『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館:歴史ライブラリー)では、「聖徳太子はいなかった。聖徳太子に関する記述を含め、『日本書紀』における仏教記述を書いたのは道慈だ。三経義疏を含め、太子関連の記述はすべて後代の作だ」という大山・吉田説が盛んであった時期であったものの、曾根さんは着実な考証に努め、三経義疏については井上光貞先生の説を受け継ぎ、三経義疏は太子をトップとする渡来僧などの学団の作とする見解を示しました。

 以後、私がコンピュータによる語法分析などをを行い、三経義疏は太子作と見てよいことを論じるなかで、曾根さんは太子そのものについて語るのは控え、仏教学そのものの研究に打ち込んでいかれたようですが、奈良仏教を考えるうえで重要な道慈に関する研究をまとめたのが本書です。

 『続日本紀』では、重要人物については卒去記事を載せており、特に重視していた人物については卒伝を付していますが、僧侶で卒去記事があるのは道昭・義淵・道慈・行基・玄昉・鑑真・道鏡・良弁の8名だけであり、そのうち、卒伝まで付されているのは、道昭・道慈・行基・玄昉・鑑真・道鏡の6名だけです。道慈がいかに尊重されていたかが分かりますね。
 
 その道慈は、卒伝があげている著作の『愚志』では、日本仏教のあり方は正しくないため、中国仏教にならうべきだと主張しており、この点について曾根さんは、「こうした現状批判は問題意識は、史料の信憑性という点からは確実な事蹟をほとんど確定できない厩戸王(聖徳太子)を除けば、道慈以前には見えない」と、曾根さんは「はしがき」で述べます。

 「厩戸[うまやど]王」などという言い方をしているのは問題ですし、聖徳太子については、確実は事蹟は不明とする点はともかく、曾根さんが道慈をいかに重視しているかが分かりますね。

 ただ、初期の仏教について「当時の日本仏教は、氏族単位で仏教を受容し、個々の氏族が自氏族のために仏事を行って、見返りの利益を祈願する『氏族仏教』であった」とし、蘇我氏の仏教も「目的は自氏族の利益追求であって、日本国家の利益ではなかったのである」と断言するのはどうでしょうかね。

 少し前に紹介した藤井夕起子さんの「氏寺考」(こちらhttps://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/cd678aa2f17cb52528d956c469a25724)では、初期は個人の病気治癒や特定の人の追善などが寺の建立の目的とされていたのであって、氏族のためという点が明確になるのは後になってのことだと論じられていました。

 また、私が早くから強調してきたことですが、当時の氏族は天皇(大王)が代わるたびに祖先の天皇奉仕を強調してその役割を再任されるという形でした。「国家」という言葉が古代では天皇を意味することがあったように、天皇と国家は一体視されており、その天皇の長寿を祈ることは、氏族の役割を確保することでした。となれば、氏族の繁栄を祈るためには天皇の長寿・健康を祈らねばならないことになります。

 実際、中国の造像の碑銘は、皇帝(やその親族)の奉為を祈り、その後で祖先・両親、自分たちの幸いを祈るものが多かったのです。天皇家が勅願寺を建立シ、国家が主導して全国の仏教を管理するのは確かに後代になってからのことですが、日本の初期の仏教は氏族仏教であって国家仏教ではないとするのは、適切ではないのです。

 曾根さんが、中国における国家の仏教管理を学んで来た道慈の帰国後の活動を重視するためであり、それは適切なのですが、それを基準にして日本の受容期の仏教を判断するのは当たらないでしょう。
 
 道慈は三論宗の僧として知られていますが、曾根さんは法相教学にも通じていたと説きます。三論宗と法相宗は争っていたため、相手の主張に通じていたのは当然ですね。この辺に関する曾根さんの記述は、史学の人が仏教学の成果を学んで概説しているという感じではなく、実際に当時の仏教文献や関連史料を見ていることが分かります。

 そして、道慈の留学時代は、玄宗が仏教への管理を強めた時代でした。曾根さんは、『金光明最勝王経』は道慈以前に日本にもたらされていた可能性を認めたうえで、これを国家仏教の根本としたのは道慈と推測します。そして、さらに着目するのは、この当時の唐で注目をあびつつあった密教であって、曾根さんは道慈と密教の関わりを重視します。

 そして、道慈が帰国した頃の権力者であって藤原不比等の仏教政策は、建て前と実態が乖離していたとし、不比等没後に政権を担当した長屋王も同様だったとします。そして、剛直な性格であって、唐代仏教を見て来た道慈は、そうした状況に不満であり、長屋王と距離をとっていたことを論証していきます。

 長い留学経験のある学僧でありながら、道慈が僧団を管理する僧綱に就任したのは、長屋王の変のわずか数ヶ月後であることは、仏教政策に関する長屋王と道慈の意見が対立していたためとみるのです。

