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(寄り道 熊野古道:7)中辺路 「熊野」の範囲はおおむね、和歌山県の東牟婁と西牟婁、三重県の北牟婁... (寄り道 熊野古道:7)中辺路 「熊野」の範囲はおおむね、和歌山県の東牟婁と西牟婁、三重県の北牟婁と南牟婁の4郡にあたる。かつてはいずれも紀伊国だった。なのに、明治の廃藩置県で、新宮藩が熊野川を境に西は和歌山県、東は度会(わたらい)県(後に三重県)に二分され、熊野は2県に分かれてしまった。 生活圏を切り裂く分割は長州の陰謀という説があるらしい。 三重県側から熊野川の橋をわたると、まもなく熊野速玉大社(新宮市)だ。隣にある佐藤春夫記念館で、辻本雄一館長(70)に陰謀説をぶつけてみた。「証拠はないけど」と前置きして、辻本さんは第二次長州征伐(1866年)にふれた。 この戦いで幕府軍は惨敗したが、洋式銃を備えた新宮藩は長州軍を撃破している。明治になって藩の戦死者の慰霊碑をつくったものの、政府、とくに長州出身者の目を恐れて10年間は立てられなかったのだという。 大逆事件(1910年)では医師大石誠