 ただ、その道慈も、玄昉が唐の留学から帰って来ると、道慈を上回る褒賞を受け、すぐに僧綱となったため、その地位が下がっていったと曾根さんは説きます。

 密教との関係、大安寺での活動など、曾根さんは新しい発見を記していますが、聖徳太子ブログとしては、不比等・長屋王・道慈がたくらみ、ぱっとしない厩戸王をモデルにして律令制における理想の天皇像を作りだしたとする大山説、また道慈の役割を強調して大山説を補足した吉田説を曾根さんが意識し、それに触れない形で否定する材料を出していることは明らかですね。 


道慈が『日本書紀』の仏教公伝・興隆記事を書いたと決めつけた論文:宮﨑健司「「仏法東帰」考―大仏開眼への道程―」

2025年01月16日 | 論文・研究書紹介

 このところ『先代旧事本紀大成経』を調べていますが、『大成経』は、日本が種子を生じ、震旦は枝葉を現じ、天竺は花実を開いたのであって、花は根に「帰」るように仏教・儒教が日本に伝わり、日本が根本であることを示したと上宮太子が推古天皇に上奏した、と主張したとする吉田神道の説を受け継いでいます。

 問題は「帰」という点です。これについて考える材料となるはずながら、今頃になっても道慈が『日本書紀』の仏教公伝や興隆に関する記事を書いたとする古い説に縛られ続けたため、成果を出すことができなかった最近の論文が、

宮﨑健司「「仏法東帰」考―大仏開眼への道程―」
(『大谷大學研究年報』第74号、2022年6月)

です。奈良朝の写経などに関する堅実な文献史学者である宮﨑氏は、東大寺の盧舎那仏開眼供養について『続日本紀』が「仏教東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也」と記していることに注目します。

 そして、仏教が東に伝わることを述べる際は、「東漸」「東伝」「東流」などの語を使うのが普通だが、これらの語は経律論などの仏典に見いだすことはほぼできないとし、「数少ない例」として、仏陀跋陀羅訳『達摩多羅禅経』巻上、失訳の『薩婆多毘尼毘婆沙』巻第八に「東流」が見えるとします。

 しかし、『達磨多羅禅経』はインドの修禅者の説を中国でまとめたものであって純然たる経とは言えないうえ、宮﨑氏が示している箇所は中国で書かれた「経序」に当たる部分であるため、これを経典扱いすることはできません。後者も「序」の部分であって、律の記述とみなすことはできないのです。このあたりで、読んでいて不安になってきます。

 それはともかく、宮﨑氏は、中国や韓国の仏教文献では「東漸」「東流」などの用例があることを示し、「東帰」は例がないことに注意します。これは重要な指摘です。

 ただ、開眼会の予定日だった四月八日は言うまでもなく降誕会の日であり、天平勝宝四年(752)は『日本書紀』欽明天皇の公伝記事から200年目であるから、この日が選ばれたとします。その公伝記事では、百済の聖明王が臣下を欽明天皇時の倭国に派遣し、「帝国(日本)」に仏教を「奉伝(お伝え)」して「畿内に流通」させることにより、「果仏所記我法東流」のためだとしています。

 つまり、仏が「自分の法は東に流れていく」と予言したことを果たすためなのだ、と聖明王は宣言したとするのです。しかし、「奉伝」を「お伝え申し上げる」の意味で用いるのは、変格漢文です。また、「果仏所記我法東流」の「仏所記」とは、仏が予言したということであって下の句にかかっています。

 仏が予言なされた「我法東流」という事態を果たすため、という構文ですが、「所」は尊敬の「らる」の表記にも見え、そうなると、「仏が予言された「我法東流」を果たすため」ということになります。いずれにしても、漢文としてはこなれない表現です。

 『日本書紀』の編者の作文にしても、元になる百済の史料があって、それを改作したのか、ゼロからでっちあげたのか。古代韓国の文献には変格語法が多いですが、中国との交流が深い百済が倭国に送る国書であれば、まともな漢文となりそうですので、聖明王のこの文書は、元の文書があったにせよ、現在の形は日本で大幅に書き換えた和風の変格漢文ということになるでしょう。

 しかし、宮﨑氏はそうしたことには配慮はせず、公伝に関するまとまった研究として吉田一彦さんの研究をあげ、公伝記事が長安の西明寺で訳された『最勝王経』などを利用しているのは、この寺に留学した後に帰国した道慈であったとします。吉田さんのこの研究は、道慈は博学であって文才があったことを前提としており、和風漢文などには注意していません。

 公伝記事から廃仏を経て推古朝の仏法興隆までは「末法、廃仏、廃仏との戦い、仏法興隆」をモチーフとした創作だとする吉田説を評価する宮﨑氏は、吉田氏同様、文体に注意せず、「一連の構想のなかで道慈によって意味づけられていったと考えるのが自然」と説きます。

 しかし、『最勝王経』は道慈以前に将来されていたとする説も有力ですし、道慈関与説はいろいろな人によって否定されています(たとえば、こちら)。中国に長年留学し、経典の講義もした学僧であって漢文には通じいたはずなのに、公伝記事を含め、『日本書紀』の初期の仏教関連記述は倭習だらけであることが指摘されています。

 そのうえ、かつての吉田説では、道慈は聖徳太子関連の記述も書いたとされていました。吉田氏は多くの反対を受けてこの説を明確に主張しなくななりました。宮﨑氏は、聖徳太子関連記述=道慈作文説には触れていませんが、その点はどうなるのでしょう。説明がほしいところです。

 宮﨑氏は、経典自身が仏教が東に広まると説いた箇所はないとし、『大般若経』では「於東北方当広流布」とある箇所を、『大般若経』にも通じていた道慈が日本に合わせるために「東北」を「東」に改変したと説きますが、道慈が『日本書紀』の仏教記事を執筆していなかったら、これらの推測はすべて空論となります。

 後半では、慧思後身説がとりあげられ、聖武天皇が聖徳太子を意識し、自らを太子の転生と意識していたと推測し、聖武天皇が出家して「沙門勝満」と名乗ったのは、平安時代の太子伝が太子を勝鬘夫人の転生として「仏弟子勝鬘」と名乗らせたことに注意しています。こうした信仰が奈良時代からあれば、面白いのですが、そうした記録はありません。

 宮﨑氏は、道慈自身が太子=慧思後身説の信奉者であったとする論文に触れ、結論としては、「道慈はその知識を駆使して『日本書紀』のなかに仏教公伝記事を位置づけたのである」と断定しています。そして、聖武天皇は道慈が書いた一連の記事を読んで聖徳太子の役割を学んだであろうと、推測を重ねていってます。困りましたね。

 道慈に関する最近の単行の研究書は、この論文とほぼ同時期に出た曾根正人『道慈』(吉川弘文館、2022年5月)ですが、曾根さんは、道慈が『日本書紀』の仏教公伝・興隆記事を書いたなどという説については、まったく触れていません。つまり、とりあげて批判するだけの価値も無い、とみなしているのです。むろん、道慈が『日本書紀』の聖徳太子関連記事を書いたなどという説には全く触れません。次回はこの本を紹介しましょう。


四天王寺の段階的整備と支えた渡来系氏族:谷崎仁美「四天王寺の伽藍造営からみた難波の地域的特性」

2025年01月11日 | 論文・研究書紹介

 四天王寺の研究は法隆寺に比べて少ないですが、瓦の調査によってこの数十年でかなり整備の様子が分かってきました。その代表的な研究者の一人である谷崎仁美氏の最近の論文が、

谷崎仁美「四天王寺の伽藍造営からみた難波の地域的特性」
(日本高麗浪漫学会監修、須田勉・新井秀規編『古代渡来文化研究2 古代日本と渡来系遺民―百済郡と高麗郡の成立―』、高志書院、2021年)

です。

 谷崎氏は、四天王寺については3段階の画期があるとし、第一は620年前後と考えられる創建、第二は孝徳朝の640年代後半の難波宮遷都にともなう伽藍整備、そして第三は最近になって谷崎氏などが中心になって解明しつつある660年代の伽藍整備です。

 第二の時期は、左大臣がみずから塔内を荘厳しているほどであり、難波宮とならぶ官寺として整備が進められた時期です。第三は、百済寺(堂ヶ芝廃寺)の創建とともに伽藍整備が進められたもので、創建にならぶほどの大事業であった由。その後、聖武天皇の後期難波宮遷都にともなって伽藍の大修造が行われますが、ここでは略します。

 まず、創建期は金堂と塔が建立され、講堂や周辺施設はそれより遅れることが判明しています。講堂・中門・回廊は一連の造営計画によって着工されたものの完成は遅れ、660年から670年代に完成してからは、平安の初期に暴風によってくずれるまで存続していたと推定されています。

 こうしたことが分かってきたのは、平成28年から32年度にかけて四天王寺保管の未整理瓦を調査したことによって明らかになったものです。講堂は660年代、中門は660から670年代に造営が始められており、回廊は中門とほぼ同時期の造営されたらしい由。完成は8世紀前葉と見られています。

 つまり、金堂と塔が建立されてから、講堂や中門・回廊が完成されるまでにかなり時間がたっているのですが、これは難波遷都以後、中大兄などが飛鳥に戻ってしまったためと推測されています。

 660年頃から四天王寺の伽藍整備が進み、8世紀前葉に完成しており、それと同笵の瓦が百済寺・百済尼寺跡から出ているうえ、百済寺・百済尼寺跡からは四天王寺では用いられていない法隆寺式の軒瓦や備中式の瓦も出ています。

 法隆寺式軒瓦が出ている渋川廃寺は上宮王家と関係深い寺であるため、孝徳天皇の官寺となった四天王寺と違い、百済寺・百済尼寺は上宮王家との関係を持っていたこと、難波の在地氏族とによって支えられていたことが推測されます。

 この地域の土地開発を勧めたのは、百済王氏です。新羅からの流入民が東国に配されたのとは違い、百済滅亡の際に亡命してきた百済王氏については、持統天皇5年に百済王善光に100戸の増封を得ていることが示すように、朝廷から優遇されていました。そうした支援を得て百済郡の開発が進んでいくのです。

 それに続く持統6年。四天王寺には寺封250戸が施入されており、この時期から四天王寺にも渡来系要素が増えてくると谷崎氏は指摘します。やはり、これは百済滅亡時に、多くの亡命者たちがこの地域に住むようになったことが考えられるのです。

 ところが、百済王氏が交野に移住するようになると、百済寺・百済尼寺は在地の渡来系氏族によって守られるようになったものの、長岡遷都を経て延暦12年(797)に難波宮が廃絶すると、百済郡は衰退していくことになります。

 このように変転があるなかで、四天王寺が存続し続けたというのは本当に貴重な例ですね。


穏健ながら出典調査が不十分な最近の聖徳太子エッセイ:本郷真紹「古代史を読み解く鍵 「憲法十七条」と聖徳太子」

2025年01月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子はいなかった説が消え、「憲法十七条」についても聖徳太子の作、ないし太子が中心となってのスタッフの作と見る研究者が増えました。ただ、新たな出典を発見するとか、新出の考古学資料と対比するなど、新しい要素がないと、常識的な解釈で終わりがちです。その一例が、

本郷真紹「古代史を読み解く鍵 「憲法十七条」と聖徳太子」
(『歴史街道』2024年9月号、通巻第437号、2024年8月刊)

です。本郷氏は堅実な古代史学者ですが、聖徳太子関連では出典などの発見や、語法分析などはしていないため、常識的な解釈にとどまっている箇所が目立ちます。上記のエッセイは、歴史ファン向けの一般雑誌に載せた短いエッセイであって、研究論文ではないので無理もないのですが、新しい要素はありません。

 本郷氏は、当時は隋の出現により、国内が乱れていると隋に征服される恐れもあったということから話を始め、「憲法十七条」第一条で「和」が説かれるのは、争いや混乱があるためとします。そして、この「和」の状態を作りだすために必要とされたのが第二条で説かれる仏教だったとします。

 これは「日本は本来、和の国であった」などという思い込みの伝統主義的な議論でない点は良いのですが、それなら、なぜ仏教を第一条にもってこないのでしょう。また、本郷氏は「和」は訓は「やわらぎ」だとして上記の議論を展開するのですが、第一条のあの箇所の典故は『礼記』と『孝経』であって、そこでは「和」はハーモニーであることは、以前、指摘し、このブログでも触れました(こちら)。

 ただ、日本では和音を生み出す音楽がが導入されていなかったため、確かに仏教に頼らざるを得なかったのですが、その仏教尊重を第一条に持って来ていないのは、天皇後継や仏教導入といった重要事項を決定するのは群臣会議だったためであり、そこが「和」しないと決定は無理だったからです。「和」しないと決定できないことは、推古の後継をめぐって蘇我蝦夷が主催した群臣会議が示している通りです。

 本郷氏は「詔を承りては必ず慎め」と説く第三条に続いて、第四条で「礼」が強調されているのは。儒教の礼によって天皇崇拝をもたらすためとしています。

 これはもっともなのですが、この書き方だと、仏教は天皇崇拝とは無関係ということになってしまいます。しかし、倭国が模範とした梁の武帝にしても、隋の文帝にしても、仏教を興隆させることによって皇帝としての権威を高めていたことを見逃すことはできません。

 本郷氏は、八百万の神を祀る立場の人が外来宗教を重視する「憲法十七条」を制定するのは不自然と思い、以前は太子作を疑い、蘇我氏がその配下の渡来人とともに制定したと考えていたが、現在では、隋に対する危機感を重視し、国際情勢を考慮して政治改革の一環として仏教を用いたと考えるようになった由。

 本郷氏は、「あくまでも政治的手段として利用がはかられたと考えられるのです」と述べていますが、これに続いて、仏教では治病も重視しており、父である用明天皇も治病のために仏教を受け入れたことが太子に影響を与えたと述べます。

 そうであれば、「あくまでも政治的手段として」という限定は不要でしょう。仏教は医学・建築・美術・製紙(筆)などの技術も含めた一大文化体系でした。そうした面の威力も考慮して受け入れたと考えれば良いのではないでしょうか。「あくまでも政治的手段として」ではなく、「政治的な役割に期待しつつ、様々なな面でも……」で良くないですか? 

 政治と宗教を分離して考えるのは、近代以後の考え方です。我々は古代の人がどのような考え方をしていたかに注意すべきでしょう。

 なお、「憲法十七条」を支える重要な出典としては、大乗の在家向きの菩薩戒の書であって、在家の菩薩が大国王となった際になすべき教訓を説いている『優婆塞戒経』があり、ことのことは私が論文でも書き、このブログでも報告した通りです(こちら)。

 古代の人が美文を意識して漢文を書く場合、典故に基づいて書くのですから、その調査を徹底的にやらないと、現代の常識で判断しての推測で終わりがちなのです。


古代の有力氏族が建立した寺は祖先祭祀と一族繁栄のための氏寺ではない:藤井由紀子「氏寺考」

2025年01月04日 | 論文・研究書紹介

 古代史の論文などを読んでいて気になるのは、「蘇我氏の氏寺である飛鳥寺」といった表現をたまに見かけることです。飛鳥寺は確かに蘇我氏が建立した寺ですが、蘇我氏一門の祖先祭祀と一族の繁栄を願って建てた寺ではないのですから、氏寺とは言えないだろうと私は考えてきました。

 この古代にける氏寺の問題を扱ったのが、

藤井夕起子「氏寺考―寺院縁起文の資料性検討を通して―」
(加藤謙吉編『日本古代の氏族と政治・宗教(下)』、雄山閣、2018年)

です。

 藤井さんは、歴史学では氏寺とは、「氏族の長や氏人が創建した寺、氏族一門の帰依を受けた寺、あるいは氏族結集の象徴」などと理解されているとしたうえで、古代には「大寺」と称された寺でさえ創建の経緯や運営の実態はあ正史に記録されることは稀であり、氏寺を定義する材料は乏しいとします。

 それを補足するのが寺院の縁起ですが、これは特殊な性格のものであって、正確な史実は期待できません。ただ、藤井さんは、そうした縁起を検討することによって、氏寺を氏寺たたしめているのは何かを探ろうとします。

 まず、「氏寺」の語の初出は意外に遅く、『日本後紀』延暦24年(805)正月癸酉条では、定額寺の現状について述べた「制」が、定額寺のことは流記にある通りであって改めることはできないにもかかわらず、「愚人争うに氏寺を以てし、権貴に仮託し、詐りて檀越と称」(漢文)して田畑を売買したりしているため、禁断すべきだと述べている点に注目します。

 そして、『続日本紀』霊亀2年(716)五月庚寅条における寺院統合策に対する詔では、氏寺と称して寺田の獲得に努力するものの、寺については荒廃しても修繕しない者たちの状況が見てとれるとします。

 つまり、早い時期においては、氏寺は私的に建立された寺ということしか分からず、氏族の祈願所などにはなっていない寺も多かったということになります。藤井さんは、平安初期においても、氏族のための祈願と結び着いて建立されたとは限らないと述べます。

 そして、藤原氏の氏寺とされる興福寺さえ、創建の経緯は正史に見えないとし、正史における初見は、『続日本紀』養老4年(720)10月丙申条に、藤原不比等の墓に接地された養民司・造器司とあわせて追善のための北円堂を建立する造興福寺仏殿司を設置したとあることだとします。

 一方、平安時代に作成され、孫引きで引かれた古い縁起「宝字記」では、皇極天皇4年(645)に乙巳の変の聖皇を祈願し、四天王寺に丈六釈迦三尊像が造立されたことにまで遡るとしていると述べます。そして、天智天皇8年(669)にに、藤原鎌足の罹病に祭詞、正室の鑑女王がその仏像を転用して伽藍創建を懇願したところ、山階の地に寺が建てられることになったというのです。

 この「宝字記」については、天平宝字年間(757-765)に作成された『興福寺資材帳』の逸文と見る説もありますが、孫引きで記された箇所しか存在しないのは弱い点です。ただ、「宝字記」の逸文は他にも見えており、その金堂の条には、養老5年(721)に、前年に亡くなった不比等の追善のため、妻であった県犬養橘三千代が金堂内に弥勒浄土変相図を作ったと記されています。

 藤井さんは、西金堂は光明皇太后が、北円堂は元明太上天皇と元正天皇によって建立されたとしていることなどから見て、こうした縁起は、皇族も創建に関与したこと特別な寺であることを示すための記述とします。つまり、縁起を史実と見るのではなく、それが作られた時代の認識・願望を示す資料とみるのですね。

 そして、8世紀から9世紀にかけて宗教を媒介として氏族が確立されてゆく時期に、始祖を仰いでそのもとに結集するという意識が高揚した結果、始祖によって創建された氏寺という伝承ができあがっていったと考えるのです。

 これは面白い議論でした。欲を言えば、中国における造寺造像の碑銘などとの比較もしてほしかったところですが、初期においてはやはり治病と追善が造寺の大きな要因だった、そして、天皇の奉為を祈って功徳を振り向けるという点が大事だったと、私は考えているのです。

 いずれにしても、「飛鳥寺は蘇我氏の氏寺」という言い方は適切でないですね。


「憲法十七条」はなぜ「孝」を強調しないのか:高松寿夫「『日本書紀』の「孝」」

2024年12月31日 | 論文・研究書紹介

 現在、江戸の偽史である『大成経』についてあれこれやってますが、巻70の「憲法本紀」に含まれる『五憲法』が「神」を強調し、「孝」についても「政家憲法」が強調しているのは、『日本書紀』の「憲法十七条」が「神」にも「孝」にも触れていないのを弁明するためです。

 「憲法十七条」が「神」に触れていないことについては、国学者たちから厳しく批判されていました。「孝」に触れていないことは、それほどでもありませんでしたが、江戸期は儒学が幕府公認の学問となった時代です。儒教の徳目が強調されていないとまずいですし、『日本書紀』の他の部分、たとえば仁徳天皇に関する記述では「仁」「孝」であったことが強調されており、儒教的な言説がかなりなされていました。

 では、なぜ「憲法十七条」では「孝」に触れないのか。「憲法十七条」については、末尾の注でちょっと触れただけであるものの、『日本書紀』における「孝」の問題に取り組んだのが、

高松寿夫「『日本書紀』の「孝」―「孝」をめぐる歴史叙述―」
(『国文学研究』第181号、2017年3月)

です。

 高松氏は、『続日本紀』では、大宝2年(702)10月14日に律令を全国に頒布すると、その7日後に、世間で「孝順」な者を出し続けている家があったら、賦役を免除し、「義家」として顕彰するよう命じていることに着目します。律令が頒布されて最初の詔がこれなのであって、これが『続日本紀』における「孝」の初出なのです。

 『続日本紀』では「孝」は80例を超えているものの、『日本書紀』では意外にも12例しかありません。しかも、その初めの9例は、神武天皇以来、天皇の資質などについて述べた箇所です。つまり、「孝」は皇位継承の理由とみなされていたのです。

 神武天皇など初期の天皇に関する記述は、成立が新しいことが知られています。『古事記』ではこうした「孝」は登場しません。このことは、「孝」は『日本書紀』編集の最期頃になって、中国の皇帝に関する記述などを参考にして強調されるようになったことを示すものです。

 『日本書紀』でも、「憲法十七条」には登場しませんし、持統天皇の時でさえ「孝」に関する政策がなされた形跡はないと、高松氏は述べます。「憲法十七条」の第一条では「不順君父」という事態が問題とされていますが、「孝」は説いておらず、人間は対立しがちであるため、「和」と「無忤」によって人間関係を秩序あるものにするよう求めているのであって、「孝」は強調していないと高松氏は説きます。

 高松氏は触れていませんが、私は以前、『日本書紀』は厩戸皇子をあれほど神格化しておりながら、「孝」だとか「仁」だとか説いていないことを指摘しました。そのことが立証された感じですね。

 このことをとって見ても、「憲法十七条」を含めた厩戸皇子関連記述は『日本書紀』の編集の最期の時期にでっちあげられたとする大山説が、いかに思いつきだけであって『日本書紀』の記述を無視した珍説であったかが良く分かりますね。

 なお、「憲法十七条」が「神」にも「孝」にも触れていないことは、神道と儒教が盛んになった江戸時代には問題であっっため、それを説く『五憲法』が偽作されることになるわけです。この問題はきわめて重要ですので、このブログでも、『五憲法』とそれを含む『大成経』を扱うコーナーを作ったわけです(こちら)。


考古学の観点から見て若草伽藍は焼けていないとする論文:竹原伸仁「法隆寺若草伽藍と西院伽藍に関する二題」

2024年12月26日 | 論文・研究書紹介

 先日、少し前の聖徳太子関係の論文を読んでいたら、全般に『日本書紀』の記述を疑う傾向が強く、法隆寺の再建非再建論争もまだ決着したわけではないとして、ある論文に触れていました。

 若草伽藍が焼けたことは確実であるものの、再建された西院伽藍の五重塔の心柱が飛鳥寺建立と同じ頃に伐採されていたこと、金堂では天智9年(670)に焼ける少し前に伐採された板を用いていたことをどう解釈するかが問題だと考えていましたので、驚いてその論文を探してコピーしたところ、20年以上前の下の論文でした。

竹原伸仁「法隆寺若草伽藍と西院伽藍に関する二題」
(松藤和人編『考古学に学ぶ(Ⅱ) 考古学教室開設五十五周年記念』、同志社大学考古学シリーズ刊行会、2003年)

 竹原氏は、石田茂作によって戦時中におこなわれた若草伽藍の発掘調査により、この場所に四天王寺式の創建法隆寺が建立されていたことは確実となり、「赤色焼瓦」や木炭破片などが出土したことから、『日本書紀』の焼失記事の正しさが立証されたと考えられているが、石田はその罹災は天智9年だとは述べていないとします。

 そして、戦後の調査でも大量の焼け土などは発見されていないため、火事はあったにせよ、「一屋無余」と述べる『日本書紀』の記事はそのままは信じられないとします。そして、「一屋」も残らなかったというが、「屋」という単位は、塔や金堂など伽藍の中心の建物には用いず、僧坊や事務機関の建物などに言うのだとし、明治時代に非再建論の平子鐸嶺がその点を指摘しているとしています。

 そして、若草伽藍の礎石が西院伽藍で用いられていること、西院伽藍の瓦には若草伽藍の瓦と似ている古いタイプもあることなどをあげ、移転の可能性は否定できないとします。

 また、五重塔の心柱については、実は昭和27年の調査の段階で推古15年(607)以前に伐採されたことが指摘されていたが、顧みられなかったと述べ、光谷氏の年輪測定によって594年伐採であることが明らかになったことを強調します。こうした指摘が受け入れられず、年輪測定法を疑う傾向が強かったのは、『日本書紀』の記述を信じたためだとするのです。
 
 ただ、竹原氏は、自説にとって不利な事実にも触れており、この点は誠実な態度です。それは、西院の五重塔の心柱は、八角形で差し渡し79センチであるのに対し、若草伽藍の塔の心礎穴の差し渡しは70.5センチであって、これは法起寺三重塔の場合と同じだという点です。これだと、若草伽藍の塔の柱を西院伽藍の五重塔のために転用したとは言えないことになります。

 竹原氏はこれを認め、若草伽藍の塔も法起寺同様、三重であった可能性があるとしています。これはあり得ますが、西院伽藍の五重塔の心柱は下部では不正円形になっていたことから見て、若草伽藍の心柱の接地部分は削る加工がされていて細くなっていた可能性を否定できないとし、また若草伽藍の礎石の上部は明治期に多少破損されていることも考慮すべきだとしているのは、強引すぎますね。

 実際には、以後の調査によって、若草伽藍の金堂には壁画が描かれており、それが焼けた破片が出土してニュースになりました。その展覧を見たことはこのブログで紹介しました(こちら)。つまり、金堂が焼けたことは確実になったのです。

 ただ、竹原氏は、今後、焼けた証拠が見つかる可能性にも触れており、あくまでもその時点での考古学の成果に基づいて考えられる説として述べています。その点、大山誠一氏らは考古学の成果を全く信用していなかったのですから、論外ですね。


物部氏に関する最新の研究書:篠川賢『物部氏』(2)

2024年12月17日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。「守屋の敗北と物部氏の衰退」の章から、最初は「守屋と穴穂部皇子」の節から。

 この節では、守屋討伐に至る過程を見る前に、当時の王位継承の原則について論じています。6~7世紀の大王の婚姻は、多妻婚と近親婚の特徴があったことは明らかです。

 その中でも、河内祥輔説では、王位を子孫に伝えている大王と、一代限りの大王がおり、前者は大王の娘を母とするのに対して、後者ではウヂの娘を母としていると指摘し、特殊な父子直系継承を原則としていたとしています。

 篠川氏は、近親婚をしてはいても、そうして生まれた子が即位するとは限らず、年齢も力量も考慮されたとします。敏達の場合は、竹田皇子が候補となるが、第二子である竹田は、敏達死去の時は高く見積もっても12~3才なので不可となり、中継ぎの大王が必要とされるが、当時はかなりの候補者がいたと推定します。

 こうした複雑な状況において、守屋と馬子が対立するのは当然でしょう。以下、合戦に至る経緯が説かれるのですが、『日本書紀』の文章を細かく分段に分け、「この部分は事実と見ることはできない」「これは事実を反映していると思われる」などとのべることが多く、常識に基づいて判定しているだけであって、判断のための明確な方法がないように思われたことでした。古代は古代なりの考えがあるため、現代の常識がそのまま通用するとは限りません。

 ともあれ、守屋合戦については、舞台が広い地域に及んでいるため、物部氏の勢力がそれらにまで及んでいたことが知られるとしています。そして、物部氏を保守的と見ることはできないとし、守屋が討たれた後も各地の物部、およびその伴造は廃止されずに存続したのであって、それを管轄する職としての物部連も存続したと述べ、ただ勢力が衰えたのは事実であって、物部氏の人物がオホマヘツキミの職位につくことはなかった、と述べます。

 推古の即位については、厩戸への「中継ぎ」であり、欽明―敏達―竹田の系統に代わる欽明―用明―厩戸という新たな王統の形成がはかられたと述べます。厩戸が即位しなかったのは若すぎたためとしています。こうした議論は、最近の大后論などの研究を十分反映していないように見えますね。

 推古紀に登場する物部氏としては、物部依網連抱と物部依網連乙等の2人があげられます。前者は、推古16年に裴世清を朝廷に迎えた際、阿倍鳥臣とともに導き役となったと記されています。

 後者は、推古30年是歳条に見えており、新羅征討の副将軍として「小徳」の乙等の名が見えます。しかし、舒明朝以後、物部氏がマヘツキミの位につくことはなくなります。

 これ以後の時代における物部氏についても検討されていますが、ここでやめておきます。


物部氏に関する最新の研究書:篠川賢『物部氏』(1)

2024年12月11日 | 論文・研究書紹介

 蘇我氏と並ぶ豪族であって、仏教導入に反対したとされる物部氏に関する本が一作年に出てます。

篠川賢『物部氏』
(吉川弘文館、「歴史文化ライブラリー」545、2022年)

 「歴史文化ライブラリー」は、吉川弘文館などから出版された高価な研究書を一般向けにまとめた例が多いです。研究書で書き残したことを補足していることもあるため、こちらの版も読む価値がある場合が少なくありません。

 そうしたこともあってか人気のシリーズなのですが、私が出した世界唯一の「ものまね芸」の歴史書、『<ものまね>の歴史―仏教・笑い・芸能―』は売れませんでしたね。テレビでこれだけたくさんものまね番組をやっているのに。名をあげたものまね芸人・歌手・タレントなどには送ったものおn、返事をくれたのは、団しん也や小堺一機など、ごく一部の人だけだったし。

 愚痴はともかく、本書は『物部氏の研究』(雄山閣、二〇〇九年)を発表している篠川氏が、新たな研究成果を踏まえ、物部氏に関する伝承、実際の成立、全盛期、守屋の敗北と衰退と、幅広く検討しており、有益です。ただ、このブログは聖徳太子ブログですので、太子に関係する部分だけとりあげます。最初は、「全盛期の物部氏」章のうち、「尾輿の登場と欽明紀の「崇仏論争」記事」「守屋と蘇我馬子」の部分を見ていきます。

 守屋の父である尾輿が大連になったことが明白なのは、欽明即位前紀が、大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稻目を大臣とすること故(もと)の如しと記していることです。『日本書紀』では、欽明以前の記述には尾輿が大連に任命されたとする記事はありませんが、これは事実なのでしょう。

 その金村の失脚については、任那四県の割譲事件とは無関係とする説があるものの、篠川氏は、金村が外交問題で失脚したこと、物部氏と対立関係にあったことは事実と見てよいとします。

 崇仏論争については、説話的な語りから見て事実のままとは考えられないとします。物部氏は百済外交に深く関わっていた以上、仏教受容に反対したとは思われないとするのです。そして、物部氏や中臣氏が廃仏派とされたのは、『日本書紀』の編纂段階ではこれらの氏が神祇祭祀に深く関わっていたためだろうとするのですが、推測が多いですね。

 篠川氏は、平林明仁氏の説、つまり、物部氏は仏教の受容それ自体に反対したのではなく、天皇自身が仏教を崇拝すること、また、天皇の許可を得て蘇我氏が仏教を公的に崇拝することに反対したのだという説について、「公私」の区別が不分明だと批判しますが、どうでしょうかね。そうした形が当時の「公私」のあり方だったとも言えるでしょう。

 私は蘇我氏主導で仏教導入が進んでいくという点も、反対理由の一つ考慮して良いと考えていますし、『日本書紀』が説くような形ではないにせよ、仏教に反対する勢力が存在したとしても不思議はないと考えてます。

 次の守屋については、大連の位についたという記事は無い者の、敏達元年に守屋をその職に任命すること「故の如し」とあることから見て、疑う理由はないとします。一方、馬子はこの時初めて大臣に任じられたとしていることも、事実の反映の証拠と見るのです。そして、物部氏に関する記述が少ないことについては、欽明朝中頃からは蘇我氏の勢力が物部氏を上回ったためと説きます。

 そして、守屋・馬子時代の崇仏論争については、その部分の『日本書紀』には話の筋から外れた記述が含まれており、信憑性を考える必要があるとします。馬子が父稻目が信仰した仏を祭ることを許され、石像を礼拝したあるが、石像は馬子が入手して自らが建てた仏殿に置いた石像であるため、いくつかの伝承を結びつけて作成した記事の不自然さを示す例としています。

 そして、『日本書紀』編纂段階で作成された崇仏論争記事のほかに、蘇我氏の仏教崇拝や他の氏の反対という伝承は複数存在していたとし、仏教受容は倭国政権が外交方針として決めたことである以上、蘇我氏だけが仏教を推進したとは考えられないとします。それはそうですが、外交方針として実施されても内部で異論があるのは、現在でも同じでしょう。

 次に、敏達の崩御記事については、文脈からすれば「仏罰ということになるのであろう」と述べています。「仏罰」という語を使う研究者は多いですが、この語は古代には見えていません。そうした語を用いるのは問題でしょう。

 篠川氏の記述のうち、納得できるものとしては、敏達紀に百済から来た日羅のもとに「物部贄子連」など3人を派遣して国政を問わせたとあり、日羅が殺されると「贄子大連」らが埋葬したという記事から見て、大夫(マヘツキミ)であったとし、当時の物部氏は一族から2人を出して政治に参画させていたという指摘ですね。